煙草
初めて学校をサボった挙句、海に来た。しかも、不良少女にそそのかされて。
人生初のサボりで、どうすればいいか見当もつかず、外階段で蹲っていた。そこをたまたま通りかかった、全体的に奇抜な色合いをした不良に絡まれて、学校外へ行ってしまった。
露見してしまえば、私が不良への一歩を踏み出したのではないかと疑われること間違いなしだ。別に、優秀な生徒というわけでもないけれど、クラスではそういった生徒と深く絡むのは良く思われない立場にいるから、色々と面倒なことになった。
どうして簡単についてきてしまったのだろうか。彼女の誘い文句には飾り気の欠片もなかったのに。こんなところで暇を持て余すつもりなら、交通費くらいは出してやるからついて来い、と言われただけ。
彼女は電車での移動中、必要最低限のこと以外は何も聞いてこなかった。名前はおろか、学年、クラス、家庭の事なんかも。もちろん、私がどうしてサボってあんなところにいたのかも聞いてこない。だけど、まるで無関心というわけでもなく、話したくなったらいつでも受け止めてあげるという雰囲気を醸し出していて、その距離感が正直な話、心地良かった。正確に言うなら、圧迫感のなさ。何も聞いてこないから、自分のことを曝け出す必要性はなかったし、自分から彼女に何かを伝えなきゃいけないなんて焦ることもなかった。
「どうだい、冬の海は? 寒いだろ」
ピンク色の髪の毛が風に乱されている。時々見える耳には大量のピアスをしていて、穴を空けるところを想像すると、寒さとは違う身震いが起きる。これだけ目立つ容姿をしているのに、見たこともないし、噂話にも上がったこともない。学校の制服を着ているだけで、生徒かどうかも怪しい。彼女にも何か事情があるのだろうか。
「寒いわよ、そりゃ。人もいなければ、鳥だって一羽も飛んでないし。というか、なんで海なのよ」
「いいじゃん、あたしが冬の海を好きだから」
コートを着ていても風に乗った冷気は、身体の芯を容赦なく突き刺してくる。私を寒さから守るものは全部無意味な布と化していた。
しばらくの間、私たちは人気のない浜辺を歩いた。オフシーズンということもあり海岸は漂流物でいっぱいになっており、歩く度に何かが割れたり軋んだりする音が響いて、子どもがよく履いている音の鳴る靴を思い出してしまった。
腰を落ち着けることができそうな防波堤を見つけると、彼女に勧められて一緒に座った。座り心地はまだ学校の階段の方が良かったけど、伝わってくるザラザラとした感触も慣れてくれば気にならなかった。
彼女はといえば座るなり、ポケットから普通の高校生ならまずもっていないであろうものを取り出した。口に咥えると、許可を取ることもせずに火を点けて、霧のような煙を吐いた。
「はあ、海は好きだけど歩くと疲れるわ。ねえ、あんたは煙草とか吸う?」
「吸わないに決まってるでしょう! 大体、未成年の喫煙なんてバレたら停学は免れないでしょうし、今は分煙という運動が広まっているんだから、吸うにしても許可くらい取りなさいよ!」
キツイ口調で叱ると、彼女はケラケラと腹を抱えて笑った。こちらとしては真剣に話をしているのに関わらず、不真面目な態度をとられると腹立たしい。
「別にそんな難いこと言うなよ。でも、あんたはそうやって直接、相手に考えを伝えることができるくらい真っ直ぐなんだね」
私の顔を覗き込みながら、彼女はどこか寂寞とした微笑みを顔に浮かべていた。彼女を取り巻く空気はありとあらゆる光を屈折させていて、どれも彼女の元へは届いていない。こんなに近くにいるのに、電話越しで会話をしているみたいだ。
「……真っ直ぐだから、辛いのよ」
風紀委員という役職を与えられたのは、私が模範的な生徒像と被っていたからにすぎない。制服の着こなしはパンフレットに乗っても問題ないし、クラスの皆とも分け隔てなく会話をすることができるし、何より、言いたいことを真っ直ぐに伝えることができるというその性格がピタリと合致していたのだ。
仕事をこなすことに、最初はやりがいを感じていた。みんなを正しい方向へ持っていくために、必要不可欠な存在なんだと、意気込みでは負ける気がしなかった。クラスのみんながちゃんとした方向に変わっていくのが嬉しくて、いるべき居場所を見つけた気だった。
ただ、その時には私のことをみんなが疎んでいるなんて知る由もなかった。私が正しい方向へと持って行こうとしていたのは、例えるなら、最初から曲がっている木を自分の尺度と都合で曲げていたのと同じだったのだ。指摘を受けるまでそんなこと、気にも留めてなかった。
そして、私は教室から自分の居場所を失ってしまった。友人たちは今だっているけど、虚脱状態に近い私を見ていれば、朝と放課後の挨拶以外に言葉を交わさなくなった。常に暗闇の中で息を殺しているような気分が付きまとい、鼻から吸う息よりも口から吐く息の方が最近は多い状態だった。
「真っ直ぐにならなくてもいいんじゃない?」
青い煙が風に流されていっても、目に染みるくらい酷い臭いは残っている。
真っ直ぐにならなくてもいい。誰もが言い回しや感情の程度は違っても、そう言ってくれた。でも、結局私はそれを受け入れることができない。根本的な部分を否定されているような気がしたから。
「無理よ。だって、私が規律を守らないとみんなが間違えた方向に行っちゃうじゃない」
「間違えた方向なんてないと思うけど」
彼女の言うことは、理解に苦しむ。規律があって、守ることが正しい方向で、反ってしまうことが間違えた方向に進むということだ。間違えた方向に進むことも、人には必ずある。だからこそ整えるべき人間がいて、正しい方向へ人間を進めていく。
「あんたからみて、あたしは間違えた方向に進んでいるのかい?」
「当り前よ。髪の色も、ピアスも、煙草だってそう。何もかもが間違えた方向よ」
「あたしはこれが正しいと思っていると言ったら?」
「それでもよ。あなたは間違えているわ。学校の校則はおろか、社会の規則にすら則っていないわ」
「やっぱり真っ直ぐだな、あんた。それってさ、苦しいかい?」
自嘲するような彼女の笑みに対して、急に沸々とした怒りが湧き上がる。
しかし、声を上げようとした瞬間、私は出かかっていた言葉を呑み込んでしまった。彼女の目に洞窟のように暗い影があったから。
「あたしはあんたの感覚を何も知ることはできない。それはあんたも同じでみんなも同じ。いくらあんたが苦しんでも、その苦しみを本当に理解してくれる人間はあんたしかいない。あたしもそうだよ。このファッションの良さも、煙草の美味さも、ピアスの穴を増やすことの楽しさも、あたしにしかわからない感覚なんだ」
「だったら、この苦しい気持ちをずっと抱えて生きていかないといけないの?」
私の苦しみは、私のもの。つまり、私が正しいと思うものも私のものでしかない。
煙を吐いた彼女は、海を見た。何もない、ただの海を。
「今のままだったらそうだな。でも、苦しいってことは変わりたいってことなんじゃない? 苦しいって、本当は怖いってことなんだよ。変わった後の自分を受け入れることが怖いだけ」
短くなった煙草を彼女は捨てて、新しい一本を取り出した。でも、今度の一本は甘い香りのする煙草だった。
「そんなのあるんだ」
「ああ、これ? 最近吸い始めたんだけど、意外と美味くてね。前までは煙草はメビウスに限ると思ってたんだけど、変えてみると案外いいんだよ」
真っ直ぐに生きすぎた私には、分からなかった。たった一つのことに執着して、変わった後を受け入れることも、見ることもできない私には。彼女のように変えることができない。
私の姿は真っ黒で、その先にあるものは煙に包まれていて真っ白だ。
「ねえ、私は変わることができると思う?」
「さあね。でも、そういう聞き方はあたしで答え合わせをしようとしているだけにすぎないよ」
突然、彼女は防波堤から砂浜へと飛び降りた。私はその後姿を見ているだけだ。飛び降りることはできない。
「どうしたの? 早くおいでよ」
煙草を持つ手を振りながら、私を呼んでいる。灰が雪のように降りかかっていても、彼女は気にしていない。
同じようにして防波堤から飛び降りると、彼女の元へ歩いていった。
彼女と並んで太陽の光を反射する海を眺める。さっきまで飛んでいなかったのに、一羽の鳥がその上を飛んでいた。
「ねえ、その煙草、一本頂戴」
驚いたような顔を彼女は私に向けてきたけれど、気づかないフリをする。他人を理解することはできなくても、他人のフリをすれば見えてくるものだってあるはずだ。
「いいよ、ほれ」
顔の前に差し出された箱を受け取り、煙草を口にする。何も言わずに、彼女は火をつけてくれた。咽るような煙が口の中に充満し、せき込んでしまった。それでも彼女は何も言わず、黙って前だけを見続ける。
やっぱり、私に煙草は似合わない。
だけど、口に広がる彼女の感覚は、甘くて美味しかった。
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