第百一話 出撃
街がまるごと一つ空に浮かんでいる。
誰も見たことのない光景に、偵察を行っていたスヴェリエ兵はもちろん、味方であるロマノー兵も呆然と空を見上げていた。
しかし、当のケニヒスベルク──否、アルヴァ・ライルの伝承武装ナグルファルに彼らを攻撃する様子はない。
ただ自身の目標であるスヴェリエ王国の首都ガムラスタに向かいゆっくりと進んでいた。
当然、ナグルファルの出現はすぐにガムラスタにあるスヴェリエ王国軍司令部へと伝えられた。
将官たちが集まっている会議室にはひっきりなしに人が出入りし、とある二人を除き、蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。
「何だあれは!? 何故街が空を飛んでいるんだ!? いや、そもそもあれは街なのか!?」
「やつからの情報にあんなものはなかったぞ!? どうなっている!」
「だから言ったでしょう!? ロマノー人など信用できないと!」
一人が遠望術式によってテーブルの上に映し出されたナグルファルを指差し、感情任せに拳を叩きつける。
はねた紅茶が胸元にシミを作り、スヴェリエ王国軍大将クリスティーナ・グランフェルトは静かに目を細めた。
瞳も絹のように滑らかな長い髪も鮮やかな空色で、銀色のバレッタで留められたハーフアップには一切の乱れもない。
顔は彫りが深く、なで肩だが非常に豊満なボディラインの美女だ。
一言も発しないが、全身から溢れる凍気に将官たちが恐れ慄く。
そんな彼女の向かいに座っている焔恭介は咎めるでもなく、無言で報告書に目を通していた。
会議室の中は静まり返り、しばらくの間皆がクリスティーナを見つめていたが、新たに飛び込んできた情報に再び怒号が飛び交い始めた。
その中にあっても尚、恭介とクリスティーナは何も言わない。
だが直後、あれほど騒がしかった廊下の音がピタリと止んだかと思うと、規則正しい足音が一人分響き二人は席を立った。
そこへ現れたのは──。
「ダリア様……」
「国王陛下……!」
「お前たち、何を騒いでおるか」
裾に赤い花の刺繍が入った白いドレスとワインレッドのコルセットを身につけたその女性は、呆れたような表情で会議室の中を見渡した。
身長は百六十センチメートル弱、歳の頃は二十歳前後といったところか。
膝下まである銀色の髪の毛は宝石のように輝き、気の強そうな顔立ちをしているが肌は生気が感じられないほど白い。
何より特筆すべきは、ルビーのように真紅に輝く双眸だ。
それは、飛鳥やプリムラと同じ──。
ダリアの問いかけに将官の一人が進み出る。
「あれをご覧ください! ケニヒスベルク……と思われるのですが、真っ直ぐこちらへ向かってきております! 恐らくはロマノーの新兵器かと!」
唾を飛ばしながら早口でまくし立てる将官に一瞥もくれず、ダリアはナグルファルを見つめ
「ふむ、それで?」
さほど興味もなさげに尋ねた。
説明していた将官が呆気に取られたような表情を浮かべる。
他の面々も同じ反応だ。
「はっ……それで、とは……?」
「ロマノー軍は西エウロパ平原に向け進軍中なのじゃろう? そちらはどうなっておる。まさかとは思うが、あれ一つにここまで大騒ぎをしておるのか?」
「お言葉ですが陛下! あれは鳥や鳥人族よりも高い場所を飛んでおり地上からは手出しができません! 攻撃されればガムラスタは──」
「この大馬鹿者がっ!!」
将官が言い終わる前に、ダリアは手に持っていた扇で殴りつけた。
その顔は先ほどとは打って変わって怒りに満ち満ちている。
「何と情けない! お前たちがそれでは、大陸統一が遅れておるのも納得じゃ!」
ダリアは大きく息をつき、口元を綻ばせた。
「焔よ、こちらへ」
「はっ」
恭介は足早にダリアの前まで行くと跪き頭を垂れた。
ダリアが愛おしそうに恭介を見つめる。
そして扇でナグルファルを差し、こう口にした。
「あれ、墜とせるか?」
「ご命令とあらば」
迷いのない恭介の答えにどよめきが起こる。
ダリアは益々嬉しそうに口の端を吊り上げ、鋭い八重歯が顔を覗かせた。
「さすがは焔王じゃ! よし、すぐに取りかかれ!」
「……それは他の者が勝手に呼んでいるだけのもの。この世で王と呼ばれるべきは陛下だけです、その名で呼ぶのはおやめください」
その言葉を聞き、ダリアは空いている手でわしゃわしゃと恭介の頭を撫でた。
されるがまま恭介が述べる。
「あれを墜とすにあたり、一つお願いがございます」
「ん? 何じゃ? 申してみよ」
「『槍』の使用許可をいただきたく存じます」
ダリアは口元に扇を当てケラケラと笑い出した。
その姿は見た目よりも幼い少女のように無邪気なものだ。
「よいぞ! 許す! 見事あれを墜とし、ロマノーを滅ぼすのじゃ!」
「はっ」
恭介を見送ると、ダリアはナグルファルに視線を戻し、酷く冷たい声で呟いた。
「そうじゃ。妾の上を行くものなど、この世にあってはならぬ」
スヴェリエ王城の地下深く。
そこには、広大な円形の空間が広がっていた。
あまりに広く反対側の壁を捉えることができない。
真っ白い壁に囲まれた空間の中心を目指し、恭介はゆっくりとした足取りで歩みを進めていた。
普段つけている白金の鎧ではなく、白い軍服と、これまた真っ白い、銀のベルトがついたロングコートに身を包んでいる。
足元には彼岸花に似た純白の花が咲いていて、ともすれば景色と同化してしまいそうな装いだ。
それからどれだけ歩いただろうか。
自身がやってきた方向さえも怪しくなるほどの距離を進み、現れた十字架の前で足を止める。
十字架には男が磔にされていた。
この広大な空間は墓だ。
それも、王族の為のものではなく、たった一人の為に作られたもの。
スヴェリエ王国を建国した初代国王であり、現在では神として祀られている目の前の男の為だけに、この空間は存在している。
恭介は一礼するでも何かを唱えるでもなく、無表情のまま男に近付き、脇腹に刺さっている白金の槍を引き抜いた。
飛び散った液体が足元の花を赤く染める。
そしてすぐに踵を返し、元来た道を戻っていった。
その足で恭介はガムラスタの北東に建てられた砦へとやってきた。
屋上へ登り空を見上げるが、まだナグルファルの姿は目視できない。
眼下では兵たちが最低限のものだけを残し、物資の輸送を急いでいた。
全ては、彼らと背後にそびえるガムラスタを護る為である。
守護すべき対象を巻き込んでしまっては何の意味もない。
チョコレートを一欠片口に入れ、恭介は目を閉じた。
「……のどか、ここで何をしている。お前には補給部隊へ加わるよう命令が出ている筈だが?」
「ご、ごめんなさい。ですが、その……」
「もちろん!
のどかが、胸元に手を当て得意げにしているクリスティーナを横目で見つめる。
恭介も振り向き一瞬だけクリスティーナと目が合ったが、すぐにのどかへ冷たい視線を向けた。
「早く持ち場へ戻れ。一人の遅れが全軍に影響を及ぼす、それぐらい理解しているだろう?」
「そこのところは
酷く申し訳なさそうに目を伏せるのどかの代わりにクリスティーナが述べる。
しかし恭介は何も言わず背を向けてしまった。
クリスティーナの口元がへの字に曲がる。
「キョウスケ?
呼ばれても、やはり恭介は何も答えない。
それどころか、わざとらしく装備の確認をし始めた。
恭介の真横まで行きクリスティーナが叫ぶ。
「無視しないでくださる!? 貴方の為にノドカを連れてきましたのよ!?」
すると恭介は表情こそ変えないが体の向きを変え、クリスティーナに背中を向けた。
どうやら話をするつもりはないらしい。
その態度にクリスティーナの眉がググッと吊り上がり、彼女は恭介の肩を掴むと無理矢理振り向かせた。
「何だ、いたのか。グランフェルト」
ようやく恭介が口を開く。
クリスティーナは噛みつかんばかりの勢いで詰め寄った。
「さっき目が合いましたわよね!?
「お前こそ何のつもりだ。『
「あのっ……お二人とも……」
互いに闘気を隠そうともしない二人を、のどかがハラハラしながら見つめる。
「そこは話をつけたと言ったでしょう? 貴方に良い情報を持ってきましたの」
「……?」
クリスティーナの言葉に恭介は怪訝そうな表情を浮かべた。
「偵察に出ている術師から報告がありましたの。エールから巨大な黒い塊が現れ、帝国領を通りながらケニヒスベルクへ向かっていると」
「共和国から? それがどうした」
その問いにクリスティーナの顔つきが変わる。
貴族とは思えぬ狂気を孕んだ笑みに、恭介は警戒心をあらわにした。
「恐らくはケニヒスベルクを止めるつもりなのでしょうが……それに乗っていたのは、雷帝皇飛鳥とその夫人だそうですわよ?」
槍を握る手がピクリと動く。
恭介の反応に、クリスティーナはしてやったりといった様子を見せた。
だが──。
「……俺には関係のないことだ。やつとの決着は今じゃない」
「いいえ」
気のない返事にクリスティーナは恭介から手を離し、柵にもたれかかる。
「キョウスケ、貴方はこの戦争の先に何を見ていますの?」
「何が言いたい」
「この戦争の先にあるのはダリア様による大陸統一、泰平の世ですわ。国内の掃除も必要ですけど、
「当然だ、俺たちはその為に戦っている」
抑揚のない恭介の声にクリスティーナは溜め息をついた。
「だからこそ後悔のないようこの戦争を楽しみ、本当の強者と戦う必要があるのではなくて? そして貴方にとってその相手は──」
「くだらん」
彼女の言葉を一蹴する。
「お前に俺の何が分かる。戦いを楽しむだと? 馬鹿な話に付き合わせるな。俺たちがやるべきは帝国と共和国を滅ぼし、陛下を大陸の覇者とすることだ」
「それなら何故その服に身を包み、剣まで携えているのです? 『槍』の使用にはむしろ邪魔でしょう?」
「…………」
「分かりますわよ。貴方と
槍を強く握り、フッと息を吐く。
「俺にどうしろと言うんだ? こちらにはケニヒスベルクに近付く手段がない。それに共和国は専守防衛を掲げている。あの男の方からこちらへ乗り込んでくることもない」
それを聞いたクリスティーナはのどかの両肩に手を置いた。
嫌な予感にのどかがビクリと震える。
「ですから彼女を連れてきたのです。『
途端に恭介の顔が驚愕の色に染まる。
「何故お前がそのことを知っている……!」
「
舌打ちする恭介に、のどかがオズオズと近付いていく。
「恭介……」
「構わない、俺をケニヒスベルクに送ってくれ」
「本当に、いいのですか?」
不安げなのどかに恭介は強く頷いた。
「……分かりました」
と、のどかが手を翳す。
すると目の前に身の丈ほどの空間の歪みが発生した。
「ここを通ればケニヒスベルクの街中に出られます。どうか、ご無事で」
「あぁ。──勘違いするなよ、グランフェルト。俺はお前に乗せられた訳ではない。陛下の命を遂行する為に最善かつ最速の道を選んだだけだ」
「えぇ、もちろん。ではお互いに良い戦争をいたしましょう」
恭介は振り向かない。
一切の躊躇いも見せず、目の前の歪みへと足を踏み入れた。
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