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後ろ向きにかがんで、恐る恐る足で石を探す。崖に押し込まれたような手のひらほどのサイズの石は、シュンが足を乗せると砂ぼこりを吹きながらぐらりと揺れた。


「うわ……」


肩を引きつらせながら、慎重にもう一歩を置く石を探る。崖の際を掴んでいる手が汗ばんで、砂が手のひらにくっついて滑る。そっとさらに足を下へと下ろしていくが、風の音と下を流れる川の音が気になって仕方なかった。記憶はないのに死を連想してしまう。走馬灯の存在は知っているが、とくに思い出す事のない自分には何が見えるのだろうとシュンは思った。


「おーい、大丈夫?」


かなり下の方からタオの声がする。「大丈夫」と慌てて返事をすると、シュンは妙に焦ってくるのを感じた。急いでいるわけでも誰かと競争しているわけでもないけれど、何かに怯えて慎重になっているときに感じる特有の焦りだった。先ほどまでとは比にならない速度で石を掴んで下る。川の水が岩に当たる音が近くなってきたのを感じると、どうにか安心しようと石をつかんだまま慎重に振り返った。残りの距離を見て、再び奮起しようと思ったのだ。


しかしそんな淡い期待も、泡のように消える。


「……え?」


振り返って下を見たシュンの目の前には、大きな爬虫類の目に似たものが二つ並んでいた。左右にぬるぬると動くそれは、縦に細長い瞳孔でシュンを捉えて大きく見開く。


「ひっ」


人は危機を感じると慎重さを投げ捨てることがある。シュンは飛び跳ねるように石から手を放して足で反動をつける。数段下にある石に片手でしがみ付くとそのままさらに勢いをつけて崖を滑り降りた。掴んだ石が崖の下に零れ落ちようと今のシュンには関係ない。


「……っ」


根拠はないが、あの目を前にして油断してはいけないと思った。その場にとどまることも同様に、よくない結果につながりかねないと漠然と感じたのだ。岩が突き出た川のほとりに勢いよく着地すると、舞った砂ぼこりをはらうこともせずに片膝をついて崩れた姿勢のまま急いで崖を見上げる。そのまますぐに左右を見渡して、タオの姿を探す。


「タオ!」


頭の中を嫌な想像が駆け巡る。あの大きな目の持ち主の口にくわえられたタオの細い体は、軋む間もなく千切れてしまうのではないか、驚いた拍子に崖の途中から落下してしまったのではないか、川の流れに流されて溺れているのではないか。


パチパチ……。


平静でいられないシュンの背後から、静かに両手のひらを打ち鳴らす音が聞こえてきた。拍手というには貧相な、乾燥した音だった。音がした方向に振り返る。黒い髪を耳の上で丸く編んだ少女が、しかめっつらでシュンを見下ろしていた。首につけているチョーカーから垂れる黒いタッセルが風に揺れる。目を細めてシュンを見た後、少女はめんどくさそうに眉をひそめた。


「随分立派な度胸をお持ちのようだが、怪我はないのか? どれ、左右に歩いてみろよ」


「さ、さゆう……」


可愛らしい顔からこぼれてくる強気な言葉に圧倒されて、シュンは体勢を整えてその場で左右に移動する。問題なく歩けることが伝わったのか、少女は口調を変えずに「ふむ、前後は?」と続ける。自分の状況がのみこめないまま、シュンは流されるように後ずさった後、少女のもとまで歩いた。


「なるほど、大丈夫そうだな。……ぼろ雑巾のようなものしか着ていない状態でこの耐久度……盾に使える……」


「あっ、あの、さっきそこに化け物みたいなでかい生き物が! 知り合いが見つからなくて!」


ぼそぼそと呟く少女の意識に割り込むように勇気を振り絞り声を張る。そこに、と言いつつ崖の上を指さすも、その先には目立った生き物は見当たらない。少女は目を細めて空を見上げた後、シュンに憐れむような目をむける。


「幻覚か何かで苦しんでおいでなのかな。病気だとしたらお気の毒だがあいにくここにはそういうのに効く薬はないんでね、他当たってくれませんかね」


「は……」


「病気じゃなくて幻覚が見えるヤバいものを嗜んでおいでならとっとと川に流されてどこへでも行ってくれ」


ただただめんどくさそうに一定のペースで話す少女に、シュンはただ唖然とするしかない。幻覚確定コースしか存在しないなら、自分がさっき見た大きな目は一体何だったというのだ。


「いや、多分、どっちでもないんですけど……大きな目を、見て」


「へえ~」


「爬虫類みたいな感じのやつだったんですけど、心当たりとかって……」


爬虫類、と聞いた少女がピクリと眉を動かす。細やかな刺繍が細工された細身のワンピースの腰あたりにホルダーで提げている小さな皮のケースを取り出すと、中から金属の棒のような物を取り出して先をくわえる。中指ほどの細い銀色のそれは笛のようなものらしく、耳に優しい高音を響かせた。


「お前が化け物っつったのは、シロのことじゃないのか?」


口を歪めて不機嫌であることを全力で表現する少女の言葉を聞き返す間もなく、白い霧のような風が集まった空間から大きなトカゲが姿を現したことにシュンは釘付けになっていた。その目は、確かに崖で見た大きなそれに違いない。


「あっ……」


シュンの反応が予想通りだったのか、少女は自身の体より大きな白いトカゲの背中を撫でつつシュンを白い目で見る。トカゲは丸い目で左右を見てきょとんとしており、その姿からは先ほど感じた危機感や恐怖はない。シュッと舌を出し入れして、少女の手のひらに擦り寄った。


「こんなに可愛い人の眷属を化け物呼ばわりとは驚いたもんだなあ。よっぽど自分の眷属が愛しくてたまらないらしい。どれ、見せな」


「け、眷属? すみません、俺、よく分からなくて……」


「は?」


訝し気な眼差しを全身に感じてシュンは慌てて言葉を探す。


「俺、さっきその崖の上で目を覚ましたんですけど、眠る前の記憶が何もないんです。だから、ここがどこかとか、何も分からなくて。眷属って言葉も、今初めて聞きました」


「ハーン……」


まじまじとシュンの頭の上から足先までを見て、少女は「シロ」と呼んだトカゲに「おやすみ」と優しく声をかける。その言葉の直後にシロはとろりと溶けたかと思うと、白い霧の塊に変化して空気中に滲んで消えた。驚いて固まる暇もなく、少女はシュンを手でこまねく。その先には、干し草と丸太で出来た小屋があった。


「入れ。もしその話が本当なら、話を聞かせてやる」


「……失礼します」


木でできた扉から中に入ると、中は見かけ以上に人にとって住みよい環境になっていた。やわらかなカーペットが敷かれ、向かい合わせで座れるように設置された大きなソファが中央に寝ている。シュンは、自分の汚い足を一瞥して、少女を見た。


「客が来た後は汚れ具合に関係なく洗うんだよ。気にせずあがれ」


「はい」


小さく何度もお辞儀をしながら遠慮がちに部屋の中へ進んでいく。目に入る壁掛けには繊細な金糸の刺繍がある。触れて汚してはいけない貴重品のような雰囲気をまとったものが、それ以外にもちらほらと目に付いた。三人が思い切り腰かけても余裕がありそうなソファに座るよう促され、シュンは恐る恐る腰かける。ふかふかのクッションに包まれて、優しく癒された。やわらかな空間に沈んで足が床から離れると、足があった場所に白い泥汚れがついているのが見える。


「なんか、すみません……」


「汚した後にあやまったってどうしようもないだろうが。こういうときは、入る前にもうちょっとためらうものなんだよ」


「え、あ、すみません……」


「はいはいどうもどうも。それで、記憶がないんだっけか?」


「はい……」


妙な気迫のある少女に、下げた頭が上がらないままシュンは尻つぼみな声でなんとか返事をする。シュンの向かいのソファに座って、ひじ掛けにもたれると少女は深くため息をついて黒い目でシュンを見た。机の上で焚かれている乾燥した植物が独特の香りを放って、白い煙をゆらりゆらりと揺らしている。



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