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「クン」
なぜか誇らしげなクロを横目で見ながらさらに奥へと進んでいく。喉が渇いて思わず棚を開くと、なぜかグラスに入った水がぽつんと立っている棚がある。グラスの下に小さな紙が挟まっているのを見つけてそれを引き抜いた。
「『ようこそ、マユリノ市街地へ』……あ、ゲーム進行報酬ってある。なるほどね」
ぽつりと呟くシュンの言葉で、クロは足を止めてシュンを待つ。手紙をグラスと同じ棚に戻して水を一口飲む。少し水が減ったグラスを棚に戻すと、上から注がれたかのように水が足されて元のかさに戻った。
「……」
シュンは目を疑って、もう一度、今度は少し多めに飲んで棚に戻す。水は、当然のように足されてグラスのなかで揺れていた。
「すごい……」
楽しそうにしているシュンの足元をくるくる回って、クロは先の道を急ぐよう促す。足首に当たるふわふわとした感覚に、シュンは我に返って棚をしまった。空を見上げると、屋根と屋根の隙間から見える色は彩度を失ってきている。その奥から、深い藍がシュンを見下ろしていた。クルーが消えると、アカネに襲われるかもしれない。シュンは早足で歩みを進めた。
歩けば歩くほど視界は暗くなっていき、それを彩る赤い光が際立っていく。橙色と赤色で輝く街並みを抜け、シュンの腕の長さほどある太い笛を演奏している人がつくる人だかりの脇を通り、水が施された石造の隣を行くと、目の前に大きな橋が架かっている場所までたどり着いた。老爺が丘の上から見せてくれた景色にあった、王宮の前の橋だ。朱色に染められている橋は、空の藍に滲んで一層美しさが増している。シュンは思わず足を止め、小さく深呼吸をした。すっかり冷えた空気が、シュンの鼻を赤く染める。
ここから先は、しっかり集中しなくてはいけない。
「……よし」
両手で自分の頬を叩くと、思い切って一歩踏み出す。橋の上に足を乗せると、木の向こうで空気が弾ける軽い音がした。一気に早足で進む。シュンとすれ違うように王宮から出てきた人々は、皆綺麗な服装で上品に笑いながら口元を隠していた。王宮へ向かうシュンより前を歩いている人も、何やら大きな本をいくつか抱えて格式高そうな雰囲気をまとっている。穏やかではあるが勾配のある橋の上まで来て、シュンは思わず自分の足元を確認した。砂や泥で白く汚れた靴からは、コソ泥くささがにじみ出ている。
「……」
しかしここで、素手で汚れをはらうのもあまりに趣がない。潔く諦めて橋の先を目指した
「そういえば、クロ、ペース落ちてない? 疲れた?」
ずっと前を歩いて案内していた黒い影が見えなくなり、シュンは話しながら後ろを振り返る。そこには、仏頂面の大柄の男がいるだけで、小さな犬の姿はない。シュンはへこへこと頭を下げて男に道をあけると、橋の下や通りに目をやり黒い犬を探した。
ーーまた好き勝手どっか行ったのか……?
半ばあきれ気味に目を凝らしていると、ふと人間のクロの言葉を思い出す。
『王宮までの道だけだがせいぜい癒されながら心穏やかに移動しろ』
「あっ……」
シュンは後ろを見て、そびえる屋敷に頭を抱える。ここからの道は一人だ。
「ええ……」
脱力したように肩を落として残りの橋を下っていく。とぼとぼ歩く姿は、見た目以上に貧相だった。橋を渡りきると、平たい石がまばらに敷かれた庭のような場所に出る。前に目をやると、屋敷の中にも大きな橋があるのが見える。
『中に入ってすぐの大きな赤い橋を渡ったら、そのまままっすぐ奥へ行け。今言っても分からんだろうが、ちゃんとこんな感じの送ってやるから自信持って歩くんだな』
シュンは歩きながらできるだけ自然に周囲に期待の目をやるが、チャマが道案内で出してくれた花のようなものはどこにも見当たらない。
「ないじゃんか……」
一層気持ちが暗くなり、拗ねたように呟いて投げやりな気持ちで屋敷の中に入っていく。赤い橋を渡った先には、同じ大きさの木の板が均等に張られた清潔そうな廊下が、迷路のようにあちこちに伸びていた。立ち寄った村の公会堂の外から見下ろした町の通路と似ている。華やかな服装に身を包んだ人々が談笑しながら細い廊下の先に消えていくのをぼんやりとながめて、どこか落ち着かない気持ちのままゆっくり足を動かした。上品な服を着た少年が、シュンと橋でぶつかりそうになった男が持っているカバンを預かっているのが見えた。
「こんばんは、今日も冷えますね」
「ああ、そうらしいですな」
「作物の調子はいかがですか?」
「今日は、そのことで相談に来ました。何人ぐらい待っていますかな」
大男に憶することなく笑顔で話している少年は、シュンの半分ほどしか身長がない。どんどん自分が情けなくなり、シュンは大男の後ろを通って太い廊下を探した。少年の「うーん」という声が後ろに遠ざかっていく。
『王宮は、大きく分けて四つの施設で構成されている。東西南北にそれぞれ大きな棟があって、その周りにちょこまかとしたいろんな部屋とか庭とかがある。クソデカい廊下が四つの建物を繋いでいるから、太い道だけを選んで歩けば、お前がとんでもないほど方向音痴でも奥まで行けるはずだ』
クロの言葉をなんとか思い出しながら大股でズンズン進んだ。クロの言う「クソデカい廊下」は、歩けば簡単に目に付いた。シュンはその廊下の真ん中に立ち、口をへの字に曲げて、入ってきた方向とは逆の方向を確かめてまっすぐ早足で歩いていく。
ーー俺は禁書を盗む極悪人なんだぞ、ちょっといかついからって農民に凄まれて怖気づくんじゃない。根性なしめ。
開き直ったのかよく分からない言葉で自分を鼓舞しながら、クロからもらったアメを思い出し棚から取り出す。可愛い包みに入ったそれを口に含んだ極悪人は、片方の頬を丸く膨らませながら王宮の廊下を歩いて行った。しかし、強がる極悪人の化けの皮は虚しいほどにあっさりと剥がれる。太い廊下は大きな四角を描いて四つの建物を繋いでいる。角を左に曲がって東の建物のそばを歩いていると、衛兵とすれ違った。無言でその場をしのごうと歩幅を広げる。
「……」
「おい、君」
「ひゃい」
緊張で舌がまわらなかったのと、アメの位置が悪く情けない返事になる。衛兵の言葉で足が止まった。振り返ることもできずに、衛兵の鎧が揺れる金属音を聞きながら次の言葉を待つ。正直なところ、心音がうるさくて会話どころではないのだが、ここで動揺しているようすを見せれば怪しまれて捕まってしまうに違いない。衛兵はシュンの顔を見て、訝し気な顔をする。
「はじめてみる顔だが、王宮ははじめてか? そっちは北に続く廊下だぞ、一般人は立ち入り禁止だ」
「へ、へえ~」
ひきつる笑顔のまま大げさに頷いて目を逸らす。衛兵はにこやかに笑ってシュンの背中を叩いた。
「ま、ここは広いし迷っちまうのも分かるよ。俺もここに来た時は何度やらかしたことか……」
「は、はは、ははは、は……
「どこに行こうとしてたんだ? 案内してやるよ。とりあえず南館に戻ろう」
「ハアイ……」
項垂れて衛兵の後ろをとぼとぼと歩く。口の中で転がるアメの味は、嗅覚までおかしくなってしまいそうなほど甘かった。後ろ手で巾着に手を滑りこませ、五羽ほど抜き取り左に握る。小股で歩きながら息を吸って、一羽を手放し後ろに飛ばした。
ーーサヨナラ、ヤサシイヘイタイサン、オレ、アクトウ、ゴメンネ。
そっと地面を蹴る。兵に声を掛けられた場所まで戻り着地した。足音が消えたことに素早く気付いた兵が、持っていた槍を後ろに突き立てるがシュンには届かない。素早くもう一羽を手放す。シュンが自分に従うつもりがないことを察した兵が、手首に付けている小さな笛を思い切り吹いた。甲高い音が廊下中に広がる。シュンは思わず「うわ……」と呟いた。
ーーしくった、兵から仕留めればよかったのか。
後悔してもすでに遅く、南の廊下から「どうした!」と叫ぶ声や足音が近づいてくる。衛兵は「不審者です! 奇怪な術を使っています!」と叫んで応援を呼び続ける。槍を構えてシュンにかかってくるが、すんでのところで鶴で逃げる。戦闘の教養がないため、逃げるか焼くかの二択しかないシュンは必死に広い廊下で槍をよけ続けるが、そうしている間に駆けつけた兵が応戦してくる。クロから預かった棒はあるが、訓練を積んだ兵士たちとやり合えることが不可能であることは明白だった
ーーだからって鳥を召喚しても一緒にたたかえないし! これは離脱だ!
捕まるぐらいなら逃げろ、という指示のもと来ていたシュンは、鶴で高く飛躍して兵の間を抜けると東館の細い廊下に逃げる。東館のどこかで廊下から飛び降りて庭を走れば町に隠れることができると思ったのだ。東館は蔵や小屋が多く、あまり人気がない。細い廊下を走り抜け、廊下と廊下の間を鶴で飛び越え懸命に兵を撒く。
「……っ」
ーーもしかして、俺今めっちゃすごいのでは……。
走って飛び、走って飛びを繰り返していると、身体能力が高い人であるかのように俊敏に動けている自分の体に感動してしまう。走って行き止まりの廊下を隣の廊下に飛び移る。手首の笛をこれでもかというほどに鳴らして応援を呼ぶ音が少しずつ遠くなっていくのを感じた。そのまま目の前の柱にぶつかり転ぶ。急いで起き上がろうにも、体はぴくりとも動かなかった。
「え、なんで? ちょっと待ってムリムリ」
廊下に大の字で転がっていると、兵すぐ後ろまで追いついていたことに気付いた。過呼吸のような息切れをしながら、冷静になっていくのが分かる。村で老爺から聞いた、魔力の話が頭をよぎった。
『お前さんがここまで歩いてくるまで、体力を使っただろう? それも、魔力の一つなんじゃよ。世界に存在するエネルギーの全て、生きとし生けるものは皆魔力によって支えられとる』
「まりょくぎれ……って、こと……?」
ーーさっきのは、音が遠くなったんじゃなくて、意識が遠のいたから……。
「まじか……」
大きなため息とともに、巾着のひもを残った力でなんとか絞る。詰まって膨らんでいたはずの巾着は、ややしぼんでいるのが手触りで分かった。兵がシュンまで追いつき肩を掴んで動かないよう抑え込む。抵抗する力もろくに残っていないシュンは静かに寝転がったまま廊下の天井をぼんやりと見ていた。
「なぜ逃げたりしたんだ。やましいことでもあったのか?」
シュンにはじめに声をかけた兵が覗き込んで咎めるように言う。息切れで言葉を口にすることすらできないシュンは、返事をすることができない。一人の兵が大きな鍵をもって来る。
「東の地下の鍵です」
「ありがとう。立てるか? 一度頭を冷やして、それから話を聞くから地下で休んでおけ」
兵二人がシュンの脇に手を入れ抱え上げる。干されたイカのように兵の肩にぶら下がると、シュンはさすがにこのままではまずいと体を揺すって抵抗する。首や肩を振って、今できる最大の大暴れをしてみせるが兵にはあまり効果がない。「こら、今更抵抗するな」ともっともな言葉をシュンにかける。
「暴れたら厄介だ、足も持て」
「はい」
「……っ」
シュンの足を持とうとした兵の顔を靴のつま先で蹴り飛ばした。体力がろくに残っていない蹴りは破壊力こそ欠けるものの、靴の固さはしっかり痛みとして伝わる。額をおさえて尻もちをつく兵を見て、シュンは調子にのってもう一発お見舞いした。
「この、何をしている」
シュンを肩で担いでいる兵が、シュンに頭突きを返す。鈍い痛みが酸素不足の頭の中で反響してめまいがする。シュンの顔が痛みに歪んでいるのを見て、兵たちは蹴られた兵を介抱した。騒ぎが気になってか、他の服を着た兵や王宮に勤める人々が通り際に横目で見ていく。想像以上のあまりの目立ちぶりに、シュンはうんざりしてため息もでない。息切れもおさまらず肩で息をしていると、シュンが飛躍する前の通路の蔵の入口に垂れていた幕が揺れる。赤色に金の刺繍が施されたその布から、細い手が現れそれを掴んだ。
「何があったんです、随分楽しそうじゃないですか。僕も混ぜてくださいよ」
白を基調とした紫の紋様の服を着て黄色い羽織を肩に乗せた青年が、無味乾燥した目でこちらをみていた。口角をわずかに上げているが、その碧眼は全く笑っていない。陶器のように美しい白い肌に、そのまま触れると溶けてしまいそうな繊細な白髪、伏せると長い睫毛が頬に影をつくるその人間を、シュンはもう一人知っている。
「タ、オ……?」
驚いたまま呟くと、青年は目を見開いてシュンを見る。兵の肩にぶら下がってぼろ雑巾になっているシュンに眉をひそめてから、兵の方を向いた。
「彼をどこで捕まえたんですか」
固まっていた兵たちが一斉に片膝をついて手を前で組む。
「北へ向かう廊下です。迷っているのかと声をかけると逃走したため捕まえました」
「そうですか」
青年は表情を変えずに少し考えるように袖口を見て、ふわりと微笑んだ。
「すみません、友人を呼んだことをお伝えし忘れていました。こっそり来るよう伝えていたので、声を掛けられて驚いたのかもしれません。とても内気な人間なので、許してあげてください」
「はっ……」
兵たちは戸惑って顔を見合わせあうが、静かに頭を下げた。
「分かりました。ご友人とは知らず、御無礼をお許しください」
「今見たことはなるだけ秘密に頼みますよ」
「はい、失礼いたします。ご友人は……」
「そこに転がしておいてください。僕が回収します」
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