少年

 わたしの声が君に届かないくらいには、今日もこの街は騒々しい。平和を祈る宗教団体の演説、迷子の子どもが母親を呼ぶ声、若者が薄汚い浮浪者を嘲る声、色んな声が一緒くたになってこの街の喧騒の基盤を作り出している。山ほど人間がいるここで、静かな場所を探そうとするなら、最初から諦めておくことをお勧めする。どこまで行っても人の気配は消えないし、酸素は奪い合いでもしたのかというくらい薄くなってしまっているから、無駄に息苦しくなるだけ。


 嘘つけと思ったのなら、試しに交差点に行ってみればよくわかる。いちど赤信号につかまれば、ちょっとした音楽フェスの観客を体験できるし、三百六十度見まわしたところで、全員の顔を見ることなんてまずできない。青になったら、一斉に人々は好きな方向へと溢れていき、ぶつかって揉まれて、やっとの思いで対岸に渡れる。日本で一番、人口密度の高い街と謳われるだけのことはある。

 この部分だけを聞けば、嫌な街に思われるかもしれないけど、人が多いことはデメリットばかりでもない。歩いている人を見るだけで、ファッション雑誌を買う必要は無くなるし、誰かの会話を聞いているだけで話題にはそれなりについていけるようになる。何かに行き詰まった人も、歩いていればヒントを見つけることができるかもしれない。


 そんな何不自由ない街に生きているくせに君は、寂しそうな顔をしながら何か悩んでいる。街を歩いていても頻繁に立ち止まり、空を見上げては眉根を寄せる。どうしたの、とわたしが声を掛けても無視するばかりで、何も答えてはくれない。そんなに落ち込むようなことがあったなら、家から出なくても良かったのに。

 わたしにさえ言いにくい嫌なことがあったのかもと考えたら、さすがに不安感は増す。頭の中を覗けたら、君の好きな緑色をしたペンキで、見たくない部分を塗り潰して見えなくしてあげれるのに。

「おお、久しぶり」

 雑踏の中で声を掛けられると不思議なことに、ハッキリとその声は浮き上がってくる。

 でも、一瞬、わたしに声を掛けられたと思ったけど、どうやら違ったみたい。後ろに立っていたのは君の友達。何度かあったことある気もするけど、あんまり覚えてない。

 さっきまで暗い顔をしていた君も、友達に会えば無理矢理でも口角を上げて笑う。わたしとの付き合いよりも、友達付き合いの方が大事なのだろうか。

「久しぶり」

「何してんだよ、こんなところで」

「ちょっと買い物」

「そうか、じゃあな! また連絡するぜ」

 街で誰かに会えば、これくらい短い会話で切り上げないといけない。だって、周りはずっと流れていく川みたいなものだから、止まって長話なんてしていればものの五分もしない間に拉げてしまう。

 手をヒラヒラと振りながら去っていく友達に、君はぎこちなく手を挙げて返した。そう、君がそうやって笑うときは無理をしてるって、ずっと見てきたわたしにはわかるんだから。なのに、どうして言ってくれないのかな。


 ハッキリと言ってしまえば、今の君はこの街では場違いも甚だしい。仕事の終わったサラリーマンでも、必死にティッシュ配りをしているアルバイトでも、パンチラなんて気にしていない女子高生でも、みんな何かを抱えているにしても生きるエネルギーが溢れているから。キラキラしていて、今この瞬間を生きていることを感じ取ることができる。でも君は、ずっと何かに引きずられたまま、歩いていてもどこにも進んでいない。立ち止まってばっかりで、呆れてしまう。

 大通りに差し掛かると、泣かない君の代わりに雨が降り出してきた。歩いている人たちは一斉に傘を開きはじめ、街は瞬く間に傘で覆われた。水溜まりに映るカラフルな傘の数々は万華鏡のようでとても綺麗。

 暫く雨に濡れた後、気だるげに君は傘を開いた。顔は傘の中に隠れてしまい、どんな表情をしているのかが分からなくなる。悲しい時に降る雨は、ありがたいよね。だって、傘を持っていなければ雨で涙は流れるし、傘を持っていればその下で泣いても誰にもバレないから。

 君も今、泣いているのかな。




 雨が止むまで、街を歩き続けた。それに私はどこまでも付き合ってただけ。わたしが新しいCDを買いたいからと言っても、聞いてくれなかったし。そのくせ、どこに行ってもウインドウショッピングばっかりで何も買わないから、太陽も呆れて分厚い雲の裏側で勝手に沈んでしまった。せっかく服屋さんに寄ったんだから、似合いそうなものをいくつか言ってあげたのに、無視してくるし。どんなことがあったらそんなに落ち込めるのか、わからない。

 仕事終わりに飲みに繰り出してきた人々で、街はまたいっぱいになる。雨上がりで道が濡れていようと、紙がすぐにふやけるほどの湿気が充満していようと、みんなアルコールに目がない。


 やっぱり、誰かと会う予定があるのかな。じゃないと、こんな飲食店が並んでいる場所にわざわざ来る必要なんてないし。

 でも、君はどういうわけか、人の多い通りを通り抜けていってしまった。しつこくキャッチされてもめげることなく、どんどんと進み、最後は人が疎らになったビルの立ち並ぶ場所にまで来た。そこはこの街の奥地と言っても過言ではない場所で、支えにもなっている場所。誰かと待ち合わせているという読みは外れたのかな。

 さらにその奥の奥にまで進むと、君は一つの建物の前で立ち止まった。見上げる建物は建設中に放棄されたものみたいで、剥き出しの鉄骨は生々しくテカっていて、落書きだらけの高いバリケードもところどころ倒れていた。しかも、何か事件でもあったのだろうか、立ち入り禁止のテープが張られていて、その下に花束が一つだけ捨てられたように転がっていた。


 明らかに危険な香りがするところなのに、君は入っていく。まさか、怪しい売人とでもつるんでいたりするのかな。君に限ってそんなことはないと思うけど、もしもそうだとしたら、わたしもなんて声を掛けてあげればいいのか困る。

 ただでさえ悪いのに、濡れて余計に滑りやすくなった足場を、合わせてくれることもなく君は先に行く。建物自体は街を俯瞰とまでは言わずとも、それなりに見下ろすことができるくらいには高かった。

 てっきり君は一番上の階にまで上がるものだと思っていたけれど、中途半端な階で止まった。そしてあろうことか、足場の柵を乗り越えて鉄骨に腰を掛けた。

 高いところは怖かったけれど、わたしも同じようにして身を乗り出して、君の隣に座った。別にそんな危険なことしなくてもいいはずなのに、今の君には傍にいてあげないといけないというどこかから湧き上がる使命感に駆られて、行動に移していた。

 隣に座ると、わたしたちの間を風が吹き抜ける。目の前に広がるどこか暗さを帯びた光に包まれる街が、乱れた髪のせいで見え隠れした。やっぱり、こんなところに来ても人の声は聞こえてくる。


「今日でやっと一ヶ月だな」

 突然、君は口を開いた。丸一日話しかけてきてくれなかったのに、どうしてこんなところで話しかけてくるのかな。しかも、一ヶ月って何の数字なんだろう。やっぱり、今日の君は変だ。

「なあ、今どんな気持ちだ?」

 どんな気持ちって聞かれても、こんなところに来て怖いくらいしか思えないよ。ああ、それと、この街はどこに行っても暗いなってことくらいかな。本当の自然な明るさじゃなくて、こうしないとっていう圧迫感でできた輝きみたいな。そんなものに包まれるって、なんだか厭だな、くらいかな。

「俺はさ、色々とお前のことに気付いてあげれなかったよ」

 まさかそれって、今日一日のことかな。だったら流石のわたしも怒っちゃうかも。

「付き合っていて、彼氏だっていうのに、一番の味方でないと……いけないのに」

 話が見えてこないけど、そんなに涙ぐまなくてもいいじゃない。何を思ったのか、君は泣きそうな声で言葉を紡ぐ。男の子が泣くなんて情けないとは思うけど、そこまで自分を責める必要なんてないのに。泣くほど自分を責めることなんて、この世にはないんだよ。

「お前が、こんなところから飛び降りるくらいに切迫していたなんて、知らなかった」

 ……。

 理解ができなかったのは、数舜の間だけ。この場所と、その事実だけを聞けば、嫌でも全て思い出した。

 やっぱり、そうだったんだ。君はわたしのことを無視してたんじゃなくて、わたしのことが最初から見えてなかったんだ。ずっと話しかけても君が声一つかけてくれなかったのは、そういうことだったのか。

「いなくなってから、お前の好きな音楽も聴き始めたし、行きたがっていた展覧会にも行ってきた。やっとお前を理解することができたよ。もっと早くに、こうしてお前を内側で理解できたなら、きっとお前の周りにいた連中のことにも気が付けたはずなのに」

 いいんだよ。姿が君に見られなくても。だってわたしは、今もこうして君の傍にいれるもん。あの人たちに疎まれた結果、こんなことになっちゃったけど、わたしはこれでも幸せだよ。だから君がそんなに病む必要なんてないよ。

「俺は……どうしようもなく馬鹿だ……」

 空を仰ぐ君の頬に光を反射する涙の筋ができる。夕方にあった分厚い雲はもうなくなっていて、欠けて笑っているみたいな月が浮かんでいた。

「直接会って謝らないと、俺の気は晴れない」

 わたしたちが座っているここは、わたしがちょうど飛び降りた場所。同じようにして飛び降りれば、あの世に逝けることは間違いない。

「今、行くからな」

 君は立ち上がると、不安定な鉄骨の上で深く息を吸い込んで覚悟を決めた。


「わたしは、ここにいるよ」


 同じようにして立ち上がり、そっと君の頬を伝う涙を指で拭った。どういうわけか、君に聞こえるはずのないわたしの声は、ハッキリと君に届いたみたいだ。狐につままれたような顔をしてわたしの方を見る。

「お前……なんで……?」

「わかんない。けど、わたしはずっと君の傍にいたよ」

 見下ろす顔はやっぱり寂しそうな顔。そんな顔しなくてもいいし、こういう形でもまた話すことができているのだから、そんな顔は見たくないんだけど。でも言ってしまうと、多分傷つくんだろうな。面倒な君だけど、そう言う所も含めて好き。

「まあ、わたしは死んじゃったけどさ、ずっと君の傍にわたしはいるんだよ」

「なんで、なんでだよ。俺はお前のことに気付いてやれなかった。なのに、どうしてそんなことを言ってくれるんだ?」

 なんでだろう。君に問われて初めて自問してみる。わたしは君の傍にいて何をしてあげたいんだろう。頭を捻って悩んでみても答えは出なかった。だから答えがない、っていうのが答えなんだけど、流石にそれは気持ちがこもっていないようみたい。

「うーん、強いて言うなら、君がこれからどうやって生きていくのかを知りたいからかな」

 そう、どんな人と君はこれから出会って繋がり、どんな人生を続けていくのかを見ていきたいから。

「だから、こんなところで後追い自殺なんてことをしないで、ちゃんと生きて」

 ちゃんと言葉にすることができた。これで良かったかな。すすり泣きながら、君は空を仰ぐ。多分、君が泣き止んでわたしの方を再び見た頃には、もうわたしの姿は見えなくなって、声も聞こえなくなっているに違いない。そしてわたしも、なんとなくこの場所から動けなくなるような予感があった。君に伝えたいことを伝えることができたから、当然のことだ。

 それでもわたしは――


 しばらくして、君はビルを降りていった。案の定、わたしのことは見えなくなっていたけど、気を遣ったのか、わたしの座っていたところを踏まないようにして通っていった。スカートは踏まれちゃったけど。

 君がビルを降りたのを確認した後、街の喧騒と光を乗せた風を、全身で感じていた。

 これからも君の物語を、わたしは見続ける。仮に、いつかここからいなくなるようなことがあっても、絶対に。

 君にはわたしがいる。傍に見えていなくても、傍にいる。

 大きく深呼吸して、君が消えていく街に向かって叫ぶ。

「――! ――! ――!」

 掻き消されてしまうような叫びだとしても、この街のどこかを巡ってきっと君の元へと、再び届く。

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