第百十九話 姉妹
ベストラが去った後、エミリアは水場へとやってきた。
目は赤く腫れ、頬には涙の跡が残ったままだ。
それをやや乱暴に洗い流していく。
こんな顔ではマリアに会えない。
「ここにいたのね、姉さん」
当のマリアに呼ばれ、エミリアの動きがピタリと止まる。
泣いていたのを気付かれまいと、エミリアは袖で目元をゴシゴシとこすった。
「マリア」
「大丈夫? 元帥閣下と何の話をしていたの?」
ハンカチを取り出しながらマリアが尋ねる。
それに対し、エミリアはわざと笑ってみせた。
「にゃはは♪ 大丈夫大丈夫! エールから戻ったら私を昇格させてくれるって言ってたのに、また任務でしょ? それも根暗のホテルスの追撃なんてさ〜」
また、マリアに嘘をついてしまった。
エミリアの思いに気付かず、マリアは安心したようにホッと息をついたが、すぐに眉を寄せた。
「そうだったの。でも確かに向こうには第七隊もいるし……」
「でしょ!? 私が隊長になれば第二隊を好きに動かせるのにっ! だから文句を言ってきたの!」
「あ、ううん。姉さんが隊長になれば私も嬉しいけど、そうじゃなくて……」
「なぁに?」
エミリアが首を傾げる。
「また姉さんに負担をかけるなと思って……。なるべく足手まといにならないよう気をつけるね」
そう言って微笑むマリアに、エミリアは首を振った。
「またそんなこと言って〜! 気にしない気にしない! マリアは私が守るから、安心してついてきて!」
「うん。それじゃあ、準備ができたら正門で落ち合いましょう」
「りょーかい♪」
兵舎へ向かうマリアの背を見つめ、大きくなったなぁなんて思う。
自身と比較しての話ではない、断じてない。
ないが、ほんの四、五年前までは身長も体型もほとんど一緒だったのにと考えてしまい……。
「何が違うんだろ……」
そんな言葉が口をつき、違う違うと頭を振る。
身長は平均的だが、女性的な部分は他に勝っていて。自分が知る限り、マリアより大きいのなんてソフィアぐらいしか思い浮かばなくて。一緒に街を歩けば必ずマリアが姉扱いされて……。
だから、そうじゃなくて!
あんなに泣き虫だったのにと、懐かしくさえ感じてしまった。
両親は自分たちがまだ幼い頃に流行り病で死んだ。
他に家族がいなかったから親戚に引き取られたのだが、今にして思えば、もっと心を開き満足すべきだったのだ。
引き取ってくれた親戚は、物語でよく描かれるような意地悪な人たちではなかった。
暴力を振われたこともなければ、本当の子供と比較するようなこともしなかった。
良いことをすれば褒められ、悪いことをすれば叱られる。怪我や病気の時は心底心配してくれた。
だから、その人たちをちゃんと受け入れるべきだったのだ。
でも……。
周りの人全てがそうではなかった。
近所の子供たちから親がいないといじめられたこともあった。
そんな時、泣くことしかできなかったマリアを守ってきた。マリアは自分が守るんだと幼心に固く決意した。マリアには自分しかいないんだと、自分勝手な思いを抱いてしまった。
勝手に疎外感を抱き、心の一番深いところだけは見せず、学校を出てすぐに親戚の反対を押し切りマリアと二人家を出た。
帝国で人より金持ちになる方法は二つ。
コネを使って行政の仕事に就くか、軍人になるか。
実力主義を掲げてはいるが、実際のところはまだまだコネ社会だ。大学で一生懸命勉強しても、貴族にコネがなければ上がっていくことはできない。
前者に関しては全くアテがなかったが後者は完璧であった。
自分もマリアも精霊使いの適正が高く、すぐに中央に配置された。
それからは自分でもちょっと引いてしまうぐらい戦い続けてきた。どんな危険な任務にも志願した。
当時の元帥やヴィルヘルムの方針のお陰で、軍部だけは貴族が幅を利かせることなく、結果だけで評価してもらえたからだ。
そしていつしか、ジークフリートや現在『
ヴィルヘルムも同意した。
その約束は、ベストラにも引き継がれた。なのに──。
謁見の間がある辺りを睨みつけ、エミリアは改めて決意した。
ホテルスを抹殺し、今度こそヴィルヘルムとベストラに誓わせると。
一方──。
「あのっ、アルヴェーン大佐……」
「何でしょうか?」
物資を管理している兵士に呼び止められ、マリアは振り返った。
その両手には食料がこれでもかと抱えられている。
兵士はやや渋い顔をしながらマリアの手元を指差した。
「元帥閣下直々の命令とは言え、内容の分からない作戦にそれだけの物資を持っていかれるのは、何と言うか……」
「密命故、内容はお話できません。どうかご理解ください」
「そこじゃなくてぇ……」
無視し、マリアは食料を鞄に詰め込んでいく。それが終わると、再び食料の棚を漁り始めた。
兵士が慌ててマリアの腕を掴む。
「実行部隊は大佐と准将のお二人ですよね!? そんなにいらないと思うのですが!?」
「姉さ……いえ、エミリア准将がお腹を空かせても構わないと?」
あっけらかんと答えるマリアに、兵士は天を仰いだ。
その隙にマリアは麦の入った袋を持ち出した。
兵士が慌てて袋を引っ張る。
「ここの物資は中央の備蓄と各方面軍へ輸送する分できちんと管理されているんです! そんな大量に持ち出されては困ります!」
「ですから、エミリア准将が──」
「南方司令部にもありますし、周辺の町や砦にも備蓄されています! ここからばかり取らないでください! 怒られるのは私たちなんですよ!?」
兵士の必死の説得に、マリアはやや不機嫌そうな表情を浮かべた。
しかし兵士も引き下がらない。
最終的にはマリアが折れる格好となった。
「仕方ありません。速やかに南方司令部に入り、補充することにします」
「いや、二人ならそれだけあれば一週間以上保ちますけど……」
呆れ半分諦め半分な様子の兵士を余所に、マリアは管理表に記入し鞄を背負った。
「ありがとうございます。失礼いたします」
「あ、はい……。どうか、お気をつけて……」
それからマリアは兵装の保管庫に立ち寄り、フェザースタッフと回復用の霊装をいくつか用意した。
ホテルスたち第七隊がいるのはスヴェリエ領。
第七隊だけでも数十人、もしスヴェリエ軍が加わっていればその規模は計り知れない。
それに対して、こちらの援軍は望み薄だ。
準備し過ぎということはない。
正門へ向かいながら、マリアは険しい表情で呟いた。
「もう昔の私じゃない。姉さんは、私が守ってみせる」
そこへわざとらしい、ゆっくりとした拍手が響き、マリアは足を止めた。
振り向いた視線の先にはスヴェンの姿が。
「何かご用でしょうか」
「ホテルス少佐を追われると聞いたもので。二人に汚れ仕事をさせるとは、陛下たちも人が悪い」
思ってもいないことをとマリアの目つきが鋭くなる。
「ヒンダルフィヤルの炎の調子はどうかな?」
続けてスヴェンの口から出た単語に、マリアは嫌悪感を露わにした。
「誰が聞いているかも分からないのにやめていただけますか?」
『失敬、失敬』とスヴェンが笑う。
その態度にマリアはスヴェンを睨みつけた。
「もしこの話を姉さんにしたら、私は貴方を許しません。絶対に」
「許さない、か。それで?」
スヴェンの笑みが濃くなる。
「私を殺すかね? そんなことをすれば君もエミリア君もただでは済まないぞ?」
「直接手出しはしません。ただ、貴方を酷く憎んでいる男が一人。貴方が生きていることは、もう伝わっているようですよ」
「ふむ……」
二人の視線が交差する。
マリアの瞳をジッと見つめ、スヴェンは口髭を撫でながら告げた。
「その様子なら大丈夫そうだ。一番適性があるのは、案外君なのかも知れないな。マリア・アルヴェーン君」
「姉さんを守る為です。貴方の研究に協力する気も、興味もありません」
「結構。エレメントの強さは想いの強さ。君のしたいことをしなさい」
マリアは何も応えない。
そのまま踵を返し、正門へと向かった。
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