第一話 よくある出来事
「最っ悪だ……」
キーボードを叩く手を止め、皇飛鳥は溜息混じりに呟いた。
ディスプレイの右下に目をやると、時刻は二十二時を少し過ぎた辺りだ。
それを見て、もう一度大きな溜息を吐いた。
フロアに残っているのは飛鳥を含め十人弱。
イライラした様子でキーボードを叩く者、エナジードリンクと栄養ドリンクをベストマッチさせようとする者、夜食を食べ始める者……。
共通しているのは、皆疲れ切っているという点だ。
思い起こせば四時間ほど前だったか。
帰り支度をしていたところに上司の「これ、明日の朝一に確認できるようにしといて」という、大体の社会人が経験したであろう殺意に目覚めるイベントが発生してしまった。
今日は用事があるのでと一度断ってみたが、「何で平日に予定入れてんの?」とブラックを超えてダークネスな一言で殴り付けられ、今もこうしてパソコンと睨めっこしている。
ちなみにその上司はというと、一時間もしない内に「じゃあ、予定あるからお先に」と皆の怒りゲージをチャージするだけして帰ってしまったのだから、ダブスタここに極まれりだ。
飛鳥は眼鏡を外しハンカチで顔を拭くと、少し寝癖がかった黒髪をガシガシと掻いた。
そもそもだ。至るところで言われていることだが日本企業は終業時間に対する意識が低すぎる。
定時という言葉の意味を理解しているんだろうか。
始業時間や電車の発車時刻は数十秒遅れただけであれだけ怒るくせに。
思い出してほしい。幼い頃のことを。ホームルームで出されたよく分からん課題と、「終わった人から帰っていいよー」という魅力溢れるフレーズを。
あの時の処理能力の高さたるや、下手したら今を上回っているのではないだろうか。
そんなことを考えながら、ようやく帰宅の途についたのが二十三時過ぎ。
いつもなら「絶対転職してやる……!」と強い決意の下、求人サイトを眺めているところだがこの日は違った。
電車のドアにもたれかかり、口元を綻ばせながら中吊り広告を見つめている。
疲労とストレスで頭がおかしくなったわけではない。
視線の先には、あるファンタジー小説の広告が吊り下げられていた。
そう、今日は『皇飛鳥的、今年もこの作品が凄いランキング』断トツ一位の小説、その最新刊の発売日なのだ。
最初は弱かった主人公が仲間たちと共に成長し悪を討つ為奮闘するという、どこかで見たことがあるキャラクターとストーリーと言われてしまえばそれまでだが、王道には王道と呼ばれる理由がある。
それがよく分かるものになっている。
電車から降り、いつもとは反対の出口を出て書店へと向かう。
就職に伴って引っ越してきてもう四年。
駅近にある深夜十二時まで営業しているその店は、非常にありがたい存在だった。
「そんな時間まで営業している店もブラックでは?」などと思っていた時期もあったが、こうして発売日当日に購入できるのも全てそのお陰だ。その辺りは感謝しつつ無視することにした。
胸を躍らせながら、信号が変わるのを待つ。
ガラス張りの店内を眺めると、会話こそないが、会釈ぐらいはするようになった店員の顔が見えた。
チラリと腕時計に目をやると、閉店までまだ十分以上ある。
心の中でガッツポーズし、信号が変わるのを待った。
ようやく信号が青になり、小走りで横断歩道を渡り始める。
そこへ、突然ハイビームが浴びせられた。
「は?」
その車は全く減速する様子を見せず、飛鳥目掛けて一直線に向かってきた。
ライトに浮かび上がったのは、六、七十代だろうか、男の顔であった。
その表情に焦りの色はなく、ぼーっと虚空を見ている。
「ちょ、ちょっと待っ──」
そのまま全身に強い衝撃を受け、体が宙を舞った。
すぐ後に、どこかへぶつかったのだろう、金属が潰れるような音とガラスが割れる音が辺りに響き渡った。
店内や周りのアパートから人が飛び出してきた。悲鳴も聞こえる。
飛鳥の方にも何人かが駆け寄ってきた。何か話しているが、音までは拾えない。
関節は曲がる筈がない方向に曲がり、腹部辺りが裂けたのだろうか、段々と血溜まりが広がっていく。
だろうか、というのも今の自分にはそれを確かめる術がない。
手足はもちろん動かないし、感覚も失われている。
ただ、自分はもう助からないということだけは分かる。
これがよくある「アクセルとブレーキを踏み間違えました」ってやつかなー……と、薄れ行く意識の中で考える。
明日のニュースで取り上げられて、ネットではあーだこーだと好き勝手書かれるんだろうな……。
それにしても……。
新刊、読みたかったなぁ……すっごい良い展開で終わってるからなぁ……。
「さ、い……悪……だ……」
しかしそんな願いも空しく、飛鳥の意識は真っ黒に塗り潰されていった──
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