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「なんだ、お前はそれだけでいいのか?」
まだ半分ほど残っているシュンのグラスを見て、クロは顔をしかめる。不思議と、今はどんなに凄んでもトマトのひげが圧力を緩和して全く怖いと感じない。シュンは笑いをこらえながら頷いた。
「はい、ありがとうございます。あの……」
「なんだ」
「えっと……」
「なんだよ」
「その……」
シュンは目を泳がせながら、食卓として使われていたテーブルの端に紙ナプキンが複数枚並べてあったのを思い出す。すっくと立ちあがってソファから離れると、食卓のもとまでズンズン歩いて紙ナプキンを一枚手にとり無言で戻りクロに差し出した。
「は……?」
シュンのいきなりの行動に動揺しているのか唖然としているクロ。口元は依然赤いままである。何度か迷ってから、シュンは紙ナプキンを半分に折りたたんで「失礼します!」と言いつつクロの口元をぬぐった。顔が左右に動いてしまわぬよう左手で頬を支えて右手でふき取り、跳ねるように後ろに下がる。クロはぽかんとしたまま俯いて頭を下げているシュンをじっと見て、それからその手元を確認し、状況を確認していく。シュンの手のひらは、クロの頬を包むには十分の広さであった。二人とも硬直したまま何も話さない時間がすぎる。外で鳴いている鳥の声が騒がしくさえ思えた。静まり返った空気に耐えかねたシュンが小さな声で呟く。
「……すみません」
「……」
「トマトジュースが、ついていまして」
「……」
「言葉にしたら恥ずかしいかなと思ったのですが」
「……」
「無言で差し出すのもわけわかりませんよね」
「……」
「顔、小さいですね」
「それ以上話したらぶん殴るぞクソが」
「……すみません」
頭を下げたまま動かないシュンを細い目で見ながら、クロは大きなため息をついてソファの背もたれにもたれかかった。「あー」と疲れたような声も、いつも通りに聞こえる。シュンは恐る恐る顔を上げた。
「……あ」
クロと目が合って、そのまま同じ速度でまた頭を下ろす。いつもと変わらない不機嫌そうな表情だが、耳の先が赤くなっていた。もう一度消えそうな声で「すみません」と呟く。クロはシュンを横目で見て、空になった自分のグラスを指先で弾いて消した。
「悪かったな、気にするな」
「……え?」
聞こえた言葉に驚いて、シュンは顔を上げる。顔色がすっかり戻っているクロがつまらなさそうな表情でシュンを見た。まゆがぴくりと動くものの、大きな反応をすることはない。
「今のは俺が悪かったって言ってるんだよ。何突っ立ってるんだ、さっさと座れ」
「あ、え、はい!」
急いで足をからめそうになりながらもシュンはなんとか先ほどまで座っていた位置に戻る。ソファに沈むシュンを見て小さく咳払いをすると、クロはシュンに手を出した。指先で紙ナプキンを指している。
「ほら、それ貸せ。すまないな」
「いえ……」
呆然としたままシュンは手に持っていた紙ナプキンを渡す。受け取ったクロが手のひらにそれを転がすと、手のひらに近い場所から紙だけが燃えてじわじわと黒くなっていった。赤や黄色の小さな火に飲み込まれて黒い灰だけがクロの手に残る。それを握りしめたかと思うと次に拳を開いたときには何もなくなっていた。手品を見ているかのような気持ちでシュンはクロを見る。浮かんでいる得意げな顔は、いつもの強気なクロだった。
「これは火を召喚している。覚えておくか? 便利だぞ。日常生活の助けにもなるし、もちろん攻撃にも使える」
「はい。あの、熱いですか?」
「熱いこともある。やけどするほど熱くなったりはしないが、心配なら手やら顔やらと距離をとって召喚すりゃいいだけだ。じゃ、ついでに術式を省略して簡単に召喚する方法も教えておいてやる。ちょっと待ってろ」
クロがソファから下りて、棚から小さな紙と手のひらに収まるほどの大きさの袋をもって戻ってくる。何も書いていない紙をテーブルに置き、袋の中いっぱいに入っている赤い石をその上に並べていく。親指の爪ほどの大きさの石が、部屋の中を照らしている蝋燭の灯りに艶めいた。シュンの目には不規則に見える石を並べ終えて、クロは袋を脇に置く。八粒の石が置かれた紙をしっかり確認してから、シュンの方を向いた。
「これが、火を召喚する術式だ。石の位置とかは気にすんな、何度も見るうちに覚えるだろ。この陣で直接火を出すなら杖かペンで、紙にいろいろ書くことがあるんだが、省略術式として記録しようとするならまた別だ」
「省略術式……」
「さっきの俺のトマトジュースは、トマトの部位もグラスも何も用意せずいくらも出てきただろ? ああいうのを省略術式っつーんだよ。お前に渡した鶴もそのうちの一つみたいなもんだよ。簡単なきっかけで術を使えるようにする、これを覚えてものにしたものの数が多いサマナーの方が戦闘のときは有利だな。王宮で襲われたときに備えていくつか覚えておくといい。俺の杖でやっても意味がないから、ほら、杖を出せ。石の先を紙に向けて持つんだよ。そしたら石の先でまずこの石に触れる」
クロに言われてシュンはそわそわしながら、腰の革袋から杖を取り出す。洞窟の暗がりでよく見えなかったが、柄の部分には細やかな花の装飾が彫られていた。クロの言う通りに杖をもって、一番端に置かれている石に杖の先を当てる。先が透明な白い石がきらりと光るのを見て、クロが別の石を指さす。
「今度はこれで、その次はこっち。そこからぐるっと回って最後は真ん中の石に当てろ」
「はい」
シュンは緊張しながら杖の先で石を順番につついていく。そのたびに宝石のように杖の先の石が光るのが、シュンの心をわくわくさせた。中央の石まで行き着いた杖を汗ばんだ手で摘まみながらクロに目をやる。クロは黙って自分の杖をくるりと回し、指輪を一つ召喚した。
「お前、利き手はどっちだ。今杖を持ってる右手が利き手か?」
シュンは頷く。クロはやや震えながら杖を持っている右手を見て小さく舌を打った。ソファから立ち上がりテーブルに乗り出すと、指輪を持ったままシュンの手を掴む。
「杖を離すなよ」
「はい……」
離すなよ、と言いながらもクロは杖を掴んでいるシュンの指を一本ずつつまみ上げて杖から離した。薬指まで杖から離れたところで、シュンは無言で首を振ってクロに「これ以上指を離すと杖が落ちます」と必死で伝える。
「……」
クロはシュンの顔を見て眉間にしわを寄せるが、意図は伝わったのか指外しをやめる。杖から離れている小指と薬指を見比べて、薬指に指輪をそっとはめた。
「そのまま、何か燃えるものをイメージしてみろ。火が燃えているものならなんでもいい」
「火……」
昨日、夕食の支度をするときに使った台所の竈を思い出す。薪を転がしながら穏やかな音で強い光を放っていた、シュンは見た中では一番大きな炎である。舞う煙と木が燃える音とともに、景色を揺らす鈍い熱気がゆらりゆらりと迫る。思い出している火が揺れるたびに、右手の薬指がじわじわと痛んできた。指輪に目をやると、何の変哲もない金属の指輪だったものが赤銅色に変化して赤い石がついている。杖の先にあった赤い石は、熱された蝋燭のようにとろけて紙に染みをつくっていた。シュンは驚いて顔を上げる。クロはニマニマと笑ってシュンの指輪を見た。
「できたな。それでもうお前はいつでも火が召喚できるぞ。ただ、無制限にできるってわけでもない。術のもとになる魔力の供給源に赤い石を補給し続ける必要がある。魔力庫の話をしよう。目の前で手を横にスライドさせてみろ」
「……おお」
シュンがぎこちない手つきで手を空中に泳がせると、目の前に大きな陳列棚のようなものが広がった。四段で横に長いそれは、シュンを囲むようにぐるりと曲がって漂っている。棚の中は空っぽで、何も入っていない。クロはシュンに、テーブルの端に置いていた先ほど赤い石を取り出した袋を差し出した。先ほどの陣で八つほど使ったにもかかわらず、袋の中はまだ石がぎっしり詰まっている。
「これをその中に入れておけ。火を使うときに持ってる分は勝手に消費される」
「ここの石がなくなったら……?」
「火を召喚することができなくなるな。残量をよく見て使えよ。ま、無くなりそうになればそこらの石を集めて鍛えて、赤いやつがあればそれを適宜ためて行きゃあいい。金があるときは石屋から買えばいいしな」
「はい。その、石を鍛えるっていうのはどうやるんですか?」
「あー……」
クロが少し考えるように天井をじっと見た後、自分の手を目の前で横に流す。さまざまな色の石があふれた大きな布袋や、シュンやタオが集めてきたのと同じような鉱石が山のように盛られたカゴ、トマトや本に、よく分からない虫などで埋め尽くされている棚が現れた。その高さはシュンの手元に広がるものよりはるかに高く、途方もないほどの大荷物にシュンは圧倒される。クロは何でもないようにその中のカゴから鉱石を取り出して、それをシュンに渡した。
「今度は下から上に手を動かしてみろ」
言われたままにシュンは右手を動かすと、陳列棚の下に大きな窯が現れる。クロがその中に石を放り込むと、少ししてシュンの寂しい棚の中に赤色の石が二つと、黄色の石が一つ、ころりと転がってきた。小指の爪ほどの小さな丸い石は、あたたかいのか仄かに湯気が上がっている。
「これだけだ。おバカちゃんでもあっという間に習得できる簡単仕様になっているから、こまめに集めておけ。それから、釜の温度を変えると出来るものが変わってくるから、いろいろいじってみるといい。そうだ、ちまっこいのを集めて放り込めば少しづつ精度や強度の高いものができるから、必要に応じていろいろ作ってみるんだな」
「はい、ありがとうございます!」
シュンはクロから受け取った袋も棚にしまった。窯を取り出すときと逆に、上から下へ手を動かすと窯が跡形もなく消える。棚も同じ要領でしまって、もう一度開く。引き出しを開くような音とともに、中身が寂しい棚が現れる。クロは自分の棚をしまって、変わらずシュンの肩や頭に止まって大人しくしている白い鳥を見上げた。
「そいつもついでに休ませてやれ。これだけ動いてもお前のもとから離れないなら、まあ脱走の心配はないだろう。その棚の上に鳥かごがあるはずだ、そこに誘導してやれ」
「はい」
シュンは頭に向けて手の甲を近づけると、手首をつつかれそっと足が乗ってくるのが分かった。シュンの手の上に乗って左右に移動しているのを感覚で確認すると、棚の上の方の段にある檻の扉を開けて近づける。「マ!」と一言話したかと思うと、すんなりシュンの手の上を跳ねてカゴの中に入っていった。ケースに入った水をつつく落ち着いたようすに、シュンはふっと息を吐く。ぴょこぴょこと跳ねながらカゴの中を元気に動き回る様子をじっと見ていると、呆れたクロに「おい」と咎められる。
「まじで狐には気をつけろよ……?」
「……はい」
自分が狐にメロメロになるのは考えにくいと思っていたが、今のシュンでそれを言っても説得力に欠けた。静かに頷いて棚をしまう。薬指の指輪を一瞥してから窓を見る。窓の向こうは日が傾いて赤い夕焼けが広がり、川の水をオレンジ色に染めていた。シュンの視線を追ってクロも外を見る。
「もうそんな時間か。あいつはまだ夢ん中か?」
訝し気な顔をしてクロが席を立つ。シュンもその後に続いた。台所の奥の布の向こうでは、タオは穏やかな寝息を立てて眠り続けていた。悪夢にうなされているわけでも、体調に異変があるように見えるわけでもなく、ただ静かにまるで今が深夜であるかのように熟睡している。クロがカーテンから覗くのをやめて台所に引き返すと、唸りながら頭をかいた。さすがにここまで眠るのはクロも想定外なのか。シュンも部屋から離れる。
二人目である、ということを考えるとついシュンは「本当に人間みたいだ」と思ったが、「人間みたい」なのではなくタオは人間なのだ。昨日の夜食べたトマトが脳裏をよぎる。クロは召喚されたものは、元と成分も栄養も同じだと言っていた。だとすれば、人の体に起こるとは到底思えない、陶器がひび割れたようなあのタオの傷口はどう説明するのか。シュンは自分の右手首を見た。鳥の爪がつかんだ感覚があの傷の痛みと似ているのかとつい思ってしまう。シュンが考えていることが想像できたのか、クロは肩をすくめて「やめておけ」と呟いた。
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