第1話

「あら?また、あの子だわ」


 鯉は湖の中から沖に座っている少年を見ると離れたところから顔を出した。しかし、少年はいつもと何か様子が違っていた。

 いつも沖で本を読んでいる少年は、今日だけは違っていたのだ。

 普段は楽しそうな顔をしていた少年は、今日は膝を抱え泣いていた。肩は微かに震えている。


 ――ポチャン。


 また湖の中に潜ると、鯉は動揺し辺りをグルグル泳いだ。


「ど、どうしたのかしらっ!?いつもは、元気そうなのに!」


 鯉は、いつも楽しげに笑って本を読んでいる少年の事を思い出す。

 とても楽しそうな笑顔。それはまるで、夢見る冒険家のよう。

 そんな少年が何故か今日は泣いている。きっと、何か辛いことがあったに違いない。

 いつも遠くで見ていた鯉は励まさなきゃと思い、少年の傍まで寄った。

 勿論、捕まえられないように一定の距離は置いてある。しかし、膝を抱えうずくまっている少年は、鯉の存在には気づかなかった。


(全然気づいてもらえない。よ、よしっ!)


 鯉は勢いを付けてその場で跳ねる。その拍子で、跳ねた水が少年に少しかかってしまった。

 水かけに成功した鯉は嬉しくなり円を書くように泳ぐ。


「うわっ!?」


 少年は、突然、冷たい水がかかりその場で驚く。いったい誰の仕業かと思い周りを見回すも、辺りには誰もいなかった。

 不思議に思っていた少年はポチャンと音がした方を向く。そこには一匹の鯉が顔を出していた。

 少年は驚いた様子でその鯉を見る。鯉は、湖の中に潜ったり顔を出したり引いたりしていた。

 それは、とても奇妙な行動だった。

 鯉の不思議な行動をずっと見ていると、少年の口角が上がり、遂には声を出して笑った。


「ふ、ふふ……あははっ」


 鯉は、その様子を見るとほっと息を吐いたのだった。


(よかった)


 少年は涙で汚れた頬を腕で無造作に拭うと靴と靴下を脱ぎ、小さくて細い足を湖の中に入れる。湖の水は澄んでいて、とても綺麗だった。

 その心地よい冷たさが肌に伝わり、夏の気温で暑かった体もだいぶ涼しくなった。


「もっとこっちにおいでよ。ねぇ、一緒にお話ししよう?」


 少年は顔を出している鯉に話しかける。

 少年の声は鯉には届くが、鯉の声は少年には届くことはない。


(お話しって変な子ね。私の言葉は解らないのに?)


 そう思いつつも、鯉は少年の足の側まで泳ぐ。


(本当は関わっちゃ駄目って言われていたけど……私も、この子とお話しがしたいわ)


 恐る恐るも近寄って来る鯉に少年は微笑んだ。

 警戒し少し離れていた鯉は、今は、少年の直ぐ傍までいる。少年はそれが嬉しかった。


「今日もいい天気だね」


(まぁ、そうね。とても暖かいわ)


「いい天気なのにね…僕、悲しいんだ」


(え?)


「お母さんがね、病気で死んじゃったんだ。お父さん、すごく泣いてた……。お母さんと仲が良かったオバサンも皆泣いていたんだ…。僕もすごく……寂しくて……」


 少年はそう言うと、次第に顔は暗くなり再び俯いた。

 目にはジワリと涙が浮かんでいる。


(そうだったの…。でも、大丈夫よ!私がいるんだもの!だから、元気を出して!ね、いつもみたいに笑って?)


 鯉は、少年を元気付けようと足の辺りをグルグルと泳ぐ。そして、少年の足に身体をすり寄せた。

 少年は、それを見て目を見開く。涙はすっかり引っ込んでしまった。


 まさか、魚が猫みたいにすり寄って来ることがあるだろうか?――否、それは無い。

 だから、少年は驚くしかなかった。


「え、何…?」


 鯉は少年を励ますように足元を八の字のように泳いでは、自分の身体を足にすり寄せる。少年が少しでも元気になるように、寂しくならないように。


「もしかして、僕のこと励ましてくれているの?」


 少年のその言葉に鯉は図星を付かれピタリと動きが止まった。

 そして、今度は少し恥ずかしくなったのか、ヨロヨロとぎこちない動きで足の傍から離れた。


(そ、そんなこと……何だか恥ずかしいわ…)


 まるで、人間の言葉がわかるみたいに動く鯉に少年は可笑しく思い、また笑った。


「ふっ……ぷっ…あははっ!」


 鯉自身は、何がそんなに可笑しいのかわからなかった。でも、少年の笑い声や笑顔を見ると心がホッとした。


「ふふっ…君って、変な魚だね」


(なっ?!変とは何よ、失礼な子ねっ!えいっ!)


 鯉は勢いよく跳ね、少年の顔に水を浴びさせる。今度は、さっきよりもかなりの水が少年の顔にかかった。


「うわわっ!ご、ごめん!別に、変な意味で言ったんじゃないよ?!」


 鯉は、プンプンしながら辺りをグルグルと泳ぐ。そんな鯉の様子を見て苦笑していた少年は、鯉の姿に、ふと、疑問をもった。


「あれ…?そういえば、君の体って不思議な柄なんだね」


(え、そう?別に普通だと思うけど……やっぱり、変かしら?)


 周りの魚達からも『変わっている』と言われている鯉は落ち込む。確かに、周りの魚達は自分みたいな柄を持った者はいない。鯉は、少しだけそれがコンプレックスだった。

 しかし、少年はそんな気持ちを振り払ってくれるようにニコッと笑い鯉に言った。


「でも、とても綺麗だね!」


(なっ…?!む、む~っ!!)


 そんなことを初めて言われた鯉は、その言葉にどう反応したらいいのかわからず口をパクパクさせる。心はモゾモゾとしてドキドキとしている。

 どうやら、気恥しいらしい。勿論、鯉の心情は人間である少年にはわからない。

 少年は、鯉の行動にクスリと笑うと湖から足を出した。


「僕、そろそろ行かないと」


(もう行っちゃうの?)


 鯉は少しだけ寂しい気持ちになる。


 ――まだ、話しがしたい。


 そう思っていると、少年はいつも本を読んでいる時のような笑みで鯉に言った。


「また、会いに来るよ」


 少年はニコリと笑うと靴と靴下を履き、湖から去ってしまった。

 少年の姿が消えるまで、湖から顔を出していた鯉。


「……約束だからね?」


 この声が聞こえないことも届かないこともわかっている。しかし、その言葉は自然と鯉の口から漏れ出た。

 そして、鯉は大きく跳ね、湖の底に帰って行ったのだった。

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