第四十四話 大切なこと
歳は三十前後といったところか。
赤みがかったブラウンヘアのアップバングに端正な顔立ち。
着ているローブもヘレンとは違い、きちんとサイズが合ったものだ。
というより、見るからに布の材質もいいし、ところどころに金色の刺繍が入っていて、研究所内で特別な地位にいることを窺わせるものであった。
尚も笑みを浮かべ、こちらを見つめるノルデンショルドに対し、
「終わった……わ、私の人生、終わりました……」
崩れ落ちそうになるヘレンの体をアーニャが支える。
ヘレンのあまりの狼狽ぶりに、飛鳥はレーギャルンに手を添えた。
「そんなに怯えることはないだろう? ヘレンくん」
と、ノルデンショルドはローブのポケットに手を入れる。
いつ攻撃されてもいいよう、飛鳥はノルデンショルドから視線を外さない。
しかし少しして、やり辛そうに眉を寄せた。
彼が魔族ではなく人間だというのが主な理由だが、それ以上に……、
す、隙だらけだ……。
余裕あり気な態度のせいで手練れの魔術士かと思ったがどうやら違うようだ。
ティルナヴィアにいた時に比べれば自分も十分すぎるほど弱体化しているが、それでも何の問題もなく倒せてしまうだろう。
何よりこちらにはアーニャもいる。
魔族を呼ばれれば厄介だが、そんな時間を与えることもない。
アーニャもノルデンショルドに戦闘能力がないことに気がついたのだろう。
ヘレンを落ち着かせようと頭を撫でるだけでこちらを見ようともしない。
すると、ノルデンショルドがゆっくりと歩き出した。
ヘレンが短い悲鳴をあげるが──、
「どいてくれないか? 鍵が開けられない」
ポケットから鍵を取り出し、扉を指差した。
「す、すみません……」
アーニャに支えられ、ヘレンは素直に立ち上がり道を開ける。
「こんなところで話し込んでいたら警備に見つかってしまうよ。ちなみに、ここの警備は人間じゃないから気をつけることだ」
それだけ言うと、ノルデンショルドはさっさと研究所の中に入ってしまった。
三人はしばらく互いに見つめ合っていたが……、
「い、行きましょうか……」
ヘレンに促され、ノルデンショルドの後についていった。
「え、えと……こちらの方は、アルベルト・ノルデンショルド……先輩です。しょ、所長の息子さんで……特任研究員をされています……」
相変わらずオドオドしながらヘレンがそう紹介すると、アルベルトはお茶を一口飲み、
「それだと、父さんのお陰で特任研究員になったように聞こえるなぁ」
とヘレンへ視線を送った。
「ひっ!? す、すみませんそういうつもりは……」
ヘレンが必死に首を振り否定すると、アルベルトは楽しそうに笑う。
二人のやり取りを飛鳥とアーニャが困惑した様子で眺めていると、アルベルトは勘違いしたのか、
「あぁ、これは失礼。お茶もコーヒーもそっちの棚に入ってるから好きに飲んでくれ」
そう言った。
気になるのはそこではないのだが……。
「あの、ところで……」
「そうだね。まずは名前を聞かせてもらおうかな。それと、この研究所に来た理由もね」
アーニャが口を開くと、被せるようにアルベルトが質問してきた。
「えっと……どこから説明したらいいか分からないんですが……」
言い訳を考えているのか、飛鳥がまごまごしながら話し始めるが──、
「わ、私が話します!」
アーニャが飛鳥の口を押さえつけた。
飛鳥が苦しそうにアーニャの手を握るが離さない。
ペルラとの戦いで、私は飛鳥くんを怖いと思ってしまった。
この前の村では、夫婦って言ってくれなくて、すっごく寂しかった。
でも、そんな勝手なことばかり考えてはいられない。だって──、
思い出すのは、エールで言った自身の言葉。
私だって、飛鳥くんに何があっても一緒にいると決めた。
飛鳥くんが間違った道を進もうとしたら止めると決めた。
それを嘘にしたくない。
だから──飛鳥くんが言ってくれないなら。
「私は、す、皇アーニャといいます! こっちは夫の飛鳥くんです!」
顔を真っ赤にし、叫ぶように答えた。
「ちょ、ちょっとアーニャ!?」
アーニャの言葉に、飛鳥は腕を振り解き詰め寄るが、
「ダ、ダーリンはちょっと黙っといてくださらないことかしら!?」
アーニャは訳の分からない口調でビンタをかました。そこへ──、
「ご、ご夫婦、だったんですね……。な、仲が良いので……そうかなぁと、お、思ってはいたんですが……」
ヘレンが三人分のカップをトレイに乗せ戻ってきた。
アーニャが真っ赤なまま「えへへ」と笑う。
「そ、それでですね! お、夫の魔術適性とレーギャルンっていう……飛鳥くん! 出して!」
「わ、分かったから落ち着いて!」
アーニャに捲し立てられ、飛鳥は急いでレーギャルンを取り出し机に並べた。
アルベルトは一つを手に取るとマジマジと見つめ、
「何だい? これは」
当然の問いを返してきた。
「私たちにも何なのか分からず……調べてもらいたいんです」
「自分たちの持ち物なのに何なのか分からない。……ふむ、つまりこれは主人の魔族への土産かな?」
「私たちは飼い人じゃありません! 二人で旅をしてるんです!」
アーニャの言葉に、アルベルトが呆気に取られた様子を見せる。
「人間だけで旅を? そう答えるように命令されているのかい?」
再び当然の疑問をぶつけてきた。
「そうじゃなくて……。私たちは魔王を倒す為に旅をしているんです」
すると、アルベルトの目つきが鋭くなる。
それにアーニャはしまったと口を押さえた。
アルデアルで魔族を否定することは国家の体制をも否定することになる。
だが、アルベルトの口から出たのは意外な言葉だった。
「ふぅん。魔王を倒す、か。いいだろう、調べてあげるよ。君たちは運がいい。世界一の天才魔術研究家に出会えたんだからね」
そう告げ、アルベルトは心底楽しそうに笑う。
「あの、本当にいいんですか……?」
様子を窺うようにアーニャが聞くが、
「あぁ。ヘレンくん、こいつらが何なのか隣の部屋で調べておいてくれ。僕は飛鳥くんの適性検査を先にやってしまうよ」
「は、はい……。わ、分かりました……」
アルベルトはやや早口でヘレンに指示を出し、ヘレンも頷くとレーギャルンを抱え隣の部屋へ行ってしまった。
アーニャもヘレンに続く。
「それじゃあ僕たちも始めようか。そこのベッドに寝てくれ」
「は、はい……」
飛鳥がベッドに横になると、アルベルトは部屋の奥から大きな、初期のカメラのような器材を持ってきた。
アルベルトがその器材に手を置き魔力を込めると、飛鳥を中心に何重もの光の円が広がっていく。
「少し立ち入ったことを聞いてもいいかな?」
器材を弄りながらアルベルトが聞いてきた。
「何でしょうか?」
「君たち、結婚してどれくらいだい?」
「えっ……に、二ヶ月弱……ですかね」
嘘は言っていない。アーニャと出会ってから大体それくらいが経つ。
だが、何故今そんなことを聞くのだろうか。
「僕は結婚していないからよく分からないけど、その時期が一番楽しいらしいじゃないか。なのに、何で君はそんなに辛そうな顔をしているのかな?」
「それは……」
答えにくそうにしていると、アルベルトが手を止める。
「あまり本音を言い合えていないようだね」
「え?」
「僕のように天才なら見るだけで大体分かってしまうけど、凡人は何と言ったら伝わるかを必死に考え、実際に言葉にしないと理解し合えないものだ」
アルベルトは驕るでもなく、馬鹿にするでもなく、当たり前のようにそう述べた。
自信満々すぎて逆に嫌味が感じられない。
「でも、それでアーニャに嫌われたら……僕は……」
最悪の展開が頭を過ぎり、シーツを握りしめる。
「嫌われたっていいんじゃないかなぁ」
「は……?」
「そもそもだ、アーニャくんは本音をぶつけたくらいで君を嫌いになるような心の狭い人なのかな?」
「そんな訳ないでしょ!? アーニャはいつも優しくて……思いやりがあって……」
思わず飛び起きると、「検査中だよ」とアルベルトに肩を掴まれた。
「それと、一度嫌われたら終わりという考え方が間違っている。人間はそんな単純な生き物じゃない。嫌われたなら、もう一度好かれるよう努力すればいいだけの話さ」
「…………」
「騙されたと思って一度本音をぶちまけてみなさい。万が一ダメになったら僕も一緒に謝ってあげよう。この天才が頼めばもうワンチャンスぐらいもらえるさ」
そう言って笑うアルベルトに、飛鳥も思わず笑ってしまった。
自分を天才と信じて疑わない彼の態度もだが、何故か何とかなる気もして。
僕が、本当に伝えたいことは──。
その数時間後。
「あ、あああああのっ、マスティヴァイス様っ。ほ、本日はどのようなご用件でしょうか?」
アルベルトと同じ、赤みがかったブラウンヘアのでっぷりと太った男は、短い足を可能な限り伸ばし、必死にマスティヴァイスの後ろを追っていた。
顔中に脂汗をかき、唇は紫になっている。
「メテルニムス様の命令でね、ここにいる反逆者を捕まえに来たのさ」
その言葉を聞き、男は足をもつれさせ盛大に廊下を転がった。
「は、反逆者!? お待ちください! ここにそのような者はおりません!」
「あぁ、君に責任はないし、ここを破壊するつもりもない。安心したまえ」
それを聞いても尚、男は顔面蒼白なまま廊下にへたり込んでいた。
しかしマスティヴァイスは男に一瞥もくれない。
「アニヤメリア、そして皇飛鳥。残念だが、君たちの旅はここまでだ」
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