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「青年や、一ついいかね」
「……はい」
シュンはクロを足元に置いて老爺の方を見た。
「これからも、ひずみの被害にあう人間は増えていくだろうし、お前さんが暴れ狂う人や生き物を見ることもあるだろう。理性を失って襲い掛かってくる相手は、ひどく狂暴で恐怖を感じるはずだ。言葉は当然通じんし、どうしようもなく腹が立つようなことをされるかもしれん。だがな、それら全て、彼らの意識は関係していない。理性、自我を失った時点で、自身にコントロールが効かんのじゃ。微かに意識が残った状態で、周囲を襲っていしまう人間もおる。苦しいものじゃ、ともに過ごした大切な人々を、どれだけ拒んでも自分の手が殺めてしまうのだから」
老爺は言葉を切って遠くを見る。寂しげな眼差しで言葉を続けた。
「どうか忘れないでほしい。彼らは望んでそういう姿になったのではないということ、そして、周囲を襲うことに一切の敵意がないことを」
シュンは頷いた。敵意がない相手を、襲ってくるからと言って倒してしまうのも胸が痛いが、それ以外に対処法がまだ分からないのだとクロも言っていた。シュンは右手の指輪を見る。いつかこれを、相手を殺すために、使うときが来てしまうのだろうか。老爺は言葉を失っているシュンに微笑みかけた。
「良い指輪だ。大切にするといい」
「……はい」
「それじゃ、行っておいで。良い空の旅を」
「ありがとうございました! えっと、その、お体に気をつけて!」
「ハッハ、ありがとう」
老爺がシュンに手を振ると、鳥が大きな翼を開いて勢いよく飛び上がる。ぐらりと大きく揺れたのによろけてカゴにつかまると、クロが足元で伏せってつぶれていた。強い風に髪をかき回されながらクロを抱き上げて、老爺の方を振り返る。白い大きな袖がひらひらと揺れているのが分かり、シュンも大きく手を振った。
「不思議な村だったなあ……いい人でよかったけど、次はもう勝手にどっか行くなよ」
シュンに咎められているのが分かるのか、クロは垂れた耳をさらに下げて目を逸らす。ふわふわとした毛が風になびいてシュンの顎をかすめた。遠くの空を見ると、日が傾いてかすかにオレンジ色が滲んできている。淡い日光に照らされた赤い屋根が艶やかに光り、反対では影をつくる景色はとても綺麗だった。シュンはゆっくりと息を吐く。道を歩いている人々は、どんな用事でどこへ向かっているのだろうとのんびり考えながら下に広がる景色を見つめていた。
「ひとまずさ、関門とやらについたら、何か食べるものを探したいな」
シュンの言葉にクロははしゃいでもがく。朝食の後から何も食べていないのは、クロもシュンも同じなのだ。シュンは顔にかかる髪を耳にかけながら「ううん」と唸る。家だと思って見ている建物の中にも何かしらの店はあるのだろうが、人目につかずに店に入るということが可能である気がしない。それに何より、シュンは不特定多数の人間と食事をした経験がない。経験がないことは、何であろうと気が向かないもので、シュンは無意味にもう一度「ううん」と唸った。
「そうだ、お金……」
手を横に動かして棚を開く。一番下の段に細い紐で縛られた長方形の紙がどっさりと入っている箇所があった。数えてみると、五十枚ずつの束が四つ。二百枚はあるということになる。シュンは束ごとに手に取って紙の柄を確認していく。数字や何やら分からない文字、誰かは知らない難しい顔をした人の顔が描かれいるようすからして、お金であることには間違いないようだ。四束目の最後の紙までぱらぱらめくって確認して、シュンは小さく呟いた。
「全部同じ柄だ……」
学校に通っていたころに読んだ歴史の本には、貨幣と紙幣で何種類もあると書かれていた。種類わけしてあっても管理が大変そうだとシュンはうんざりした記憶がある。数字で表示されるお金しか手にしかことがないシュンからすれば、実際に触ることができるお金は新鮮であると同時に手間だ。
「これ、もし一種類しかなかったらこれから先結構かさばるんじゃない? ……どうしよ。物価も分からないし、お店に入ったはいいけど足りなかったら食い逃げ泥棒になるしなによりめっちゃ目立つ……」
「ううん」とまた呟いてため息をつくと、シュンは棚をしまう。空はすっかり夕日に焼けて、屋根の色が移ったように赤くなっていた。
「ついたら一回ログアウトしよ」
疲れたように呟いて、カゴの淵にもたれながら流れる景色に目を乗せる。青い目は、夕焼けに染まって宝石のようにきらきら輝いていた。
ーーーーーー
『それで? 億劫になってログアウトしちゃったの? 駿汰ちゃんってばシャイね』
「なんでそんな話し方なんだよ」
白い壁に白い天井の駿汰の部屋にも、夕日が射し込んでオレンジ色のスポットライトがペットボトルを抜く。テーブルの隅がぼんやりと光り、「通話中」の文字が浮かんでいた。洸平はヒヒッと悪そうに笑う。駿汰はスプーンでカップの中の白く濁った液体をくるくると混ぜて、ふっと息を吹きかけた。漂っていた湯気は慌てて逃げるかのように消えていき、駿汰はそれをゆっくりすする。味がしないかと聞かれると確かに何らかの味がするのだが、説明しろといわれると困ってしまうそれは、かすかな甘味を残して喉の奥に消えた。
「仕方ないだろ、店を探して店に入って、お金が足りるかを確かめて店の流れを把握してってしている間に暗くなったら困るし。食い逃げするわけにもいかないと思って俺なりに考えたんだよ」
『めんどくさいから家で食べちゃお~ってか?』
「う……」
正確にからかってくる洸平に言い返す言葉がない。駿汰は目の前のスチールの皿に乗ったフレークをスプーンですくって口に放り込む。四角い皿は中で三つに区分けされており、茶色のフレークは一番広い場所に転がっていた。ぼりぼりという咀嚼音が聞こえたのか洸平は「あーあ」と残念がる。
『向こうで出てくる食べ物のほうがおいしくない? こっちで食べるのもったいないと思うけどなあ』
「まあ、それはわかる。なんとなくしか知らないものばかりだけど、全部めちゃおいしい。トマトは万能食」
『え? なんでここで素材の名前がくる?』
「トマト三日連続で食べてる気がする。めっちゃうまい」
『やば、マユリノってトマトが名産品だっけ?』
駿汰は少し考えて、農場の中にトマト以外の野菜もたくさんあったことを思い出す。パプリカもカボチャもレタスも、どれもこれも美味だった。
「知らない。多分だけど、クルーが好きなだけじゃないかな。トマトジュースがぶ飲みしてたし」
『それってパシってくると噂のクルー?』
「うん、クロっていう人」
『個性強いのに名前シンプルだなあ……』
静かにツッコミを入れる洸平に、駿汰も思わず「わかる」と笑う。フレークを食べきると、粉生地を固めて焼いたブロック状のスナックをつまんでかじった。いつもと変わらない食事だが、クロやタオと食べていた色鮮やかな食卓と比べると幾分も貧相に感じてしまう。口の中が粉っぽくぱさつくと、皿の横に置いていた透明なパウチの中のゼリーを吸い込み潤した。ほのかに黄色のゼリーは、駿汰が飲んだ分だけ減って、プラスチックのやわらかなパックの中でつやつやと光っている。「そういえば」と駿汰が話を切り出した。
「チュートリアル、終わったよ」
『マジか! 思ったより早かったな! 認定試験は?』
「それはまだ。というか、認定試験の話じゃなくなってて、今王宮に忍び込まないといけなくなってる」
『なんだそれ。それ、修練中メインクエスト? サブなら置いとけば?』
「うわ、どっちだろ。分からないけどサブとか受けた覚えないからメインじゃない? とにかく、傭兵になったらセネカアルフィーンに行けばいいんだっけ。それはちゃんと覚えてるから安心して」
スナックの残りを口の中に押しこめる。それをゼリーで流し込むのも、いつもと同じだ。
『そうそう。確か傭兵に認定されたら、所属国を聞かれるはず。そこでセネカアルフィーンがいいって言えばいいんじゃねえのかな。俺もよく知らないんだけど』
「あ、そっか所属国」
『駿汰ちゃんしっかりしてね……』
「だから話し方どうしたのってば」
笑いながら、駿汰は透き通った緑色のカプセルを頬に含んでカップの液体で飲み込む。銀色の皿が何事もなかったかのように空になると、駿汰はふっと息を吐いた。窓に目をやると、薄いカーテンの向こうは暗い色が滲みだしている。駿汰はカップの中をぐっと煽って飲み干すと、机に表示されている時間を確認した。ゲーム内の時間は現実よりも三時間遅い。それでも、今日中に禁書をクロの元まで持っていきたいと駿汰は思っていた。しなければいけないと分かっていることは、できるだけ早くすませてしまいたい。
「洸平、俺とりあえず今のクエスト終わらせてくる」
『わかった。じゃ、お互い頑張ろうぜ』
「うん。そういえば洸平は今なにしてるんだっけ」
『メインストーリークエスト。駿汰が今やってるのは、マユリノ内の修練中クエストだろ? それが終わってどこかの国の所属の傭兵になったら、今度は所属国のストーリークエストと一緒にメインのストーリークエストが始まる。それだよ。苦戦しててな……』
「難しいんだ」
洸平は「うーん」と呟いて少し考えているのかややあってから「うん」と返事が来る。
『ま、そんなとこだ。じゃあな、傭兵試験が終わったら連絡してくれ』
「わかった。おやすみ」
『おやすみ』
白いテーブルの上で光っていた「通話中」の文字が消え、駿汰の部屋は白と紺と仄かなオレンジ色で満たされる。大きく背伸びをすると、ペットボトルを引き寄せて中の水を飲んだ。ぬるりと流れるぬるい水は、駿汰の喉を潤すとともに心を落ち着ける。ゆっくりと立ち上がって、後ろにある扉の手すり近くの青いパネルに手を当てた。
「入国申請」
ぽつりとつぶやく駿汰の声が、静かな部屋の中に浮く。
『入国許可。マユリノ王国、カーサフロリア関門前に接続します』
機械的な声を聞きながら扉を開いてその中に片足を伸ばした。白い水の中に踏み込んでいくような不思議な感覚は、何度経験しても慣れない。駿汰は深呼吸をして、息を止める。一気に扉の奥へと飛び込んだ。
「……っ!」
肩を縮こませて立ちすくんだまま、恐る恐る目を開く。行き交う人々がシュンを一瞥して通り過ぎていくのを見て急いで姿勢をただした。何も知らないような顔で平静を保ちつつ早足で木の影に隠れてしゃがみこむ。貿易商らしい大きな荷物を大量に積んだ馬車を連れて歩く人や、シュンと同じような服装のサマナーが楽しそうに笑いながら会話を楽しんでいた。太い二本の柱でできた朱色の関門には、セネカアルフィーンに向かう目的のある人で長蛇の列になっている。腰の革袋に手をやって、クロから預かった笛をつまみだし、賑やかな音にかき消されるほど小さくそっとそれを吹いた。
高い澄んだ音が、どこかから空気が漏れているかのような音と共にかすかに聞こえ、黒い靄と共に犬のクロが姿を現す。食事を終えて満足なのか、やや先ほどよりふっくらしているようにシュンには見えた。ふわふわの頭をぽむぽむとなでると、シュンはのそりと立ち上がる。
「王宮まで、できるだけ近い道で案内してくれ」
「クン」
クロはやけに聞き分けよく、左右に揺れながら歩いているのではと錯覚するほど楽しそうに歩きだした。シュンは不信に思いながらもその小さなお尻を追う。
ーーまさかこの犬、ずっとお腹空いてたんじゃ……。
空腹で、人の焼かれるにおいにつられてあの村まで行ったのだとしたら、と考えて、シュンは首を振った。今は王宮で日誌を手に入れることだけを考えるのだと、クロのことをもみ消す。乾いた砂の混じった固い土の地面を人にぶつからないように進んで、大通り沿いに並ぶ建物に目をやった。大衆食堂のようなものがあれば、どういうものか見ておきたいと思ったのだ。楽しそうに話している人々が家ではない場所に吸い込まれて行くところはないか、注意して周囲を見る。順応性を見せて、洸平をあっと言わせたかった。タオがクロに抱いていた気持ちと似ている。
「クン」
「あ……」
きょろきょろしながら歩いていることをクロに指摘される。立ち止まって振り返っている小さな目は、どこか冷めていた。シュンは慌てて距離をつめて背中を撫でるも、クロはジッとシュンを見てぺしぺしと靴先を叩くとそっぽを向いて歩くのを再開する。
ーーいいからさっさとついて来い、って言ってるのか……?
「分かったよ」
犬に従うというのもおかしな話だが、今回ばかりはクロが正しい。シュンは口先をとがらせながらクロの後について、影が増えてきた町の中を進んだ。小道に入ると暗い場所が目立つ。家の軒先や道の脇に提灯のような、紙で灯りを包んだものがぽつりぽつりとついていき夜のマユリノを照らしていく。何処からか聞こえる陽気な音楽や、店らしき建物から聞こえる大きな笑い声が次から次へと耳に入り、小屋で過ごしていた静かな夜とは違う色を出していた。シュンはクロに誘導されて石畳の小道の中に入る。ぼんやりと光る看板があちこちから出っ張り、足元の石までを赤く彩っていた。シュンは思わず息をもらす。
「……すごい」
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