夢落

 青が蓋をする場所で、私はいきなり目を覚ました。いきなりなんて言い方をすると、どこか馬鹿らしい印象が強いし、超常的なことでも起こっているのかと指摘されそうだけど、決してそんなことはない。本当にいきなりだったのだ。とは言っても、直前までしていたことを覚えているのかと問い詰められれば、何も覚えていない。本当におかしなことになってしまっている。


 横になったまま首を回してみれば、この場所が湿っぽいコンクリートの地面に覆われていて、尚且つ、柵に囲まれたことであることは分かった。

 身体を起こして、立ち上がる。砂時計の上下を置き換えたみたいに、怠さが下へ向かっていく。ぼうっとする頭のまま、覚束ない足取りで柵の方にまで近づく。いきなりここに来ていたと思っていたが、しばらくの間ここで寝ていたのかもしれない。


 向こう側には見覚えのある風景が広がっていた。そして、眼下にはグラウンドがあり、ここが私の通う学校であることを確信した。普段は施錠されて入れないはずの屋上に立ったのは初めてなので、直ぐには気が付かなかった。

 それと、私が寝ていたところ一帯には謎の黒ずみが広がっていた。服の背中の部分を引っ張って見ると、真っ黒になっていた。これはクリーニングで完璧に落とせるだろうか。もし落とせなかったら、最悪の場合あと一年ほどこの黒ずみと共に生活をしなければならない。

 でも、どうしてこんなところにいるのだろう。何かをしていて気絶でもしてしまったのだろうか。気絶をしてしまうと、直前の記憶を失うことが多いと聞いたことがあるし。だとすれば、益々、私がここで何をしていたのか興味と謎の距離が深まる。


 さて置き、ここにいて先生に見つかれば切符を切られるので、出ていくことが最優先だ。何をしていたと問われた時なんて最悪だし、どう説明すればいいか皆目見当がつかない。

 とりあえず、屋上の出入り口にまで行き、思いっきりドアを引っ張った。

 しかし、重そうな扉は開かず、代わりに私の右腕が数センチほど伸びそうになった。扉が重いというだけではなく、鍵が掛けられていたからだ。

 困ったなんて言葉では済ませることができない。さっきグラウンドを見た時、誰も人はいなかったし、そもそも学校自体がなんだか静寂に包まれている。頭の中に最悪のシチュエーション、つまり、学校全体が休日で開放されていないという考えが過った。そうなってしまえば、私に残された選択はここで明日になるのを待つか、降りるために役立ちそうな道具を見つけて降りていくという、一歩間違えれば目も当てられないことになる賭けに出るかというものしかない。


 呆れて深い溜息を吐かずにはいられなかった。目を覚ます前の私は本当にこんなところで、何をしていたのだろう。ここでないとできないことだったのだろうか。どちらにしても、過去の自分が恨めしい。

 ドアに背を預け、そのままゆっくりと滑るようにして座る。コンクリートは冷たくて硬い氷のようで、気持ちがいい。だけど、太陽はこれでもかというくらい肌を焼きにかかってくる。運のない私を笑うのはいいけれど、身体から水分を奪っていくのだけはやめてほしい。

 汗を拭う以外の行為以外は手持無沙汰な状態だ。退屈というのが身体に毒とこれほどまで痛感したことはない。何時間が経過したのかもわからないし、ただただ苦しい。もうここまでくると、目を瞑ってできるだけ何も考えないように努めるだけだ。心頭滅却すれば火もまた涼し。この言葉だけが唯一の希望だ。


「おい、迎えに来たぞ」


 いきなり声を掛けられ、ハッとして顔を上げると、いつの間にかそこに一人の少年がいた。暑さにやられて白昼夢でも見ているのかと、自分を疑いたくなる。だが、そこにある影は見紛うことなく現実のものだ。ある意味、密室のこの場所へ、どのようにして入ってきたのかを考えても、答えが出てこない。

「え、あ、いや、誰?」

 明らかに自分よりも年下なのに、あからさまな不信感のせいで幾つか年上に見えた。いきなり現れたし、風貌も襤褸切れみたいなマントで全身を隠していて異様だし、迎えに来たという言葉を使う人間には、怖いという感覚しか湧き上がらない。完全に誘拐犯の台詞を口にされている。でも、さすがに私の年齢に対して『迎えに来たよ』系の文句はないだろう、なんて暢気なことを考えてしまう。少し冷静になりすぎた。


「俺はお前を迎えに行くように言伝されてきただけだ。名乗る必要などない」

 この上なく不愛想で、抑揚のない声に、困惑を隠すことができなかった。ここまで誘拐だと確信させるほど間抜けな誘拐犯も、世の中にはほんの数人もいないのではないか。これだと、幼稚園児でもついていかないに違いない。

「迎えに……って、どこに連れて行く気? まさかとは思うけど、母の知り合いか何か?」

「ふざけているのか、お前は……」

 そう尋ねると少年は口を開いて何かを言いかけたが、一瞬だけ驚いた顔を見せた後、直ぐに噤んでしまった。何か踏んではいけない地雷でも踏んでしまったのだろうか。

「いや、なんでもない。それならそれでいいんだ」


 少年はそれ以上なにも言わず、私の顔をこのコンクリートの地面よりも冷たい温度の視線で見つめてきた。その後は飽きてしまったのか、これまた無言で私の横に腰を下ろした。先の読めない少年だ。何をされるかわからないので、失礼かとも思いつつ、人ひとり分の距離を取る。


 それから、しばらくの間は気まずい時間が続く。勝手なイメージだが、この少年は口数が少ないし、私も彼のさっきの愛想のない態度から、話題を振ることに対して臆病になっていたからだ。

 人が来たというだけで今の状況はプラスにもマイナスにもほとんど傾いていない。雲が多くなってきたおかげで、太陽が翳り始めたということくらいがいい事だろう。ただ黙って空を見上げ、少年以外の誰かがここに来るのを待つしかない。

 というか、少年はここに来ることができて、迎えが云々というのであれば、今すぐにでも私をここから連れ出してくれればいいのに。気の利かない少年、オブラートに包むことなく言うのなら、役立たずだ。


「あんた、学校はどうなんだ」

 不意の質問に意表を突かれる。言葉が喉に引っかかり、咽た。さっきまでは無言だったのに、どうして急に。しかも親戚のおじさんと家族以外に、そんなことを聞かれたことはなかった。私は少年の方を向いたが、横顔しか拝めなかった。どういう心境で聞いてきたのか、これっぽっちも察することができない。

「……まあ、普通、だけど」

 さっきよりも曇が多くなってしまった空を見上げながらそう答えた。

 普通と答えておくのがいちばん無難だ。別に面倒とかそういった類ではない。何事においても荒波を立てないようにしておくのが、ベストと学んできただけ。だから、私はこうして彼にも普通と言うし、誰かに同じことを聞かれた時にも普通と答える。

 それが例え『苦痛』であったとしても――

「成績も別に良くもなければ悪いってこともないし。朝起きるのが辛いということもないし、それに、普通の友人だって、一応はいるし――」


「嘘だ!」


 少年は声をいきなり張り上げた。ビックリして再び横を見ると、噴火前の火山のように少年は小刻みに震えている。熱い感情が抑えきれず零れだし、私の心臓が早鐘を打ちはじめる。私はまた何か余計なことを言ってしまったのだろうか。できるだけ荒波を立てないように、言葉は選んだつもりだったのに。

 その感情の予兆が痛い。触れてはいけない部分に意図せず触れてしまい、突き付けられると思うと、痛い。


 少年は立ち上がり、鋭い目つきでこちらを見つめてくる。視線に込められた力強さは、その気があれば容易く人を射殺せそうなものだった。

「何が普通だ、あんたはどうして苦しいのに普通なんて言うことができるんだ? 苦しい時に苦しいって、なんで言えないんだよ? 我慢をしてきて、理不尽を押し付けられて、どうしてそれでも普通なんて、言えるんだ……!」

 言葉を探しながら喋る少年は、息を荒げるほどに真剣だった。しかも、苛つきとか憎しみとか八つ当たりとか、そういった嫌なものを含む感情じゃなかった。ぶつけられたことの少ない、暖かな痛みを含むもの。どうしてだろう。どうして私なんかの為に、本気になってそんな感情を発露させてくれるのだろう。悪いのは私なのに。いくら時間が経っても、疑問符は増えるばかりだ。

「だって、しょうがないよ。私が本当のことを言っちゃうと、みんな怒っちゃうんだもん。そんなことになるくらいなら、本当のことを言わずに黙っておいた方が誰も嫌な思いしなくてもいいじゃない。苦しくても苦しいって言わなければ、私の内側で完結するだけだし。誰かに言ってしまえば、その人も苦しくなっちゃうから、二人も苦しくなっちゃうんだよ?」

 髪を掻き上げ、俯きながら答える。少年の視線がこちらに向けられていることは、見えてなくても分かった。

 何かを私が言ってしまうと、みんな怒り、苦しんでしまう。どうしてそんなことを言うのか、なんでもっと考えて物を言えないのか、みんなだって苦しいのになんでそんなに我儘なことばかり言えるのか。私にとって正直な感情というのは、他人にとってのナイフなのだ。私がそれをただ言葉を呟いているだけだと主張したところで、他人から見れば刃物を振りかざす狂人と同じだから、疎まれる。疎まれて、隅に追いやられる。


「わからない。俺には全くわからない。そんな奴らにどうして負けたんだ」

 負けた。その言葉に引っかかり、少年の方を見る。

「ねえ、負けた、って何なの?」

 彼はやってしまったという顔を見せた後に、覚悟の表情をした。私がこれ以上問い詰めようとしていることを、簡単に察せたらしい。


「あんたはもう死んだんだ。この屋上から自分で飛び降りて。遺書も何も遺さずに、死んだ」

「死ん……だ?」

 混乱と崩壊。一体、私は何なのだろうという原始的な疑問が生まれ、直ぐに死んだ存在という無機質な答えが返ってくる。ここで感覚を持っている私は、何なのだ。問いただそうとしても言葉にならない。

「そうだ、死んだ。誰もいない休日にこの屋上から。しかも何も遺すことなな。いや、一つだけ遺したものが在ったな。あの黒ずみだけだ。あれはあんたが飛び降りる前に燃やしたノートや教科書の跡だ」

 記憶がどんどんと蘇ってくる。鮮烈な炎と、鼻が痺れるほどの紙が焼ける臭い。そうだ、私が自らの手で犯した行為だ。

 確かなる体験に私はいた。あまりにも、残酷な解答。


「あのノートには、あんたが本当に言いたいことが詰まっていたんだろう? だけど、それをこの世には遺さずに消してしまった。つまり、本当のあんたを知る人間はもういないということだ」

 日記代わりにしていたノートだった。今日あった嫌なことや、将来なりたいこと、そういった諸々を書き記したノート。もう私が不要になってしまうならば、と覚悟を決めて、全て燃やし尽くしてしまった。

 だから、本当の私はもうここにしかいない。

 あそこには、もう偽りしか遺っていない。いや、偽りすらも遺っていない。


「そっか、私、あのあと飛び降りて死んじゃってたんだ。何も覚えていないや」

 できるだけ明るい気分にしようとして笑ってみたが、口角が思った方に動かなくてぎこちなくなる。目を閉じようとしても閉じることができないし、こういうところで不器用な性格が露見してしまう。

「無理に笑う必要なんかない。無論、無理に泣く必要も。お前には何も必要ない。その純粋な心だけがあれば」

 半ば意地になって動かそうとしていた表情はおかしなところで固まり、頬を静かに、温度のある液体が流れていく。そして嗚咽は遅れてやってきて、思わず立ち上がって少年の胸の中に飛び込んだ。

「なんで、なんで私が! 死んでしまうようなことになったの! あなたたちだって、あなたたちだってっ!」

 堰を切ったように喉に情動が閊える。最後の最後にようやく認めてもらえる人に出会うことができたのにも関わらず、恥らしいことに、何を言えばいいのか分からなくなってしまった。久しく自分の声で本心を口にするなんてしてなかったから、思うように形にできない。

 そんな私でも、少年は優しく抱きしめ続けてくれた。


「……そろそろ行かなくちゃならない。いくら俺が同情したところで、あんたがしたことに対する判決が覆ることはないからな。俺が今からあんたの目を覆い隠せば、このまますぐに、あの世に行ける」

 暫くたって落ち着くと、少年は私の泣き顔が見えないように気を遣いながら話をした。迎えとは、そういうことだったのか。私をあの世に連れて行くための迎え。というか、あの世なんてものがある方が驚きだ。


「ねえ、連れて行く前に私の夢、聞いてくれる?」

 せめて、少年にだけは何かを遺しておきたい。そうじゃないと、私という存在を知っている存在が、本当にいなくなってしまうから。

 少年は首を縦に振る。それを感じて、彼の胸に頭を預けながら、そっと深呼吸をした。

「私ね、医者になることが夢だったの。沢山の人の病気を治して、沢山の人を救って笑顔にしたかったの。頭も良くないのに、そんなことばっか考えてたの。これ言ったの、あなたが初めてだよ。学校の先生にはもちろんだけど、お母さんにも、お父さんにも言ってない。誰にも知られていないことなんだ……」

 沈黙が広がる。少年は何も言わないし、私もこれ以上は何もない。寧ろ、満足したくらいだ。

「ごめんね、こんな話しちゃって。もういいから、連れて行って」

 私は少年の胸の中にうずめていた顔を上げ、彼の瞳を真っ直ぐに見つめながらそう言った。

「俺からも最後に一つ、あんたに言わなくちゃならないことがある」

「何?」

「あんたの夢のこと、実は知っていたんだ」

 頭の中が数舜も置くことなく混乱に陥る。死んでいたことを告げられた時よりも、酷い混乱。少年が何を言っているのか、言葉の表面だけでは理解できても、本質までは理解することができない。

「どういう、ことなの?」

「俺は、あんたの心の奥底に棲む悪魔だったからな」

 少年は飾らない笑顔でそう告げると、私の目を覆い隠した。

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