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「ぐっ」


炎とともに殴り飛ばされた狼頭は床にしがみ付くようにしてなんとか立ち上がる。ローブは黒くこげてぼろぼろになっていた。棒を杖のようにしてなんとか立った狼頭が細長いビンをとりだそうとするのを見てシュンは先ほど投げ捨てた棒を拾って地面を蹴る。狼頭が必死に薬草水の栓を開けようとしている背後に飛んで、水の檻めがけて棒を大きく振った。空気が凪がれる音と共に水の檻の直ぐ傍に飛ばされた狼頭のもとまで行くと、シュンは棚から水が入ったグラスを取り出した。


「おっ、おい、待ちや、あかんて、おい」


上がった息の中なんとかシュンを止めようと何かを話すが、シュンは顔をしかめてそのまま狼の眉間の上でグラスを傾けた。滑らかに狼の顔を伝って肩までをじわじわと濡らしていく。シュンは狼の肩を棒で突く。ゆっくり傾いていく狼の背後には、活発な電流が跳ねている水で出来た檻。


「あかんてうわムリうわあああー! いってええ!!」


叫びながら狼頭が暴れて転がりもがき苦しんでいるようすを見下ろして、シュンは安心しながら棒をしまった。薬草水をちびちびと飲んでヒイヒイわめく狼頭の近くでしゃがむ。自力で術を解いようで、黒焦げのびしょ濡れではあるが荒い息で何もない床に転がっている。シュンは、そっと飲みかけの薬草水を差し出した。


「あ、ありが……あ?」


そしてそのまま自分で飲んだ。口の中で広がる苦みは不思議と優越感に満ちている。


「いえーい」


当てつけのように空になったビンを狼頭の真上で散らして、シュンはケケケと笑った。ぐったりと横になったまま、狼は肘をついていじけている。


「襲いかかって自分の術で負けるのって結構ダサいね」


「なんであえて言うん……そっとしといてや」


「あはは」


楽しそうに笑って、シュンは棚の中を見る。一目でわかるほどに赤い石が減っていた。少し考えてから狼頭を見る。


「……なんやねん」


「こういうのってさ、PKKっていうんでしょ。俺は切りかかられたけどちゃんとやり返すことができた、悪党を退治できたわけじゃん」


「悪党てなんやねん……まあ極端に言うたらそういうことにはなるわな」


「じゃあ何かいいことがあってもいいよね。例えばお金がもらえるとか、貴重なアクセサリーがもらえるとか、いい装備がもらえるとか」


「……な、何が狙いや」


狼頭は両手で自分を抱きしめながら縮こまった。シュンは棚を開く。


「石と金。この先のクエスト何があるのかなんとなく知ってるんでしょ。俺傭兵までなるはやで終わらせたいからさ、このまま進めても困らない程度の石とお金ちょーだい」


狼頭の動きが止まる。おそらく狼の被り物の奥の顔はぽかんとしているはずだ。


「そんなんでええんか……。いや、この先のクエストは分岐やからどんぐらいいるんか知らんし……」


「じゃあ持ってるだけ全部。どうせすぐ作れるでしょ」


「いやいや待て待て全部は困るわ、せやな、赤二百でどうや」


「……俺がここでとどめ刺して完全にキルしたら、どれぐらいアイテム落ちる?」


「悪かった! 全色六百や! これで勘弁してくれ!」


「おお~」


両手両足を投げ出して、投げやりになりながら叫ぶ狼頭にシュンは満足したのか頷いた。月の光を吸収してより透きとおって光る金髪をぼりぼりとかいて、棚を狼頭の方へ近づける。


「さあさあ早く早く。俺はやく落ちて寝たいから」


「……」


シュンに急かされて狼頭はしぶしぶ起き上がると、まだ回復していないのかふらふらしたまま棚を開く。「ええと」と呟きながら布袋の中に石をつめて廊下に並べていった。八袋全て、鮮やかな色の石がぎっしりつまって目の前に並んだのを見て、シュンは目を輝かせる。狼頭に感謝をつげて棚に丁寧にしまっていく。


「金はいくらがええんや」


「えっ」


シュンは思わず聞き返した。PKを止めたからとはいえ多くの石を受け取ってしまった手前、さすがにこれ以上せがむのはがめついだろうと思っていたからだ。しかし狼頭は当然のように棚の中に置いている残金の桁を目を細めて確認している。シュンは「ええと」と言いながら口の端を緩めるのが止められなかった。


ーーなんてチョロい……。


「一週間マユリノでご飯食べられるぐらい」


「はー……無欲なもんやな……」


「の、百倍」


「アホ」


ため息をつきながら棚をいじって紙束をシュンの棚に詰め込む。石がたんまり入った布袋に紙束の山が加わったシュンの棚は、まるでゲームをやりこんだ玄人の棚のようで、楽しくなったシュンは何度も棚を開いてそして閉じるのを繰り返した。そして棚の端にある時計を見てから我に返る。


「そうだ、俺明日に備えて寝るんだった。それじゃあね、石とお金ありがとう。マヌケは直した方がいいよ」


「やかましいわ……」


いじけたように始終寝そべったまま話していた狼頭をチラ見してから、シュンは棚の下にある「出国」の文字に触れる。ゆらりと遠ざかっていく意識は、眠気からくるのかそれともログアウトするときの特有の感覚なのかは分からない。眠るようにして王宮の廊下から姿を消した。シュンの棚の時計は、夜の二時を少し過ぎた時間を示していた。




ーーーーーー




夜の空は、全てを包み込んでくれそうな優しさがあった。


広い草原に横になり、全身の力を抜いて視界いっぱいに空をうつしたとき、今自分がどんな場所で何をしていたのか、何をしなければならなかったか、どんな悩みを抱えていたのかを忘れていられる。ケーキにまぶした粉砂糖のような星々を目にとめて、何も考えずただ「綺麗だなあ」と呟いて深呼吸をする。


それからゆっくり目を閉じて穏やかに流れる風を頬に感じて、無防備に意識を手放す。そうすることを許されていた。まだ風は冷たいが、セネカアルフィーンの芝はすでに生い茂りやわらかなカーペットのように人々に癒しを与えている。土が霜でしめった香りが鼻を横切って、タローはゆっくりと目を開く。深夜になると、夜の間は鳴いていた鳥や虫の鳴き声も全く聞こえなくなり完全な静寂が訪れる。目を開く音すらも、聞こえそうだった。


「……」


大きな鎧に身を包んだタローは、金属の音が響かないように慎重に起き上がって丘の下に見える景色に目を凝らす。幻想的なまでに赤い光で満ちていたマユリノ王国は、すでに暗い夜の中に溶け込んで何があるのか分からなくなっていた。手前に見える大きな湖が鏡のように月の光を跳ね返しているようすにじっと見入る。毎日こうして深夜にログインして、朝日が昇るのを見届けてからログアウトし眠る日々を繰り返しているうちに、クエストを進めずに街を見て回ったりしてしまい話が進んでいない。


ゆっくりと息を吐いて空を見上げた。深く息を吐くことで得られる安心感が、夜の暗がりでより大きくなってタローの気持ちを落ち着ける。世界がどうなっているかも確かに気にならないわけではない。ただ、今立っている場所にはどういう人々が生きていて、何をしながらどういう物を食べて、どういう文化とともに生きているのかのほうが、自分の心を湧き立たせるということに気付いてしまったのだ。


人には食べ物の好き嫌いが存在している。ある人には食べることが億劫なものがあるけど、他の人からするとそれは好物であることもある。人には得意なこととそうでないことがある。人によってちがうそれは、自覚して分担することで解消することができ、それを協力と呼んだりする。人には気持ちが存在する。行動の理由を気持ちにしても悪いわけではない。


住民たちと会話しながらタローが感じたことは、心のどこかでそうあればよかったのにと思っていたことがすべて言葉にすることができることの嬉しさが含まれていた。噛み締めながら眺める夜空は、どれほど時間があっても足りないぐらいだった。もう一つ息を吐く。微かに白くなったそれはじわじわと口元をちらついて夜に溶けていった。ふと、近くで草を踏む音がすることに気が付いて振り返る。あまり開けた場所にアカネが来ることはないが、ときどき喧嘩をふっかけられることもあったのだ。集中して見回すが、人の影はない。タローはゆっくり立ち上がって、近くの草影まで歩いていった。


「誰かいるんですかー?」


小さな声でそっと呼びかけると、近くのツツジの草陰が風とは違う流れに揺れて、一人の女性が顔をのぞかせた。首元で結んでいる長い茶髪を払って、白いエプロンについた草を気にすることなく慌てた様子でタローを見る。口元で人差し指をたてて「しずかに」と囁いた。タローは小さく屈んで、草と同じ高さのまま起き上がらない女性に顔を向ける。耳を澄まさなければ聞きとれないほどのちいさな声で、タローは話し出した。


「リオールさんじゃないですか。どうしたんですか、今日は遅くまでいるんですね。もうとっくに十一時半を過ぎてますよ」


リオールと呼ばれた女性は、ぎこちない笑顔を浮かべたまま頷いた。


「今日はちょっと用事があってね。珍しい花がこの辺に夜だけ咲くって噂になってるから、気になってしまってついつい探し回ってたらこんな時間になっちゃった。花も見つからないし、今日はもう帰ろうかな……」


「はは」と薄く笑って、リオールは立ち上がる。タローも軽く笑った。


「そうした方がいいですよ。明日も朝はやいんですし」


「ありがとう。そういうタロー君は、いつもここで夜更かししてるの?」


「まあ、そうですね。なんか無性に空を見ていたくなるんですよ。最近とかは、朝日まで見てから寝る日が多いですね。リオールさんには早く寝ろって言っておきながら何だよって感じですけど……」


笑いながら肩をすくめて、タローはそのまま草原に寝転がる。リオールも、それにつられて顔を上げた。視線の先に待っているのは、作られた誰かの理想の美。リオールはしばらく眺めてからゆっくりとエプロンについた草をはらった。


「それじゃ、わたしはここで。おやすみなさい」


「はい、おやすみなさい」


タローは微笑んでリオールが街のほうへと消えていくのを見守っていた。背中が見えなくなるのを待って、棚を開いて時間を確認する。深夜の二時過ぎは、現実世界の朝五時だ。ごくりと息をのんでタローはそのまま出国する。紺色の景色に、黄色い光が粉のように舞った。






ログアウト先の座標を自室のベッドに設定していた場合、よほどのことがない限りはベッドの上で目覚めることができる。衝撃で腰を痛めないようにやわらかなマットレスを敷いたベッドの上に転がった洸平はゆっくりと寝返りをうって微睡んだ。息を吐いてそっと目を開くと、眠気など欠片も感じさせない表情ですぐさまテーブルに向かった。白いテーブルの上には一冊のノートが置いてある。それを掴んでふと窓の外を見た。ビルの隙間から見えるやや白みつつある空は、人工物に圧迫されて今にもつぶれてしまいそうに見える。射し込んでくる微かな光からも、どこか義務的なものを感じてしまう。洸平は窓から目を逸らしてテーブルに向き直った。ノートを開いて一番新しいページを開く。


『今日はちょっと用事があってね』


「今日も、だろ」


先ほどのリオールとの会話を思い出しながら、ぽつりぽつりとひとり言をこぼす。


『珍しい花がこの辺に夜だけ咲くって噂だから、気になってしまってついつい探し回ってたらこんな時間になっちゃった』


「そんな噂はない」


『花も見つからないし、今日はもう帰ろうかな……』


「ほんとうは、まだ帰るつもりじゃなかったけど」


淡々と呟いて、洸平はペンを持つ。日付を書いて、その横に出国する前に棚で確認した時間を記録する。場所は「青い公園」、「言い訳」と書いた横に「夜にしか咲かない花の噂」と書き込んだ。最後に「タロー」と書き、ペンを置く。テーブルの右端に触れて大きな地図を表示した。洸平が自分でつくったゲーム内のマップである。セネカアルフィーンの首都付近を拡大し、大きな広場に赤いマーカーをつけた。他の場所にもいくつか赤いマーカーがついており、すべてセネカアルフィーン国内に集まっている。洸平は机の上に立てていた小箱を手に取り、中に入っている棒状のスナックをかじった。


「……」


ーーもし、あそこで俺に出会わずに、いや、出会ったとしても気づかないふりをしたままでいたら、リオールさんは寝ずに徘徊し続けるつもりだったのか……?


洸平はマップを睨む。


ーー夜通し首都内を徘徊して、一体何をしているんだ……。


残りのスナックを口に入れて、咀嚼しながらテーブルの上に触れて液晶を操作する。テーブルの上に映されているページには、「シフトエコー、ついにサービス開始。世界初のクルーシステムについて徹底解説」と大きな文字で書いてあるのが見える。日付は二月二十二日、テーブルの隅に表示されている今日の日付は三月六日だった。


「『三度のテストの末、ついにサービスが開始された話題のMMORPG「シフトエコー」。テストプレイヤーに大きな衝撃を与え注目を集めている本作だが、中でも一番関心が高まっている世界初のシステム「クルーシステム」について、今日は話をしていきましょう』……」


何度も読んだページの文字をぼんやりと読み上げていく。そのページの下の方にあるコメントを書き込める爛まで中指でスクロールした。そこでは、赤くて大きな文字の書き込みが強烈に存在を主張していた。


『死にたくないならやるな』


『運営は人が死のうが痛くもかゆくもないサイコ。お前らも殺される』


『苦しんで死ね』


ゲームのサービス開始に関する明るい記事とは空気の違う、思わず目を疑いたくなるほどの不穏な言葉が、ゲームを楽しみに期待するコメントの間に何度も書き込まれている。何度目かわからないそれを目に焼き付けるようにじっくりと見た後に深く息を吸って吐く。ゲーム内で感じた安心感はなく、ただ二酸化炭素が増えただけだった。すると、テーブルの左端はまぶしく光り「着信」の文字がポップアップする。開いていたページを全て閉じ、チカチカしている箇所に触れた。「駿汰」のもじが浮かんで通話中になる。スピーカーからは、やけに楽しそうな声色が響いてきた。


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