知らない

 図書館の自習スペースの奥から四列目のテーブル。そこがあなたの定位置。月曜から金曜日までほぼ毎日来ていて、私が空コマで訪れたときには絶対にいる。あなたのその一生懸命な顔をよく見れるように、私は正面の席を取る。参考書を広げても、集中できずに顔を上げてしまい、誰も見向きもしないあなたの顔を私だけが盗み見る。そんな浅はかな行為だけで、話をしたこともないあなたのことを、全て知っている気になってしまう。


 あなたはいつも一人だ。たまに学食で見かけた時も、教室の移動中にすれ違った時も、授業で座っている時も。あなたが誰かと共に笑って、誰かと話しているところを見たことがない。

 だからと言って、孤独で寂しい人だなんて印象を持つことはない。寧ろ、孤高で、手の届かない領域にあるものを見ている気分だ。周りにいる男の子とは違う。群れを成すことを誇りとしているあの子たちなんかよりも、レベルが高いに決まっている。


 遠目に見ているだけなのに、もっと知りたいという願望が強くなる。あなたがどこで生まれて、如何にして成長し、何を成し遂げてきたのかを。本当の意味で全て知りたい。知った気では満足できない。もちろん過去だけではなく、現在のことも、さらにはまだ確約されていない未来のことも。何を考え、何に感動し、何に突き動かされて生きているのかを沢山知って、そうしてできるあなたで私の中を染め上げたい。


 でも、私とあなたには残念なことに何も接点がない。独りでいるあなたに声を掛けることは余りにも難しいことで、今日こそはと決心しても、どこか恐怖にも似た感情が千波万波のように押し寄せてくる。結局はその圧に圧し潰されて拉げてしまい、引いた頃には後悔という形で心の片隅に残る。


 そんな日々を繰り返していれば、どうしてもあなたに恋人がいるのではないかと、妙な勘ぐりを入れてしまう。そのくらい私はあなたのことが好きなのだ。他の誰よりも、あなたのことが。あなたのことを誰にも渡したくない。もしもあなたに恋人ができた(もしくはいたら)としたら、きっと私は自分のモノでもないのに盗まれた気分になってしまうだろう。

 だから友達と、好きな人の話になった時でも、私はそんな人はいないと言い張る。だってあなたが持っている魅力を誰かに語ってしまうと、魔法が解けるみたいに無くなってしまいそうだから。そして、その魅力をしり、実際にあなたに会って仮にでも魅了されてしまえば、友人にあなたを獲られる可能性は無きにしも非ずだ。


 あなたは今、何を考えながらノートに目を通しているのだろうか。黒縁の眼鏡も、チリチリの癖毛も、よく着ているライトグレーのパーカーも、あなたにしか似合わない。他の誰かにそっくりそのまま映したとしても、私はやっぱりあなたを選ぶに決まっている。加えて、あなたがどれだけ世間一般的に見て嫌な性格の持ち主であったとしても。


 窓の外には青い空をバックに、埃みたいな雲が浮かんでいる。いきなりあなたの手を引っ張って、ここじゃないどこかへと連れて行ったら、どうなってしまうだろう。妄想が膨らんでいき、パンクしそうになる。笑うだろうか、怒るだろうか、それとも急なことに対処できなくて泣いてしまうだろうか。いずれにしても、自己中心的な満足を私が得てしまうのに変わりはない。


 三限終了のチャイムが鳴ると、現実に引き戻された。時間が羨ましい。だってこんな風に誰かの手を簡単に引っ張って戻せるだけの度胸があるから。次の時間は必修科目だから行かなくてはならない。今日も本当に短い時間だった。一時間半がフライパンに溶かしたバターみたいに、一瞬で溶けていく。これも恋愛の持つ潜在能力なのかもしれない。

 ずっと俯いたままのあなたを一瞥しながら、私は図書館を出ていく。明日もここに、あなたがいますように。



 明くる日、そこにあなたの姿はなかった。

 学食でも見かけなかったし、教室の移動中にもすれ違うことはなかったし、一緒の授業でもいつもの席であなたを見かけなかった。風邪でも引いてしまったのだろうか。そんなことを考えだすと居たたまれなくなって、授業中に何度も腰が浮きかけてしまう。家がどこに在るのかもわからないのに、どうするというのだ。

 さらにその次の日もあなたはいない。

 次の日も、またその次の日も。


 遂にあなたが来なくなって一週間以上が経過した。最初は長引く風邪かと思ったのに、そんなこともない。不安が心の中で荒立つ。気を抜いてしまえば身体を勝手に突き動かしそうだ。

 上の空で過ごしていたというより、空虚な時間を覗いている感覚に近かった。毎日のように図書館に行き、あなたのことを待ち続けた。でも、あなたはいつまで経っても来なくて、段々と顔がぼやけてきてしまった。思い出そうとしても思い出せないもどかしさは、衝くほどのエネルギーを持っておらず、あなたを知る以前の生活へと次第に戻った。


 ひと月ほど経った頃。私は友達たちと、学食でいつものよりも少し遅めの昼食を摂っていた。


「そういえばさ、うちの学校がなんかテレビ出てたよ」


 話の脈絡も関係なく、一人の子が切り出した。私を含む卓を囲んでいたみんなは、その話に一瞬にして興味を持った。


「へえ、どうして?」

「さあ? 今朝、急いでるときにテレビでそんなこと言ってただけだから、どうしてかは知らない」


 勿体ぶった言い方をしておいて、中身を知らないという彼女に、みんなは口々に不満を漏らしながら興味を萎れさせていった。

 だけど、私とはす向かいに座る子はやはり気になるようで、インターネットで学校の名前を調べ出した。


 検索結果が並ぶと、数時間前に掲載されたインターネット記事が並ぶ。タイトルは『大学でイジメの末、自殺か』

 私はその記事を開くのが怖かった。簡単に開けそうにはなかった。何かよからぬことが起こりそうな予感がしたからだ。

 それでも恐る恐る開いてみると、一頻りほど心臓が高鳴り、次第に全身が内側から熱くなった。信じられないことに、記事のトップにあった写真に写っていたのは、あなたの顔だった。見紛うはずなどありえない。写真の下に添えられた文に名前も載っている。


「イジメで自殺? うっそー……そんなことがあったの……」

 記事を読み上げる友人が、当然のことながらあなたの名前も声に出して読む。私よりもあなたのことを何も知らない友人に、あなたのことを知らない世間の人々に、勝手にあなたの名前を読まれ、発音されるというのは言い表し難い屈辱だった。まるで最初からあなたのことをみんな知っていて、あたかも関係を持っていたみたいな言いぶりだ。

 何も知らないくせに、最初から全部を知っていたみたいに呼ばないでほしい。彼が黒縁眼鏡で、癖毛で、ライトグレーのパーカーをいつも着ていることを知らないくせに。そんな些細なことを知らないのに、私の前であなたの名前を呼ばないでほしい。狂いながら叫びそうだ。もしも私に自制心が欠如していたのなら、ヒステリーを起こして友人の頬を引っぱたいていたかもしれない。

 でも、冷静になって考えてみれば、所詮は私もこの人たちと一緒だ。いくら呪詛の言葉を心の中で呟いたとしても、あなたが一人でいた理由を知らなかったし、あなたが綺麗な名前をしていたことを知らなかったし、あなたがいつの間にかこの世から離れていたことを知らなかった。


 とても受け入れがたい現実。冷えた感情が自責の念を滾らせる。後悔というには余りにも軽薄で、懺悔の言葉を口にするのはどこか傲慢で、あなたを知りたいという気持ちだけが空気を読むことなく湧き出してきた。色褪せかけていた気持ちに今更、色が戻る。目の前は魚眼レンズを付けたみたいに湾曲していて、周りの声が合わせるようにして歪んでいく。


 あなたにこの想いが届くことはもう二度とない。あなたはもう動かないし、ライトグレーのパーカーを着ている姿を見ることも無くなった。私の記憶の中で生きているあなたは、時間によっていつかは引き裂かれていく。それでも、あなたはこの記事の中で再生され続ける。いつでも私は顔を見れる。手を引っ張れなくても、いきなり一方的に会いに行ける。


 また会いに来るね。


 誰も知らない私の気持ちを、絶対に聞こえない身体の内側で囁く。


『待ってるから』


 どこかからか、知らない声が聞こえた。

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