第九十話 伝承の世界へ④

 エール王城の、今は誰も使っていない部屋の中で、ソフィアは術式の準備を行なっていた。

 いつもの胸元の開いたシャツではなく、真っ白いローブに身を包み、両手首にはアクセルのものとよく似た霊装をつけている。

 顔つきも普段からは想像もできないほど真剣そのものだ。

 やがて準備を終え、一息つくソフィアに飛鳥が礼を述べた。


「ソフィアさん、本当にありがとうございます」


 深々と頭を下げる飛鳥を見ながら、リーゼロッテがアクセルを小突く。


「あんたもお礼言いなさいよ」

「……あ、あぁ……」


 しかし、ソフィアは緊張した様子で二人を止めた。


「お礼は終わった後に、リーゼロッテさんに言ってください。それに──」

「え? わ、私?」


 ポカンとするリーゼロッテにソフィアが頷く。そして──


「無事に済む保証はありません。最悪の場合、飛鳥さんも死ぬ可能性があります」


 ハッキリと、そう告げた。

 アーニャとマティルダの顔が曇る。

 ソフィアの言葉に、アクセルが戸惑いを見せた。


「どういうことだ。何故そこで俺じゃなく飛鳥が出てくる?」

「父の研究によれば、私たちがいる物質世界と伝承世界に存在する物質量は常に等しいとされています」


 資料を捲りながらソフィアが答えた。


「アクセルさんの肉体が向こうに囚われているのはこの決まりがあるからです。これから飛鳥さんを……正確には飛鳥さんの精神を伝承世界に送りますが、同じことが起こる可能性があるんです」

「飛鳥の代わりにこいつらみたいなのが出てくるってことか?」


 その問いを肯定し、ソフィアは続けた。


「もしくは飛鳥さんを送り返そうと危害を加えてくるかもしれません」

「八年前は、そんなこと……」


 アクセルの視線が彷徨う。


「十分気をつけます。始めましょう、ソフィアさん」


 と、飛鳥が部屋の中央に置かれた台へ近付いていくが──


「待て! 勝手に話を進めんじゃねぇ!」


 アクセルが怒鳴り声をあげた。


「八年前の実験も俺を含めた大勢に行われた。だがそんな話は聞かされなかったぞ、どうなってる?」


 詰め寄るアクセルに、ソフィアが少し考える素振りを見せる。


「恐らくですが、八年前は被験者によって自身に適合できる『伝承』を探させ、物質世界に呼び出そうとしたんだと思います。でもその逆──獣たちにアクセルさんの肉体を探させて送り返すことはできません。私では獣たちと意思疎通ができませんから。飛鳥さんが探す他ないんです」

「そんなに心配するなよ。一緒に戻ってこよう」


 宥めるように、飛鳥はアクセルの肩に手を置いた。

 だが、アクセルは納得していないようだ。

 手を払い除け、怒りに満ちた顔を向けた。


「何のんきな顔してやがる。てめぇは怖くねぇのか?」

「……お前は怖いのか?」

「そうじゃねぇ! 今のてめぇはこの国の王だろうが! 万が一のことがあったらこいつらはどうなる!? この国はどうなる!? 今までみたいに好き勝手やっていい立場じゃねぇんだよてめぇは!」


 アクセルが噛みつかんばかりの勢いで飛鳥の襟を掴む。

 皆が止めに入ろうとするが、直後、飛鳥はアクセルの腕を握りしめた。


「お前の言う通り、僕の代わりはいない。でも、それはお前だって同じだ」

「何だと……?」

「お前の願いが本物なら、償いの気持ちが本物なら、失敗するなんて考えるな。それとも、お前の覚悟はその程度なのか?」


 今度は反対に飛鳥が一歩踏み込みアクセルに迫る。

 アクセルはしばらく俯いていたが……。


「誰にモノ言ってんだ? てめぇ」


 ため息をつき、いつもの邪悪な笑みを浮かべた。


「俺にはまだやることがある。こんなところで終わる訳にはいかねぇんだよ。おい、ソフィア」

「あの、私の準備はもう終わってますけど……」


 ソフィアにジッと見つめられ、二人はバツが悪そうに台の上に横になった。

 飛鳥の手をアーニャとマティルダが握りしめる。


「お二人の状態は私の方で確認します。万が一の時はアーニャさんとマティルダさんで飛鳥さんを引き戻してください」

「はい!」

「任せよ!」


 次にソフィアはリーゼロッテに声をかけた。


「リーゼロッテさんはアクセルさんの手を握っててあげてください」

「え? 私、精霊使いじゃないけど……いいの?」


 リーゼロッテを安心させるようにソフィアが微笑む。


「はい。エレメントは保有者の気持ちに反応する性質がありますから。この場合はリーゼロッテさんが適任です」

「わ、分かった」


 頷き、リーゼロッテはアクセルの手を握った。


「では飛鳥さん。アクセルさんの肉体を見つけたら、さっきお伝えした術式を使って獣たちを伝承世界へ引っ張ってください」

「分かりました」


 二人が目を瞑る。

 ソフィアは自身を落ち着かせるように何回か深呼吸し、床に手を置いた。

 眩い光と共に、円形の陣が浮かび上がっていく。


「あっ……ぐぅ……」


 体の中身を引っ張られるような気持ちの悪い感覚に襲われ、飛鳥は歯を食いしばる。

 しかし次の瞬間、浮遊感に包まれたかと思うと意識が閉じていった。






 それからどれだけの時間が経っただろうか。

 ボンヤリとだが意識が戻り、ゆっくりと目を開けようとした直後──


「──っ!?」


 そこは、透き通った水の中であった。

 水面に顔を出そうと慌てて腕を動かすが……。


 ん……? 体が……。


 服が水を吸っている筈なのに全く重さを感じない。

 落ち着いて右腕だけを水面に向かって伸ばすと、何もしていないのに段々と水面に近付いていった。


「はぁっ! ど、どこか地面は……!?」


 辺りを見渡すと、すぐ近くに緑が生い茂った大地が見える。

 そちらに腕を伸ばすと、また何もしていないのに吸い寄せられるように体が動き出した。そして──


「あれ? 濡れて、ない……?」


 地面に上がった飛鳥は髪や服を触り怪訝な顔をした。

 先ほどまで水に浸かっていたのに、体も服も乾ききっている。


 どうなってるんだ……?


 不思議に思った飛鳥は水を少しすくい、『精霊眼アニマ・アウラ』で視てみるが……。


「『精霊眼アニマ・アウラ』が反応しない……!?」


 透明な水が写るだけで、エレメントはおろか何の情報も読み取れなかった。

 困ったことになったなと飛鳥は肩を落とした。

 ティルナヴィアはエレメントで溢れている。

 当然自然の水であってもエレメントを帯びているのだが、それが見えないとなると……。

 『終焉の王フィニス・レガリア』を封じられ、自身に問題があるのか、伝承世界の影響なのか確認することもできない。

 試しに『神ま』でアーニャに呼びかけてみるが返事はなかった。


 足で探すしかないか……。


 目の前の湖を眺め、立ち上がろうとしたが──


 そういえば、喉乾いたな……。


 急に喉の渇きを覚え、再び手で水をすくう。

 それを口に運ぼうとした瞬間、


「それ、飲まない方がいいですよ。──さん」

「え?」


 女性の声が響き、飛鳥は振り向いた。


「こんにちはっ♪」


 と、女性が笑顔で手を振る。


 金髪のサイドテールに人懐っこそうな丸い瞳と、いわゆるアヒル口。

 白いワンピースに金色のベルトを巻いたその女性は飛鳥へ手を差し出した。


「珍しいですね。──がこの世界にいるなんて」

「──?」


 頭がズキリと痛む。

 どうしてか言葉の一部分が聞き取れない。

 飛鳥が苦しそうな表情を浮かべると、その女性は慌てて飛鳥の頭を撫でた。


「ごめんなさい! 苦しめるつもりはなかったんです!」

「い、いえ……。それより、貴女は……?」


 尋ねると、女性はあたふたし始め、


「ご、ごめんなさい! 名乗りもせず! 私はスクルドといいます! よろしくお願いします!」


 敬礼のようなポーズでそう名乗った。


「皇飛鳥です。あの、ここが伝承世界……で間違いないですか?」

「はい! どうぞこちらへ! 姉たちにも紹介しますね!」

「え? あ、ちょっと!」


 アクセルの居場所を聞きたかったのだが、スクルドは飛鳥の手を掴むとさっさと歩き出してしまった。

 引っ張られるように飛鳥も歩き出す。


「あのっ! 今急いでるんです! 見つけないといけないやつがいて!」


 飛鳥が抵抗を見せると、スクルドは笑顔を見せた。


「でも、今のままじゃ難しいですよ。その眼、視えてませんよね?」

「──っ!?」


 『精霊眼アニマ・アウラ』について触れられ、飛鳥は動揺した。

 スクルドから敵意は感じられない。だが──


「あぁっ! またまたごめんなさい! 怖がらせるつもりじゃなくて!」


 身構える飛鳥にスクルドはバタバタと両手を振り出した。


 この人は一体……? 信じていいのか……?


「とにかく! まずは私について来てください! 飛鳥さんの力になりますから!」


 怪しむ飛鳥に、スクルドは元気いっぱいに宣言した。


 ……そうだな。今は頼れる相手もいないし。


「分かりました。よろしくお願いします、スクルドさん」

「はい♪」


 こうして、飛鳥の伝承世界での旅が始まった。

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