残片

平山芙蓉

歩き方

 四月に入る直前なのに、骨の髄まで冷えるほど寒い夜を、僕は独り歩いている。天気予報を信じて、薄着で外出したのが間違いだった。春先はうそ寒いものだと誰かが言っていたけど、流石にこれは冬と表現しても差し支えない。


 でも、この冷たくなった夜の中を、不思議としばらく歩きたい気分だった。何も特別なものなんて含まれていない今日という夜の中を。それは、昼間の暑さと違う蒸し暑さが漂う夏の夜でも、髪を乱すほどに強い風が吹く秋の夜でも、誰かを求めてしまう魔力を孕んだ寒い冬の夜でも駄目だ。身震いが起こるほど気温が低くなった今日の夜じゃないと、この心地を真に味わうことはできない。


 どこに行く宛てもなく歩き続けた。とっくに帰路からは外れている。だけど、次の角を左に曲がるか悩んだり、切れかけの街灯が照らす路地を覗いてみたり、たいして星も出ていない空を見上げたりしながら、ゆっくりと歩く。誰かが隣にいるとできない進み方を今夜はできる。自分の歩幅で、自分のスピードで。なぜなら、共に歩くというのは目的があり、その目的に向かい進んでいくことだからだ。途中で道草を食うのは、許されない。有限になってしまう時間を無駄に使う人間は、煙たがられて当然だと思う。


 だから、僕は誰かとは歩けない。そう気づいた。

 切欠は些事なことだ。ただ友人たちと食事に出かけ、ただ特別ぶった彼らの話を聞き、ただ自分がそこにいなくなったことを悟り、ただそれが静かに感情を軋ませただけ。たった一時間で気付けるに今まで気が付けていなかったと考えると、顔から火が出る。最初は小さな棘が胸の内側を刺激していただけなのに、全てを理解すると張り裂けてしまった。感情が、溢れそうだった。言葉は震え、早く独りになりたいと望んでいた。


 誰かと歩けないのはつまり、同じ目的を持つことはおろか、目的を押し付けることも許されない。ずっと独りで生きていくことが、僕に用意された余白だらけの模範解答だ。

 打って変わって、彼らはもう特別になってしまっている。だからこそ、僕を必要としなくなった。同じ目的を持つ意味も無くなったし、同じ世界を見る必要も無くなったと判断された。きっと、彼らが酒を呑み、煙草を嗜むようになったからに違いない。二十歳という澱んだ光に満ちた世界に一足早く這入り込んだ彼らから見て、僕は過去であり、ある点に磔にされた今との繋がりがない存在なのだ。そう納得すると、一緒に過ごした時間の跡は排水溝に飲み込まれていく水みたく流れ落ちては忘却していき、頭の中が伽藍洞になる。LEDに替えられた街灯の白い光が、益々、眩しくなったように思えた。


 歩いているうちに、さっきよりも気温は低くなる。頬を撫でる風は皮を削げそうなほどに鋭い。

 世界の色は無機質な白さを含んでいて、ハッキリと僕との境界線を引いている。自分の姿が見えるほどの光を含んだ夜を、昔の人々は想像できていただろうか。

 そんな無価値な考えに浸っていると、地元だというのにいつの間にか知らぬところまで歩いてきてしまった。そろそろ日付もエイプリルフールに変わる頃だし、帰ろう。そう決心して来た道を引き返そうとした時、一本の桜の木が立つ公園が視界に入った。


 公園には時間も時間なので誰もいなかった。気になって近づいてみると目線くらいの高さにある枝に、花が咲いていた。遠目に見れば、たいして咲いていないように見えけど、三分の一くらいは既に咲いている。


 立ち寄ったついでに、煙草を蒸かす。友人に押し付けられたのだが、捨てるのも勿体ない気がして、この一箱だけはセーフと決めている。肺に入れないよう気を付けながら味わう。苦い味を口いっぱいに含んでは、溜息を吐く要領と同じように吐き出す。昇っていく煙が桜の花弁に溶けていき、なんとなく悪いことをしてるみたいだったので、ごめんよと呟いた。

 何も考えずに見ていたが不意に、この場所で独り花を咲かせ、散って、葉を茂らせまた枯らし、冬を越えてまた春を迎えるだけの桜が、羨ましく思えてきた。誰かを知ることもなく、誰かを憎むこともなく、もちろん自分を責めることもなく生きていけるこの桜の木が、羨ましい。もし何かを言われても、ただ黙って佇むだけでいい。そんな桜を見ていると、次第に嫉妬が心を蝕んできていた。


 今度は、意図して花に煙を吐く。八つ当たりも甚だしいと、自分で情けなくなる。桜は抵抗することなく煙を受け入れ、花弁を少し揺らした。透明の水に垂らした墨汁みたいに、徐々に広がっていく煙に花は曇る。

 その光景を見て、きっと僕は桜になれないと悟り、蝕んでいた嫉妬は霧散していった。なぜなら、一度でも誰かと道を歩き、その時に感情が芽生えてしまっているからだ。独りでしか歩けないのに、独りで歩くことは辛いという感情を。今更、この桜みたいにずっと立ち止まったままでいることはできない。

 ぼんやりと眺めながらそんなことを思っていると、突風が吹いた。目を細めてしまう程の強い風は、できるだけ落とさないように気を遣っていた煙草の灰を巻き上げ、くすんだオレンジ色をしていた火を、サインランプみたいに照らした。


 風が止み、ふと、中空を見上げてみると、散って舞い上がった桜の花弁の中に、小さな紙切れみたいなものが混じっていた。最初は何かわからなかったけれど、まじまじと見て見れば、それはさっき同じようにして風に飛ばされた煙草の灰だった。

 二つはゆっくりと舞いながら地面に落ちていく。

 ああ、そうだ、僕は最初から自分の脚で歩いてなんていなかった。他人を羨み、妬み、卑屈になっていただけだ。僕が彼らの中からいなくなったのではなく、最初から僕は彼らの中にいなかった。スタート地点からずっと、叫んでいただけにすぎない。この桜と同じように、ただ一か所に立ち止まったまま、茫然としていたのだ。


 すっかり短くなってしまった煙草をポケットサイズの吸い殻入れの中に入れ、後ろを向く。この桜には歩くための脚がないにしても、僕にはしっかりとある。だからこそ、進んでいける。たとえ僕だけが阻まれる世界だとしても、歩き続けることはできる。この突き刺さる辛さも受け入れて、時々こうして立ち止まりながらでも歩ける。そんな道にいつの間にか立っていた。孤独でも、受け入れられなくても、普通のままでも、僕は歩いていく。

 ふと、そよ風が背中を押した。振り返ると、雪みたいに宙に浮いた桜の花弁が、僕の横をすり抜けていった。そうだ、こいつもここで、いつか終わる日が来るまで進み続けているんだ。

「ありがとう」

 なんとなく呟いて、冷たかった夜から僕は消えた。

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