第20話

 ♡―♡―♡―♡ー♡


 ――それから数日後


 水地茂はあれ以来、湖に現れなかった。最初は警戒していた海渡も、現れないとなると少しだけ気が緩ゆるんでいた。

 しかし、ここで緩んではいけない。いつまた現れるかわからないからだ。

 若しかしたら本当に噂だと思い、二度と来ないかもしれない。けれど、油断は出来なかった。

 無意識に難しい顔をしていたのか、雫が海渡の手に触れ首を傾げる。海渡のことを案じている様子だった。


「海渡……?考え事?」

「え?あ、うん」

「不安そうな顔をしているわ…」


 雫がそう言うと、海渡は微かに目を見開き驚く。雫には何でもお見通しなようだ。


「雫にはバレバレだね」


 雫はキョトンとした表情め首を傾げる。海渡は、そんな雫が可愛いと思い、雫の頭を優しく撫でた。

 濡れていた髪は、海渡がふわふわのタオルで拭ってあげたので少しだけ乾いている。


「ごめん。心配かけて」

「ううん、私はいいの。でも、無理はしないで…」

「うん。有り難う」

「ふふっ」

「あははっ」


 静かな宵闇に、二人の笑い声が響き合う。その風景は、まるで物語の中の挿絵のよう。

 きっと、人魚姫の王子とお姫様が仲睦まじくしていたなら、こんな風にお互い笑い合っていただろう。それは暖かく、宝石のように輝いている時間に違いない。


 ――その時、物陰から人が現れた。


「おやおや?やはり、勘は当たっていたか」

「――っ!!」


 海渡と雫は、音もなく現れた人物に視線を向ける。その人物は警戒していた男だった。


「水地、茂…!」

「名を覚えてくれて光栄だよ。青年。いや、海渡君」


 海渡は、雫を庇かばうように慌てて自分の背に隠す。


「雫、湖に逃げるんだ!絶対に上がって来ちゃ駄目だ!」

「で、でもっ――――」

「いいから、早く!」


 雫は渋々頷くと湖の中へと飛び込む。水飛沫が海渡の背中を濡らすが、そんな事は今はどうでも良かった。


「そう上手く逃げれるかな?愛らしい人魚のお姫様」

「何を言っ―――」

「――海渡!あっ!――っ!」

「雫!」


 海渡は雫の苦しそうな声に慌てて湖に目を向ける。するとそこには、何かに絡まって身動きが出来なくなり暴れている雫がいた。


「あはははっ!こんな単純な網に引っかかるなんてねぇ。流石、魚といったところかな?まぁ、見えなければ当然か」

「どういうことだ?!」

「どうもこうも、そのままの意味だよ。この網は、透明なワイヤーで作ってある。君達にバレないようようにコッソリと仕掛けたのさ。君達が居ない時間に、ね。行動パターンを見るのに思いのほか時間がかってしまったよ。どうだい?まるで魔法みたいだろう?あぁ、ほら、暴れると傷が付いてしまうよ?お姫様」

「――っ!!!」

「おい、お前ら。可愛い人魚姫を引き上げろ」


 茂がそう言った途端、周囲から複数の男達が現れた。

 どうやら、海渡の知らない所で既に待機していたらしい。男達の顔はサングラスをしていてハッキリと確認出来ない。

 まるで、ボディガードのような体格と風貌だった。

 男達は湖の中央にいる雫を引き上げようと網を掴む。手には怪我をしないように厚手の手袋を各々装着していた。


「やめろっ!雫!」

「海渡!!……っ!イタッ!や、やめてっ!」

「雫!」


 海渡は雫を助ける為に湖の中へと飛び込んだ。

 その拍子に水飛沫が茂に降りかかろうとしたが、茂は、水飛沫を華麗に避ける。そして、眼鏡をクイッと上げた。


「おやおや」


 海渡はそこまで泳ぎが得意ではなかったが、それでも網に絡み暴れている雫の元へと一生懸命向かった。

 そして、雫の傍まで来るとワイヤー切ろうと力強く引っ張った。


「――っ!こ、このっ!!」


 ワイヤーが、ブチブチと鳴りながら切れる。それでも全部のワイヤーは切れず、切れたのはほんの数本だけだった。

 ワイヤーを切る度に手から血が流れ落ち、湖と同化し流れていく。それでも海渡はワイヤーを切り続けた。


「雫、今助けるから!」

「海渡!」

「…ボス。あいつを撃ち殺しますか?」


 茂の背後にいた一人の男が言った。茂は腕を組み考える。


「どうしようか。あぁ、そうだ。少し、肩を狙ってみよう」

「わかりました」


 男はそう言うと、スーツの内側から拳銃を取り出し、銃口を海渡に向ける。


 ――バンッ!!


 薄暗い闇夜の中、一発の銃声が辺りに響いた。

 その音に驚き、林にいた鳥達が次々に目を覚まし、どこかに飛び去って行く。


「ぐぁっ!」

「――っ?!海渡!」

「ぐ……うっ……っ……」

「海渡っ!海渡っ!!」


 湖にジワリと赤い血が浮かぶ。それは掌から出る血よりも遥かに多く、湖の澄みきった水が少しずつ赤に染め上げていった。

 雫は海渡を助けよう体をよじりもがく。腕を伸ばし沈みそうになる海渡を助けようとするが腕はワイヤーに絡まったままでびくともしなかった。


「海渡っ!」

「うっ……だ、大丈夫…だから……あまり、動いちゃ駄目だよ……雫。ほら…傷が付いてる……」


 海渡は雫の切れている頬をそっと撫でる。雫の目には沢山の涙が溢れていた。


「もう…もういいよ海渡……。海渡の手…傷だらけじゃない……それに、沢山血も出てる……。もう止めて…お願いだから、もう止めて…私はいいから…」

「駄目だっ!僕は、君を守るって決めた!絶対に守るって……!」

「……海渡」


 ――その時。


 湖から沢山の魚達が現れた。大きな魚から小さな魚、綺麗な鱗をした魚から泥のような色の魚まで。

 数え切れないほどの魚達が群れをなし、雫と海渡の傍に寄る。


「これ、は……?」


 魚の群れはそれぞれ口に何かを加えていた。それは、尖った石だった。中には、湖の底に落ちているガラスを加えている魚もいる。

 魚達はそれらを使い、雫に絡まったワイヤーを器用に切り始めた。


「え……?」

「皆……」


 魚達は、自分達が傷だらけになりながらも次々と絡まったワイヤーを切っていく。その様子を真横で見ている海渡は一体何が起きているのかわからなかった。

 だが、これだけはわかった。

 この魚と自分は、雫を助けるために行動している、と。

 海渡は再びワイヤーを掴む。


「ぐっ……!こんな、痛み…!……なんてことないっ!!」

「皆……海渡……」


 雫は、ポロポロと涙する。沖にいる茂の部下達は、その不思議な光景に唖然と呆然となっていた。

 それに対し、茂は面白いものでも見たかのように盛大に笑っていた。


「あははっ!」

「ボ、ボス…これは……」

「ふっ、ふふふっ……あはははっ!これは傑作だよ!まさか、この湖に住む魚達もお姫様を救おうとするとはねぇ」

「ど、どうしますか…?最悪、気絶程度に電圧を加えても宜しいかと。その場合、湖の魚は死ぬ恐れがありますが――」


 部下の一人が提案すると、茂は部下の言葉を手を上げて遮る。


「いや、いい。引き上げるぞ」

「しかし…」

「お偉いさんには、所詮は噂だったと言えばいい。俺達は何も見ていない。やってもいない。…いいな?」


 威圧感のある声で言うと、周りの男達は足を揃え背筋を伸ばし頭を下げる。その行動は何処かの軍に所属していたかのように俊敏な動きだった。

 そして、一人の部下がスーツの襟に付いているマイクで何かを喋ると湖の周りにいた男達は黙ったまま頷き合い、湖から立ち去った。


「では、私も報告がありますので失礼します」

「あぁ」


 湖には海渡と雫。そして、茂しか人は居なくなった。

 海渡と魚達は、今もまだ、ワイヤーを全て切ろうと各々頑張っている。茂はそれを楽しそうな目で眺めていた。

 すると、茂の目の前から大きななまずが顔を出した。

 その鯰は、人一人楽に食べれるぐらいの大蛇成らぬ大魚だった。

 鯰は大きな目でジッと茂を見る。茂はこれと言って驚きもせず、ただジッと自分を見る鯰のことを見ていた。


「………」

「………久しいの、魔女よ」


 この沈黙を壊したのは、茂では無く鯰の方だった。

 鯰が人語を話しても茂は驚きもしない。寧ろ、まるで話せることを予想していたかのようにフッ…と笑った。


「さぁ?何のことかわかりませんね。人の言葉を理解し、人の言葉を話す不思議なお魚さん」

「ふっ、たわけたことを…。貴様は魔女じゃ。そのオーラを見ればわかる。このわしに、そのような言葉が通用すると思うな」


 茂は黙ったまま眼鏡を上げると、クスリと笑った。


「さすが、何千年も生きているだけはありますね。…でも、残念。私は、君の言う魔女ではありませんよ。強いていうなら、子孫と言いましょうか?」

「ほぉ、魔女の血縁者か。なるほど。で、雫を人魚に変えたのは貴様か?」

「いいや、違う。それは、曾祖母ですよ」

「………」

「噂も祖母が流した」

「やはり、魔女は好かんな…」

「ははっ、よく言われます。昔から嫌われ者ですからねぇ。曾祖母も曾祖父に会うまでは、相当嫌われていましたし」

「して、貴様は雫をどうするつもりでこの湖に来た」


 茂は顎に手をやり考える。真実を言うか言わないか考えていたが、この鯰は人魚を知り、雫を知っている。何より、この湖のぬしでもある。

 茂はしばし考えていたが、この鯰に真実を言うことに決めた。


「最初は、本当に売ろうかと思いましたよ。上にも言われているからね。でも、曾祖母から見極めて来いとも言われました」

「どういうじゃ」

「そのままの意味ですよ。所詮、そこまでの絆なら私の物にする。しかし、それ以上の絆があれば……これを渡せと」


 そう言うと、茂はスーツの内ポケットから透明な小瓶を出した。小瓶には、トロリとした蒼い液体が入っていた。


「さて、と。私も、そろそろ行かなければ」

「二度とこの湖に立ち入るな。さもなければ、このわし相手をする…」

「はははっ、貴方が魔女の子孫である私に渡り合えるとでも?…まぁ、それも面白そうですけど、何千年も生きた生物は力を得る言いますからねぇ」



 ――プルル…プルルル…



 茂は鳴る携帯に出ることなく、鯰と話しを続ける。


「依頼があれば、また来るかもしれませんね。その時は、是非、お手合わせを」

「………」

「そういうことなので、これはアナタにお渡しします。それでは、失礼」


 そう言うと、茂は鯰に背を向け、鳴り続ける電話に出ながら深い林の中へと姿を消した。完全に脅威が消え去ると、鯰は短い溜め息を吐いた。


「魔女の子孫か…。やれやれ、じゃな…」


 すると、大鯰は魚から人の姿へと変わり沖に上がる。白く長い髪からはポタポタと滴が落ち、地面に跡を残す。

 鯰は地面に置いてある小瓶を手に取ると、雫がいる湖の中央を沖から眺めた。


「雫よ…お主の結末は、どうなるのだろうな……」

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