裸婦

 僕はあなたをそこから連れ出すことはできない。だってあなたは、その額縁の中に納まった一枚の絵の中にいるからだ。外の世界を知ることもなく、そこで同じ姿勢をとり続け、何を想っているのかも伝えられず、まるでそうすることを強いられているみたいに、ただ一点だけを見続ける。勿論、向こう側から誰かに見られていることなんて、あなたは気づくはずもない。


 あなたがそこに飾られたのは、バイト先の新装開店の時だった。前の店から付き合いのある常連さんが持ってきたもので、いつ、誰が描いたのかもわからない絵だ。そうやってみんなあなたのことを嗤っていたけど、僕は純粋に魅力を感じた。どんな花を添えても映えるし、どんな色の照明を当てても目を惹かれるし、その辺りにいるどんな女性なんかよりも物静かだ。そんなあなたのことを嗤うなんて、見る目がない。

 いや、誰もあなたのことをあなたとして見ていないから、嗤ったりできるのだ。マスターはおろか、店にやってくるお客さんもそうだ。汚穢な感性をもっているから、何を見ても金銭の話に換えてしまう。結局は一つの物体としてしか見ていない。彼らにとっては、このバーの中にある装飾にすぎないのだ。誰もあなた自身の評価をしない。でも、僕だけはあなたをあなたとして見ている。一枚の絵という、わかりきった前提なんて関係ない。一方的な感情でしかなくても、あなたのことを知ろうとしているのも、知りたいと願っているのも僕だけだ。


 あなたの姿を見ているだけで、僕は嫌なことだって忘れられる。失敗して怒られても、あなたの存在があるだけで、僕はここに来ることができる。言葉では簡単に言い表せないほど重い劣等感を引きずってでも歩ける。大袈裟な表現になるかもしれないけれど、無言でそこにいてくれるだけで、次を踏み出すための勇気をもらえる。あなたに相応しい装飾になれるよう、自分を磨き続けることができる。


 今日もあなたはそこから動かない。閉店直前の誰もいなくなった店内で、あなたの前でグラスを磨きながら思わず溜息を漏らしてしまう。もしもあなたがそこではなく、ここにいたのなら、どんな話をしているのだろう。他愛もない世間話だろうか、最近の悩みの相談だろうか、それとも何も話すことなく、ただ避けることのできない破滅を待つように、二人して時を沈黙で埋めているのだろうか。

 現実になるはずもない想像のはずなのに、ちっとも悲しくなかった。そこには傍から見れば馬鹿馬鹿しい、逃避と盲目が含まれているからだろう。


 マスターから、あがってもいいと言われて帰る準備をする。本当は帰りたくない。心の距離だけでももっと遠いところにあるのに、物理的な距離も遠くに行ってしまうのが怖い。あなたと僕との間が薄れてしまい、そのままあなたが消えてしまいそうで、怖い。遠距離恋愛をするか悩んでいる人に対して、距離で心が揺らぐくらいなら本心から好きではないという批判はよくあるけど、それは間違いだ。心が繋がっていようが、好きという感情がどれだけ強かろうが、ほんの少し先にある予測不能な恐怖を拭いきることは難しい。今の僕は、その状況と似ている。あなたに対して一方的な情を持っているだけにすぎないけど、それでもあなたのいない一時を過ごすのは、比べものにならないくらい孤独を犇々と感じる。


 帰宅途中もずっとあなたのことが頭から離れない。頭の中で何度もあなたを思い浮かべて、細かいところまで思い出す。そうしないと、あなたは海馬に広がる濃霧の中へと溶けて消えていきそうだからだ。身体が重たいのは、今日の仕事がきつかったからという理由だけではなく、あなたとの距離がどんどん離れていくからに違いない。耐えがたい苦痛だが、その先には何も待っておらず、無益な情念が際限なく湧いているだけなのだ。

 やっとのことで帰宅すると、着替えることなくベッドに身体を預けた。疲労に反して冴えきっていた精神も、柔らかな布団に包まれると次第に鎮まっていき、夢と現の狭間も曖昧になった。




 外の風景を簿化すほどの強い光を取り入れた和風の部屋に、佇立していた。大河ドラマや時代劇などで何度か目にした、風雅な雰囲気の部屋だ。調度も何もない、郷愁的な畳の匂いが立ち込めているだけで、落ち着く。

 それが夢だと理解するまでにそう時間はかからなかった。単純に、縁もゆかりもない場所にいるから、そう考えただけだ。


 ふと、僕の背後にあった襖が開かれると、そこには全身を隠すための安っぽいベールなんてしていない、ありのままの姿を晒す女性が立っていた。女性を一目見て、僕はあなただと直感した。女性らしい脂肪の付き方をした丸みのある胴体、大きくなくても自然と目を惹かれる、半分に切ったレモンの形に似た乳房、すこしだけくすんでいても決して不快感を与えない肌の色、恥部を控えめに隠そうとする毛、水を垂らせば綺麗に滴りそうな指先、赤いリボンで結われた烏の髪、そしてどんな表情にも陰を差すほど漂っている憂いの雰囲気。見紛うはずもなくあなたであり、その姿は原始的な美の結晶を思わせる。


 しばらくの間、僕たちは向かい合って、動かずお互いにその瞳の奥を覗いていた。あなたのその真っ黒な瞳が、僕の奥にあるものを探っているように感じて、頭の中が焼ききれそうだった。

 僕の方もまた、あなたの奥へと入ろうとしていくけど、何も見えなかった。そもそも、瞳の表面に映っているはずの僕の姿も、周りにある景色も、あなたには映っていない。表面にすら見えていないのに、その奥にあるものを見ようとするのは無理な話だ。


 やっと会えたはずのあなたなのに、僕はあなたを知れないという結論は、暴力的な衝動へと変化した。一方的な怒りだ。子どもが思うようにならないから、すべて壊してしまうのと同じ衝撃。それに突き動かされるまま、僕はあなたへと近づいていき、そのまま後ろへと突き飛ばした。尻餅をついて視線が低くなったあなたは、僕のことを変わらずに見つめてくるだけだ。恐怖も、怒りも、悲しみも、その視線は訴えていなくて、ただ僕を見ているだけ。いや、僕のことなんてあなたは見ていなかった。僕たちの間には次元という越えようもないほどの高さと堅さを兼ね備えた壁がある。だから、邂逅自体が僕の妄想でしかなく、ここにいるあなたはハリボテの人形でしかない。心の底から生じた美しいというその純粋な気持ちも、夢の中で生まれただけの瓦石に等しい価値のものなのだ。

 立ったまま抵抗すらしないあなたを見下している。相変わらずあなたは何も訴えてこない。傷口から染み出す膿のように出てきた粘り気のある優越感に浸ったのも束の間だった。


 急激に無気力とみすぼらしさに心が支配された。どんなことをしても、あなたには何も届かないという、見え透いた結末に遣る瀬無い気持ちになったからだ。さらには涙も流れた。だけど、不思議と嗚咽は出なかった。一欠片のプライドが幸いにも残っていたからかもしれない。

 ぽたぽたと、畳の上に涙は零れていき、黒い穴のようなシミができる。止まらないその涙を僕は止める気力すらなかった。

 ふと、ぼやけていた視界が晴れた。明瞭になった目の前に一番近くあったのは、あなたのその彫刻で彫ったような手だった。立ち上がってあなたは目元を拭ってくれていた。涙は筋を作ることもなく、玉のまま転がっていく。やっぱり、あなたの手は水がよく似合っている。


「大丈夫?」


 心を抉るその言葉は、同時に僕の心を満たしてしまった。優しい声音。母性の象徴。乳児には母親という存在が必要なように、僕にはあなたという存在が必要になってしまった。そして、情けなくて仕方なかった。感情すら上手くコントロールできない粗末な僕を、慰めるようなことをさせてしまった。僅かに上がっているあなたの口角に、より心は摩耗していく。あなたは僕を受け入れてはくれなくても、僕を慰めることだけはしてくれる。いや、どんな人に対してもあなたなら穏やかな口調で救ってしまうのだろう。


 その慰めを待っていたはずなのに、されてしまうと苦しみを覚えるなんて、なんて自分勝手なのだろう。わかっているのに入り乱れた中ではそれを受け止めるしかなかった。


 何も言わずに泣いているだけの僕の手を取り、そのまま自身の首元までもっていく。とても、赤い誘惑だった。人としては侵してはならない領域への、誘惑。勿論それが僕自身の本心だとも知っている。

 どこに焦点を当てればいいのか分からなくなり、猛烈な眩暈が起きる。あなたという存在が必要で、あなたという存在を愛していて、あなたという存在に会えた喜びを感じているはずなのに、僕はあなたという存在のせいで憎悪を含んだ激情にかられている。あなたのその優しさのせいで、あなたを殺そうとしてしまう。情けない気持ちは僕自身の内側にしまっておくべきもののはずなのに、この殺意はどうしてもあなたの方向に向いてしまう。そして、それを分かった上でのあなたからの青い同情が辛い。


「いいよ」


 不意に吐かれた言葉の意味を理解できなかった。この状況で、何に対しての許しなのだろうか。いや、わかっている。全部わかっている。前後左右にブレていた振りをしていた身体の軸は、いきなり真っ直ぐに戻る。食道と気管が耐え切れずに開ききって、今にも臓器の全てを戻してしまいそうな酸っぱい味が口の中に広がる。


 ここにいるあなたは、僕の中の想像の存在だ。あなたのことを殺そうとしているのも、僕の中から溢れ出ている思考で、それをあなたが受け止めてくれるというのも、僕が想像しているからだ。


 愛情の反対とはやはり憎悪なのだ。無関心などではない。無関心であるのなら、愛しているのに憎んでいるという、矛盾した心の説明をしてもらいたい。僕を支えてくれる存在を、僕自身の手で終わらせようとしているのだ。その行為のどこが無関心なのだろう。憎悪ではなく無関心からこの行動をしているのであれば、僕はただの殺人鬼になっているのではないだろうか。もしも、愛情の反対は無関心だと言い続ける人間が、僕のことを見た後でも無関心だと言い切ったとしよう。その人間はきっと、平和という抽象的な世界を待ち望んでいるだけの、受動的な逃避者だ。誰かを真に愛したこともなく、その愛した人との間に何の困難などなかったのだ。人と人との間にある、悪臭を放つ汚物のようなモノがあることを知らずに、ただ単に他人を批判したいだけ。自分の力と思考に陶酔しているだけの、愚か者の考えだ。


「……ごめんなさい。私はあなたの役には、立てなかった」

 沈黙を破ってあなたは言った。これも、これも、これも、全部僕が望んでいるだけのこと。望んでいるだけの世界。何色にでもなる妄想。あなたの言葉のすべては僕の自慰。

 心の中に存在しているのは透明の虚無。

「だから、これくらいしか役には立てないの」


「黙れよ! お前に僕の何がわかるんだよ!」


 あなたの、その細く滑らかな首に力を入れようとしたけど、まるで奪われたみたいに入らない。そうだ、愛しているのに、あなたを僕で汚してしまった。僕の色で染めようとしてしまった。結局は僕もあのバーにくる卑しい人間たちと同じで、あなたのことを勝手に決めていたのだ。あなただけの色があるはずなのに、あなたならこう言ってくれるだろうと僕自身の中で想像していた。僕の望みのせいであなたを汚して、勝手に不満になってあなたを壊す。こんなところに来てまで、待っていたのは現実だったのだ。それを妄想で塗りたくるだけの自慰だった。

「ほら――」

 最後の言葉は待たなかった。

 最低な言葉を、あなたに吐かせて――

 最低な気分で、あなたを縊った。

 この甘美なはずの夢は、一人の裸婦の無色の死で終わってしまう。



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