第8話

 ◇ft.海渡


 海渡はいつもの時間にいつもの場所へと向かった。そして、そこで待っている――自分の大切な友達を。

 しかし、いつも来てくれる小さな友人は、最近何故だか来なくなっていた。


「どうしたんだろう」


 海渡は湖に足をつけてボンヤリと考える。


(もう来ないのかな…それとも、来れない理由があるとか?)


 海渡は、ふと昔の事を思い出す。


「そういえば、雫はいつも僕の傍にいてくれたっけ」


 海渡はクスリと笑う。雫は気づいていないだろうが海渡は気づいていた。

 毎日湖に来ると、遠くの方で赤い斑点の持つ魚がいつもこちらを窺っていたことに。

 しかし、海渡はそれを見て見ぬフリをしていたのだ。

 理由は、何だか可愛く思えて様子を見てみようと思ったから。けれど、その壁はある日を境に無くなった。


「母さんが亡くなった日……泣いている時に傍に来てくれたんだよね」


 魚は人間を警戒する生き物だ。しかし雫は、泣いている自分の傍に来てくれた。

 それはとても不思議な出来事だった。

 変な動きをする魚に海渡は泣いていたことを忘れ、いつの間にか笑っていた。

 雫はそれからも、まるで人間の言葉がわかるみたいに跳ねたり、泳いだり、足にすり寄って来たりした。

 海渡はその姿を見ると微笑ましくなり、その魚のことが愛おしくなった。愛着が湧いたのだ。


「本当に人間の言葉がわかるのかな?ふふっ」


 海渡は笑う。そして、自分の足元を見る。雫はまだ来ていない。

 もう空も暗くなっているので、今日も諦めて帰ろうとその場を立った瞬間――――声が聞こえた。


「いつも話してくれた物語♪一緒に過ごした日々♪何よりも大切で愛おしい♪」

「え?これは、歌……?」


 海渡は辺りを見回す。空はもう暗いが人の気配は無かった。

しかし、歌は何処からか聞こえて来ていた。


「一体、何処から?」


 海渡は瞳を閉じ耳を澄ます。鈴のように細く優しい声は儚く、今にも消えてしまいそうだった。

 そして、その歌詞には不思議と心が惹かれるような感じがした。


「とても綺麗な声だな。何だろう…不思議と心が落ち着くのは……まるで子守唄を聞いているみたい……」


 海渡は、ゆっくりと目を開く。


(あれは、誰が歌っているんだろう?)


 その次の日も、海渡は雫を待ち続ける。

 しかし、雫は一向に現れなかった。

 その代わりにあの歌声がまた湖から聞こえていた。


「この歌……また……」


 海渡は、一体誰が歌っているのか気になっていた。

 美しい歌声の持ち主に会いたくなったのだ。


(一体、どんな姿をしているんだろう?)


「凄く綺麗な声だな…」


 いつしか海渡は、その歌を聞くために湖へと赴くようになっていた。

 まるでローレライの歌声に誘われるみたいに。

 ある晩、海渡はいつも通り湖へと向かう。すると、茂みに入る途中であの歌声が耳に入ってきていた。

 しかもその声は、いつもよりハッキリと聞こえていた。


「まさかっ!!」


 恐る恐る茂みの中を進み、木の後ろから静かに湖を覗き込む。すると、いつも座っている場所には見知らぬ女性が座っていた。


「やっぱり居た!あの子が……」


 海渡はその女性を一目見て美しいと思った。

 その美しさは遠目から見てもわかる。月の光を浴び空を見上げ歌う女性は、まるで天女のよう。

 その女性の周りには彼女の歌を聴く為に現れたのか、小魚達がひょっこりと顔を出していた。

 それでも女性は何故か楽しそうな顔ではなく、何処か寂しそうな眼差しで歌っていた。

 海渡は、そんな女性に息を飲む。


 すると、カサッと足元の草が鳴った。

 しまった!と、思った時には既に遅かった。

 魚達は海渡の気配を感じ、湖の中へ逃げて行ったからだ。しかし、女性だけは何故だか逃げなかった。驚いた様子で海渡をジッと見ていたのだ。


「……海渡?」

「え?」


 女性はハッとなり、慌てて自分の口を塞ぐと湖の中へ飛び込んだ。


「あっ!待って――――」


 女性の手を掴もうとするが、それは空振りになる。代わりに海渡はあるものを見てしまった。

 飛び込む寸前に見た彼女の足――それは、人間の足ではなく魚の尾ひれだった。


「まさか……人魚?」


 静寂が訪れる。飛び込んだ勢いで水面が揺れている湖を海渡はポカンと口を開け、ずっと見ていたのだった。

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