赤い林檎とその価値について

飴屋ユユ

呼吸とその意味について - 1





世界が逆さを向いていた。


くすんだ薄桃色のカーテンを、寝転がったまま無造作にひく。ベランダで焚いている香の煙がゆらりと揺れながらうす曇りの空へと落ちていくさまを、色のない目が見つめていた。昨日買いそびれた花のことが忘れられない頭のまま静かに息をする。呼気にもまだ色はない。


時計は朝の七時半を示している。教育施設へ赴く必要のある学生ならとっくに部屋を出ている時間だが、この部屋の主には関係ない。テーブルの上にある空っぽの花瓶をちらりと見て寝返りを打った。微かに空いた窓から滑り込んでくる風の肌寒さで季節の変わり目を意識する。親友が失踪して、そろそろ三か月が経とうとしていた。


「あと三十分……」


部屋の壁につるしているアナログ時計を一瞥して呟く。脱力しきった手足は、三十分後のために休めているのだ。窓の向こうで漂っている風が部屋の隙間をすり抜ける微かな音が緊張を掻き立ててくるが、不思議と焦る気持ちはない。ゆっくりと息を吸い、無意識に二酸化炭素を吐き散らす。


起き上がって軽く髪をかきあげると、薄いグレーのスウェット姿に無造作な髪型のまま、何かをたどるように重い足取りで廊下につながる扉とは別の扉に手をかけた。覚悟を決めるように大きく深呼吸をし、取っ手の上にある四角い澄んだ青色のパネルに左手を当てる。白く細い指が、青白い光を微かに吸収する。


「セネカアルフィーン王国所属、リオール。入国申請します」


『入国許可。セネカアルフィーン領、首都アマリアに接続します』


扉を開いて足を踏みこむ。水の中で目を開いた時のように朦朧とした扉の向こうに、ぬるりと体が吸い込まれていく。彼女の体が完全に扉の向こうへ溶け込むと、部屋からは生気が消えた。開いたままの扉の向こうは、先ほどまでは見えなかった和室が広がっている。人の気配はない。無機質な秒針の音だけが漂う部屋のテーブルには、「日記」と書かれた一冊の古びたノートが置かれていた。





ーーー





たゆたう水中に体をゆだねているような、やわらかで温かい毛布に包まれているような、例えるならそんな感覚に似ている、と青年は思った。鼻をくすぐる草の青臭い香りに隠れた、木陰から漂う木々の香ばしいにおいが優しく自分のすべてを肯定してくれるようだった。じんわりと全身の緊張がほぐれていく快感と、かすかに耳に聞こえる鳥の声が、心地よさに拍車をかける。その中に混じって聞こえる声が、誰かを呼んでいた。


「おおい、おおーい……」


困ったように遠慮がちな中性的な声は、近くで「ううん」と唸る。躊躇うような間ののち、青年の体がぐらりと揺れた。重心がずれて、強制的に微睡みから浮上する。


「起きて、起きてってば」


肩をそこそこの力で揺すられて、穏やかな呼吸を保つことはできない。青年は自然とあふれる大きなあくびを一つしてから、恨めしい思いで目を開く。視界には、透き通るようなエメラルドグリーンの瞳が飛び込んできた。朝露のかかった蜘蛛の糸を連想させるほど繊細な白髪が、木々の間からこぼれる光でまばゆさを放ちながらはらはらと揺れている。触れるととろけてしまうのではと錯覚するほど白く綺麗な肌と、すっと通った鼻筋。ふっくらとした唇はほんのり弧を描いて安心したように笑んだ。


「死んでたんじゃなくてよかった」


「……どういう、こと、ですか?」


久しぶりに声を出したかと錯覚する妙な違和感とともに、青年はぎこちなく言葉をつむぐ。話し方も声の出し方も、体の動かし方さえも、どこか新鮮な気持ちになった。気は進まないがなんとか眠気の抜けない体を起こす。どうやら、大きな木の根元で眠っていたらしい。ゆっくりと周囲を見渡すが、底知れぬ不安が募るばかりで、目を覚ました後に感じる現実に引き戻されたかのような素朴な落胆と安心がない。青年は、目の前にしゃがんでいる少年なのか少女なのか分からない容姿の整った人物に目を戻した。


「あんまりにみすぼらしい格好だから、誰かに襲われて倒れているのかなって」


「みすぼら……」


青年は視線を落として自分の格好を見る。汚れた布切れを太い糸で乱雑につなぎあわせたものが見えた。布切れからのぞく足は程よく筋肉がついているように見えるものの、どこか頼りない。足先は裸足で、土や草でそれはそれはみすぼらしく汚れていた。そういう相手も、シンプルな布切れに身を包んでいる。


「君は? 君こそ誰かに襲われたように見えますが……」


美しい顔をしてはいるものの、手足は細く背も青年より小柄である。みすぼらしいとはいかないにしても質素な服装と汚れた手足は、顔の華やかさと全く似合っていない。「ああ」と呟くと、長い睫毛を伏せて少し考える素振りをした後青年に目を戻す。


「僕、どうやら記憶がないらしいんだ。今より昔のことは、よく思い出せないんだよ」


肩をすくめて困ったように笑む相手にかける言葉が見つからないまま、青年は数度頷き返して景色に目をやる。深い緑色の葉が茂った木々が山をなしており、険しい起伏を持つ小さな山々がその中腹や下から顔をのぞかせていた。激しい水音が聞こえることから察するに、近くに滝があるのかもしれない。見上げると声の高い鳥が数羽、空を泳ぐように滑らかに飛んでいた。青年は、深呼吸をしてから目線を戻す。相手が首を傾げた。


「君は?」


自分の手のひらを見る。砂利で白っぽく汚れた手のひらには、驚くほどに愛着がない。


「ここはどこなんですか」


「さあ。僕も知らないな」


「俺も、初めてみる場所だと、思います」


「僕と一緒だね」


「君は……」


「僕はタオ。名前はなんでか分かるんだよね。君は?」


「俺は……」


タオと名乗る相手を見ながらゆっくり口を動かした。言葉は、不思議と自然に出る。


「シュン。どうぞ、よろしく……」


「うん。よろしくね。さあ、さっそくだけど、シュンはどこかへ行く予定はあるのかな」


「ありません」


「だよね! 僕も。君が目を覚ます少し前に、崖の下に小さな家を見つけたんだ。誰かいたら話を聞けるかもしれないし、行ってみない?」


楽しそうに話す、らんらんと輝く目の勢いに気圧されてシュンは頷く。漂う空気はほのかに肌寒いものの流れる風はどこか生温かく、踏み出すことをためらう必要がないと背中を押してもらえているような感覚になれた。服についた草をはらって立ちあがる。崖の下を覗くと、崖に生える木々の間を縫うように石をはめ込んで作られた急な階段があるのが見えた。石の大きさも不揃いで、足を乗せただけでそのまま落ちてしまいそうなものもある。背筋が冷えたシュンはタオに目をやるが、怖いもの知らずなのか運動神経に自信があるのか、シュンの切な訴えはタオには届かなかった。


「家は見えた?」


「いや……」


「大丈夫! あるのは確かだよ! さ、行こう」


崖の下には鋭利な岩がいくつも顔をのぞかせているのだが、タオにとってそんなことは取るに足らないことのようで意気揚々と石に足を乗せて下っていく。よっぽど肝がすわっているか、やりたいことには盲目になってしまう質なのか、シュンには判別がつかない。確かなことは、綺麗な顔をした度胸の塊とともに崖を下らなければいけないということだ。


「……」


深呼吸をする。緊張しているせいか、やけに風の音が大きく聞こえた。


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