1 勃興-2-
「今日も訓練をしていらっしゃったのですか?」
執務室に戻る途中、シェイドは紳士的な老爺に声をかけられた。
「ああ、はい。えっと……?」
「ルタ・セルバでございます」
「あ、そうでした……!」
シェイドは名前を忘れていた非礼を詫びた。
「無理もございません。ここには人が多うございますからね」
白髭を撫でてルタは笑った。
彼を初めて見た時、シェイドはいわゆる貴族階級だと思った。
煌びやか意匠の軍服もそうだが、ただ立っているだけでもたしかな気品を漂わせている。
穏やかな口調、流れるような所作は田舎町の富豪など足元にも及ばないほど優雅だ。
白髪の、明らかな高齢だというのに老いをまったく感じさせないのは洗練された振る舞いのためだ。
なぜこんな人の良さそうなおじいさんがここにいるのか、とシェイドは事情を知るまで不思議でならなかった。
「改めてお礼を申し上げます」
にこやかな笑顔が一転、深刻な表情になる。
「私に変わらず今の地位を残してくださったこと、感謝してもし足りません」
「僕は何もしてませんよ。だってルタさんのお仕事のこともよく分かってませんし……」
ペルガモン政権下、彼は戦略顧問として軍部に常駐していた。
世界中の地理や情勢に明るく、その進言に従っていれば最少の被害で最大の戦果をあげられただろう。
しかし実際のところ彼の仕事は本来のそれとは異なっていた。
有利不利に関係なく常に武力による解決を強行してきたペルガモンに戦略は必要なかった。
そのためルタの役目は専ら、好戦的な暴君への諫言だった。
結果、ペルガモンの意に沿わない消極的な発言ばかりする彼は不興を買い、籍を置く戦略室は縮小された。
当のルタは間もなく職位を取り上げられる予定だったが叛乱が起こり、処分はうやむやのままとなった。
そんな彼を拾ったのがシェイド――ということに表向きはなっている。
新しい皇帝は他者の言葉に真摯に耳を傾けるから、ルタのような人財が能力を発揮できる時代になる。
エルディラントがどのような方針を採るにせよ、部下が進言しやすい環境を作るのは重要だ。
特にペルガモンに媚び諂う役人が多い中、ルタは恐れることなく諌めてきたため、能力においても人格においても優れているといえる。
そんな彼を用いないのは国の損失だから、どうかこれまでと変わらない待遇をと重鎮が訴えたのだ。
もちろんシェイドにそれを拒む理由はない。
政治のせの字も知らない田舎者はいわば周囲の言いなりである。
反対に彼らがルタを放り出すべきだと言っていたら、素直にその言葉に従っていただろう。
その意味ではこの老爺を救ったのはシェイドではなく、彼の才能を信じた重鎮である。
「これからいろいろ大変ですから、みなさんには今までどおりでいてほしいです」
「そのお言葉だけで充分でございますよ。この身が枯れ果てるまでこの国と新皇帝に忠誠を誓います」
重鎮が評するにこの少年は争いを嫌い、和を重んじるという。
戦争の惨禍に見舞われた経験から現在、交戦中の諸外国ともできるだけ穏便な方法で争いの解決を図りたいというのが彼の望みだ。
となれば今後、戦略顧問として忙しくなるだろう。
「はい、よろしくお願いします」
柔和な老翁の笑みにシェイドも思わず表情を綻ばせる。
「でも忠誠なんて大袈裟ですよ。僕はみんなが笑って暮らせるような、そんな世界にしたいだけですから」
ルタは苦笑した。
“だけ”と言いながらあまりに壮大すぎる目標だ。
しかし多くの人間が願っている未来でもある。
ルタは思った。
この少年に懸けよう。
過去、エルディラントの支配者たちは戦によってこの国の存在意義を見出してきた。
平和や繁栄という聞こえの良い言葉で民を欺き、その実は徹底した搾取によって成り立つ軍国主義国家だ。
しかし初代皇帝から世襲によって続いてきた恐怖政治も、ペルガモンの死とともに終焉を迎えた。
正当な手続きではないが、エルディラントは初めて民衆から生まれた王を戴いたのだ。
民の痛みや苦しみを誰よりも分かっているのは、同じ境遇に生まれ落ちた民だけ。
この少年がクライダードであるか否かに関係なく、ルタはその純朴さと純真さに仕えようと心に決めた。
そんな気持ちにさせる不思議な魅力が彼にはあったのだ。
「その世界の実現のために私の力が役に立つならなんなりとお申し付けくださいませ」
自然とこんな言葉も口に出る。
相手がペルガモンならあり得ないことだ。
シェイドは気恥ずかしそうに笑った。
執務室に戻るとすぐに事務官が駆け寄ってきた。
「ああ、お待ちしておりました。今日も山積みで――」
この若い男はいつも何かに追い立てられているように落ち着きがない。
決裁印を押すのがシェイドの仕事なら、彼に捺印させるのが彼の仕事だ。
「うう、こんなにたくさん……どういう内容なんですか?」
机上に積み上げられた書類に彼はたじろいだ。
「ゴールヌイ地区をご存じでしょうか? 先の叛乱で大きな被害を受けた地域なのですが、復興のための支援を要請しています」
それを聞くとシェイドは中身も読まずに押印した。
どうせ読んだところで内容は理解できないし、そもそも彼にはまだ読めない文字も多い。
「他には――ああ、その青色のは報告書です。半壊した橋の修復が終わったという……その費用が当初予定よりかさんだと――」
堆くなった書類をめくりながら、どうしてこう分かりづらい書き方をするのだろうとシェイドは思った。
どれも話せば数秒で済むような事柄を聞き慣れない表現で長々と書き連ねている。
(苦手だなあ……)
魔法の練習もそうだが、読み書きの勉強も思うように進んでいなかった。
特に政務として接する文書は日常の学習とは段違いの難解さだ。
たとえばいま手にしている陳情書には専門的な用語がびっしりと並んでいる。
ようやく覚えた読み書きがまるで通用しないのだ。
こんなことが続けばいい加減、勉強も苦痛になってくるのだが勉強できることのありがたさを知っているシェイドは投げ出したりはしない。
事務官の助けを借りてどうにか今日の仕事を終えた彼は窓の外を見た。
やはり都会の空は故郷プラトウのそれよりくすんで見えた。
これはきっと距離感のせいなのだとシェイドは考えた。
ここでは手が届くところにはたいてい何かがある。
書棚の本、何に使うのか分からない端末、内装と調和のとれていない観葉植物。
外に出れば華美な装飾の通路に噴水、要所に配置された警護兵。
裏手には艦や戦闘機のひしめく離着陸スペースがある。
比してプラトウの景色は広闊そのものだった。
人工物よりも自然のほうが圧倒的に多かった故郷の空は、こことは違って澄んでいて視界を遮るものもない。
高台に登れば彼方に海を望み、山々は遠近に聳え立っている。
あののどかな広さが彼は恋しくなった。
「………………」
しかしだからといってプラトウに戻る、という選択はできない。
帰るべき家も迎え入れてくる家族も、あそこにはない。
彼が愛した者、親しかった者は撃たれ、焼かれ、今は土の下だ。
なによりこの少年には役割がある。
エルディラントの新たな支配者として、今も続く混乱を鎮め、彼が望む安全で平和な国づくりをしなければならない。
(そうだ…………)
自分に何かができるとは思えない。
大人たちは魔法の才能があるというが、未だまともに使いこなせていない。
クライダードだからと持ち上げられる理由もよく分からない。
彼にとって自分を評価し、肯定する要素は何ひとつないのだ。
「………………」
――ただ。
この濁った空は国中のあちこちにつながっていて、そのどこかでは今も戦禍に見舞われている人々がいる。
そんな彼らのために何かしたい、という意思は強く持っていた。
それもその成果を実感できる方法で、だ。
面倒な実務は周囲が引き受けてくれるから、彼は書類に捺印し、必要があれば用意されている言葉を発せばいいという。
あとは大人たちが勝手に動いてくれて彼の理想に近づいていく。
それが役目だと言われれば拒みようがないが、満足を得られる方法ではなかった。
現場から遠く離れた安全な場所で事務をこなすのではなく、現地で直截的に関わりたいと思っていた。
「明日、アシュレイさんにでも言ってみようかな」
少年の横顔は寂しげだった。
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