新たなる脅威篇

1 勃興-1-

 敏感な者はわずかなミストの流れをすら感じ取ることができるという。

 グランにそう教えられたシェイドは静かに目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませた。

 余計なことは考えてはならない。

 ミストや魔法に関する知識の基礎は学んだが、最終的にそれを使う人間に求められるのは経験と感覚だという。

(感じる? ミストを……? 目に見えないのに…………?)

 このあたりが彼にはまだよく分からない。

 これまであまりに狭い世界で生きてきたから、彼にとっての存在とは目に映るもの、手に触れることのできるものだけだった。

 空気は理解できても、そこに漂うミストの性質など分かったつもりになることさえできない。

「どんな些細な変化でもかまいません。何か感じることはありませんか?」

 険しい表情の彼を見てグランが言う。

 この少年はまだ自分にまつわる多くのことを理解していない。

 類まれな魔法の才能、体内に宿る厖大な量のミスト、そして――。

 最も知っておかなければならない、世の理だ。

「なんとなく掌が温かくなってきたような気がします」

 シェイドは嘘を吐いた。

 この数日、重鎮は付きっきりで魔法を教えてくれている。

 なかなか基礎レベルから抜け出せない所為でかなりの時間を割かせてしまっている。

(グランさんたちには政務っていうのがあるんだから上達したフリをしないと……!)

 かつて母は悪意のある嘘を禁じた。

 これは裏を返せばその人を想っての嘘は許される、ということだ。

 実際、彼は今日までにそうした嘘を何度も吐いてきた。

 そうすることで周囲が上手く回ると思っていたからだ。

「私に気を遣わないでください。習得の早い遅いは人それぞれです」

 グランは微苦笑した。

 この程度の心理なら簡単にめる。

 暴君ペルガモンを討ち、その地位を簒奪したにしてはあまりにも小心で滑稽なほど周囲に気を遣う新帝のことだ。

 ミストの流れを感じ取れるグランは彼が偽りを述べていることをすぐに見抜いた。

「あ、ごめんなさい……」

 彼はすぐに謝る癖がついていた。

「今日はここまでにしましょう。心配いりません。すぐに使いこなせるようになりましょう」

 前方に並んだ無傷の的を見ながらグランが言う。

「すみません、いつも忙しい時にお願いしているのに……」

「皇帝の望みを叶えるのが私たちの務めです。それにあなたが魔法を使いこなせるようになれば、それが私たちの喜びなのです」

 彼は恭しく頭を垂れた。

「前にも言いましたけど、その、改まったようなお話しの仕方はやっぱり元に戻せないんですか?」

 即位式のあと、重鎮はシェイドに対する振る舞いを皇帝へのそれに改めた。

 最高幹部が畏れ慎むさまはかつての暴君を彷彿させるとして、宮殿内でも否定的な声がある。

 だが彼らにはそうしなければならない理由があった。

 先の叛乱はシェイドの存在があればこそ成し遂げられたことだが、彼を知らない世間の大半はそうは見ていない。

 重鎮と軍が手を組んだから成功した、と見る向きが強く、そこにくっ付いてきたシェイドは過小に評価されている。

 つまり中枢でさえこの少年を皇帝と認めていない者がまだまだ多いのだ。

 こんな世間知らずの子どもに仕えるために役人をやっているのではない、という不満の声もあちこちで囁かれている。

 そうした空気を感じ取った2人は率先してシェイドの前に膝を屈した。

 この国の新たな皇帝は誰なのか。

 それを知らしめるのに最も簡単でかつ効果的な方法だったのだ。

「申し訳ありませんが皇帝のお望みでもこればかりは改めるワケにはいきません。今しばらくご辛抱ください」

 窮屈だな、とシェイドは思った。

 跪かれてもまったく良い気分がしない。

 たいていの人間は優越感や征服感を覚えるものだが、根が臆病な彼はかえって後ろめたさを感じてしまう。

(もう少し堂々と振る舞ってほしいが――)

 皇帝としての威厳を示さなければ下はついてこない。

 そう思うグランだが口にはできない。

 彼を無理やり担ぎ上げ、君主を押し付けたのは誰あろう重鎮だ。

「では私はこれで失礼します」

「あ、はい、ありがとうございました」

 政務があるからとグランは従者を率いて離着陸スペースへ消えた。

 宮殿裏に作られた急ごしらえの教練場にひとり残ったシェイドは、掌にほのかに残る感触を確かめた。

 なぜ魔法の訓練が思うように進まないのか。

 その理由は漠然とだが理解している。

 他人に見られていると思うように力を発揮できないのだ。

 タークジェイの艦を破壊した時もペルガモンを葬り去った時も、昂ぶった感情に我を忘れて人の目を気にしていなかった。

 だが意識して魔法を用いようとすると、なぜか上手くいかない。

「ダメだな、僕……ちゃんとやらないと……」

 拗ねたように呟き、指先にミストを集めてみる。

 周囲の空気を巻き込みながら凝集したミストに火が点き、たちまち拳大ほどの炎ができあがる。

 的を指差し、少し力を込めると炎はいびつな螺旋を描いて中空を翔けた。

 狙いは逸れて的の外縁を破壊するに留まった。

「………………」

 やはりあの時のようにはいかない。

 重鎮は変換効率がずいぶん良くなったと進捗を褒めてくれるが、それは所詮は道程に過ぎない。

 十数メートル先の的にさえ当てられないのなら何もできないのと同じだ。

(そういえば判子を押さなきゃならないんだったっけ…………)

 背伸びをして執務室に向かう。

 皇帝としての仕事は無限にあるハズだが、周囲の大人が彼にやらせるのは書類への捺印だけである。

 全国に叛乱の傷が深く刻まれており、今はその復興に当たらなければならない重要な時期だ。

 必要な物資や労働力が滞りなく現地に届くよう手配するには彼の決裁が欠かせない。

 重大な仕事だと分かっているが、もっと国のためになっていることを身近に感じられるようなことがしたいと彼は思っていた。




 シェイド政権発足から2週間。

 エルディラントは混乱の極みにあった。

 各地では今も暴動が相次いでいる。

 ペルガモンが倒れ、報復の恐れがなくなったために騒ぎを起こしている者たちがいる。

 罹災者を保護する施設の急造、苛烈な税制や法の見直し等、政府が取り組まなければらない事案は山積みだ。

 またこの混乱に乗じて近隣諸国による侵攻が相次いだ。

 国境の島嶼が武力占拠され、その方面への対応にも追われている。

 暴君の死は恐怖政治の終わりを告げるものであった。

 だが同時に新たな混迷の萌芽でもあった。

 世界はまだこの少年――シェイド・D・ルーヴェライズを必要としていたのだ。

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