9 皇帝の最期-7-

「見事な戦いぶりだ。殺すのが惜しい」

 自らの手で叛逆者を葬ったからか、ペルガモンは活き活きとしている。

 両勢の激しいぶつかり合いは一転して静寂に包まれていた。

 戦の音を奏でるのははるか彼方である。

 ここに立つ政府側の人間はもはやこの老獪ただひとりだ。

「周りを見ろ。あなたの負けだ」

 アシュレイが一歩踏み出す。

「よく言えたものだな」

 彼は嗤った。

「お前たちこそ見よ」

 濁った双眸が戦場を見渡す。

 罪なき者たちの亡骸が、瓦礫と同じように積み重なっている。

 官も民も、政府軍も叛乱軍も関係なく。

 傷つき、倒れ、命を落とした彼らは凄惨な風景の一部となった。

 かろうじて生きている者も戦力としては使い物にならない。

 まともに動けるのは重鎮とシェイドくらいだった。

「裏切りには――」

 グランが躍りかかった。

「死をもって償えっ!!」

 右手に出現させた剣を握りしめ、青く輝く光刃を叩きつける。

 だがペルガモンは赤黒い光をまとった手でその刃を受け止めた。

「劣等め! 分際を知れっ!」

 その後ろでアシュレイが両手を掲げた。

 中空の光環から吐き出された炎が、前後左右あらゆる方向からペルガモンを焼かんと迫る。

 炎は彼に触れる一瞬前、見えない膜をなぞるように甲冑を舐めあげながら渦を巻く。

 燃え盛る赤はそのまま頭上に向かって伸び、その先端から空気に溶けて消えていった。

「失望したな」

 破裂音がして光刃が握り砕かれる。

 ペルガモンは反対の手を突き出してミストを送り出した。

 掌から黒いエネルギーが迸り、吹き飛ばされたグランの体が十数メートル向こうに落ちた。

 彼はその手で炎を薙ぎ払い、光と熱の隙間からかつての有能な部下を睨む。

 次の瞬間、指先から飛んだ矢が脇腹に、右足に突き刺さり、アシュレイはその場に膝をついた。

(まさかこれほどの力とは…………!)

 彼は見誤った。

 この暴君はただ権力の上に居座っているだけの存在ではなかった。

 受け継いできたのは皇帝としての地位だけではない。

 揺るぎない支配者として君臨するだけの魔力も併せ持っていたのだ。

「………………」

 背後に隠すようにしているシェイドだけは守らなければならない。

 しかし有能な魔導師はたとえ標的を視認できずとも、位置さえ分かればその一点に対して魔法を行使することが可能だ。

 魔導師という言葉は死語になりつつあるが、先ほどの攻防を見ればペルガモンがそう称されても不思議はない。

 アシュレイが業火をまとった拳を振り上げる。

「まだ手向かうか!」

 その動きを読んでいたようにペルガモンは地面を力いっぱい踏みつけた。

 一瞬、周囲の地面が揺れ、アシュレイの目の前に黒く輝く光の壁がせり上がる。

 赤々と燃え上がる炎が壁に吸い込まれていく。

 その奥で老獪は悪辣な笑みを浮かべていた。

「死ね、裏切り者め!」

 強大なエネルギーがグランの時と同じようにもうひとりの重鎮を吹き飛ばす。

 あとに残された少年は怯えた目で暴君を見上げた。

「わしも見縊みくびられたものだな」

 人民の、自分に向ける視線は恐れ慎むものでなければならない。

 当然だ。

 それが支配者というものだから。

 真の支配とは、たったひとりのあらゆる言動さえ思い通りにできることをいう。

 だから彼は憤った。

 シェイドの目に宿るのは恐怖だけではない。

 彼は怯えきっているのではない。

 小刻みに揺れる瞳のどこかに、わずかだが叛意が覗いている。

 ペルガモンの左手がゆっくりと動く。

 過去、その手でどれだけの人間を殺し、その度に返り血を浴び、洗い流してきたかを彼は覚えていない。

 くすみ、皺のあるその手は彼の、そしてエルディラントの歴史そのものだった。

 ミストが一点に集まり、掌が黒く輝く。

(僕は…………)

 シェイドは磔刑に処されたように身動きひとつとれない。

 この暴君に対する怒りや憎悪はあるが、まだ恐怖心のほうが勝っていた。

 間もなく放たれた一条の光をシェイドはほとんど無意識のままに両手を突き出して受け止めていた。

 ここに至るまでに重鎮が教えた身を守る術を、彼は体得していた。

「う……くぅ……ッ!」

 邪悪な力が徐々に少年を追い詰める。

「死ねっ!」

 一喝すると同時に小さな体を守っていたシールドが音を立てて砕け散った。

「シェイド君っ!」

 アシュレイが叫ぶ。

 シェイドはすぐにシールドを張りなおそうとした。

 だがそれより先にペルガモンが再びミストを結集させ、無防備な彼を撃ち貫いた。

「………………」

 膝をつく間もなく倒れた少年は、しばらく呼吸の仕方を忘れた。

 自分が感じているのは熱さなのか、それとも痛みなのか。

 彼には分からなかった。

 明らかなのは苦痛だ。

「く、ぅ…………」

 眼前にある土は血を吸って赤黒く変色していた。

「今ので死なぬとは――」

 ペルガモンの声が聞こえ、シェイドは重くなった頭を持ち上げた。

 ぼやけた視界に暴君の獰猛な瞳が光った。

「惜しいな。叛逆者でなければ部隊のひとつくらい任せてやっただろう」

 くぐもった声にシェイドは恐怖した。

 ペルガモンに殺されることを彼は恐れた。

 地に両手をつき、息も絶え絶えに身を起こす。

「………………ッ!?」

 目の前に赤く、そして黒い魔力の波が見えた。

「いやだ…………」

 彼は自覚した。

 今、自分は生きたいと願っている。

 だがそれをペルガモンが終わらせようとしている。

 魔法の展開は間に合わない。

 アシュレイもグランも、彼を助けに飛び出すには離れすぎている。

「死ね、小僧」

 その瞬間だった。

 一発の銃声がし、ペルガモンの肩を直撃した。

 甲冑を貫くには至らなかったが、その衝撃は確実に彼の注意を逸らし、魔法の発動を遅延させた。

 濁った目が銃弾の出所をたどる。

 折り重なった遺体から身を乗り出すようにこちらを睥睨している少女。

 とっくに弾を撃ち尽くしたハズの銃は、小刻みに震えながらもまだペルガモンに向けられていた。

(目がかすむ……頭を、狙ったのに…………!)

 フェルノーラだった。

 体内のミストを振り絞り、もはや指一本動かせない彼女は憎々しげに怨敵を睨みつけた。

「貴様かっ!?」

 怒りのままに突き出した手が閃電を放つ。

 真っ黒な蛇が空気中を駆け抜け、顔のない頭が大口を開けて鋭い牙を覗かせた。

 瞬きをする暇もなかった。

「あああぁぁぁっ!」

 近くにいたグランが咄嗟に彼女をシールドで包んだが、少女の体は雷に咬まれながら紙切れのように宙を舞った。

 蛇は獲物を丸呑みにせんとさらに彼女を追う。

 その牙が白い肌に食い込み、彼女は外壁に叩きつけられてそのまま地に落ちた。

「身の程知らずの愚か者めが……!」

 爬虫類のような目のペルガモンを見て、シェイドの体内を何かが駆け巡った。

 身を焦がすような熱と、凍てつくような冷気が小さな体躯を走り抜ける。

 この光景には見覚えがあった。

 ここに来るまでに何度も見た――人が人でなくなる瞬間。

 さっきまで歩き、話し、笑っていた人が、何もしなくなる瞬間。

 ここに来るまで――?

 いや、そうではない。

 ここにいる理由だ。

 彼ははっきりと思いだした。

 母の死。

 幼馴染みの死。

 自分から何もかもを奪ったのは、目の前にいる、この男ではないか。

(そうだ…………)

 なぜ恐れなければならない?

 なぜ怯えなければならない?

 自分はいま、誰よりも恵まれている。

 無惨に殺された人々とはちがう。

 自分はまだ生きているではないか。

 だからこうして仕返しをする機会に恵まれているではないか。

「次はお前だ」

 そう言ったのはペルガモンか、それともシェイド自身か。

 明らかなのはこの少年が明確な殺意を抱き、それを実行することに一切の逡巡を捨て去ったことだ。

 彼の小さな両手がアメジスト色に輝いている。

 仄かに、力強く。

 その光と熱とを維持するために凝集されるミストが、目に見えるほどに濃度を増していく。

 ペルガモンは厭らしく笑み、ミストを操った。

 これまでと同じように。

 虫ケラのように葬り去ってきた尊い命と同じように。

 黒い濁流が凄まじい勢いで彼を呑み込み、吹き飛ばすハズだった。

「なん――?」

 そうはならなかった。

 黒い蛇がシェイドを噛み砕こうと口を開いたが、音もなく砕かれたのは蛇の顎のほうだった。

 まるで見えない壁に押し潰されるように、幾条もの閃電はその小さな体に触れる前に頭から消滅した。

「お前は僕から奪った……何もかも奪った……」

 シェイドはゆっくりと上げた右手をペルガモンに向けた。

 一瞬、辺りがアメジスト色に染まった。

 目も眩むような閃光、続いて咆哮。

 雄叫びをあげながら、プラトウの空を翔けたのと同じドラゴンがペルガモン目がけて滑空した。

 ミストの凝集を感じていた彼は咄嗟にシールドを張った。

 赤と黒が混じった混沌色の膜が彼を包み込む。

 だがドラゴンがそれを乱暴に噛み割った。

「なんだ貴様はっ!?」

 彼は血走った目で少年を睥睨し、両手を突き出した。

 途端、解き放たれた黒い大蛇が迫るドラゴンの首に噛みついた。

 二人のミストは螺旋を描きながら空気に溶けて消滅した。

 しかしすぐにシェイドの五指からアメジスト色に輝く閃電が伸びた。

 ペルガモンも閃電を放った。

 怒りと憎悪と殺意とがぐちゃぐちゃに入り乱れた雷が、互いに絡み合い、咬み合い、決して混ざり合うことなく、互いを喰い合う。

 黒い大蛇が吠え、アメジストの閃電を呑み込もうと迫る。

 しかしそれより先にシェイドの稲妻がその頭部を叩き潰した。

「返せっ! 母さんを……ソーマを……! みんなを返せえぇぇっっ!」

 シェイドは激昂した。

 全身の震えは今や怒りによるものだ。

 感じていた恐怖は殺意へと転じ、たったひとつの目的のために全ての力を注ぎ込む。

 ペルガモンがさらに閃電を撃ち出す。

 互いのちょうど真ん中で競り合う稲妻が、大蛇の咆哮によって均衡を崩した。

 黒い濁流がひときわ大きくうねり、アメジストの輝きを漆黒に染め上げていく。

 行き場を失ったエネルギーが枝のように分かれ、地面に突き刺さる。

 それでもなお発散しきれない雷が外壁を砕き、ドールの残骸を粉砕し、数条は天に昇った。

 大蛇はアメジストを噛みながら迫った。

「死ねっ! 愚かな叛乱者め!」

 ペルガモンは嗤った。

 さあ、噛み砕け! 引き裂け! 蹂躙しろ!

 大蛇が大口を開けた。

 それが再び閉じられた時、全てが終わる。

「お、おお…………!?」

 しかし一瞬後、勝利を確信した厭らしい笑みが、驚愕に引き攣る。

(何だ、この感覚は――?)

 ペルガモンは指先に強烈な痺れを感じた。

 堪らず彼は一歩踏み出した。

 自分の意思で、ではない。

 そうしようと思う前にさらに二歩、三歩と前に出ていた。

(吸い寄せられている……っ!?)

 そう感じた時、彼はとんでもない思いちがいをしていることに気付いた。

 確信した勝利が比喩ではなく、音を立てて崩れ落ちた。

「貴様、何をした!?」

 漆黒の濁流はシェイドの手首に絡みついている。

 だがそれはペルガモンの力が勝っているからではない。

「いや、何をしているんだっ!?」

 体勢を崩しそうになり、さらに一歩を踏み出してかろうじて留まる。

 彼にはもう、それしかできなかった。

 黒い大蛇は彼の意思とは関係なく放たれていたのだ。

 シェイドの栗色の瞳がアメジスト色に輝いた。

 ペルガモンは強い力に背中を押されたように――実際は引っ張られて――前のめりに倒れそうになる。

(こ……こんな、ことが……!)

 黒い大蛇は彼に向かっているのではなく、彼に引き寄せられていた。

 ペルガモンの体内から大量のミストが流出する。

 アメジスト色の閃電を通じて、黒い閃電を通じてシェイドは、この暴君から力の全てを奪い尽くそうとしていた。

 ペルガモンは伸ばした手を引き戻そうとした。

 しかしこれは滑稽な悪足掻きにしかならない。

 シェイドを殺そうとすればその力を奪われ、攻撃の手を緩めればたちまち閃電に焼き尽くされる。

「オオオオォォォォッッ!」

 ペルガモンは絶叫した。

 痩せ細った蛇が糸くずほどの尾を残し、シェイドの体の中に呑み込まれた。

 あとにはもう、何も残らない。

 何も残してはくれなかった。

 彼は指先に力を込めた。

 だが何も起こらない。

(まさか…………?)

 ペルガモンは自分の手を見た。

 そして漠然と予感していたことを理解する。

 ミストの枯渇など最初で最期の経験だ。

 もはやこの手は種火を熾すことすらできはしない。

 気付けば彼は後ずさっていた。

 時間さえあれば空気中のミストを取り込むことができる。

 それを待たずとも周囲のミストをかき集めて魔法を行使することは可能ではある。

 しかしそれを待ってくれるほどのお人好しは、ここにはいない。

 そのための時間稼ぎをしてくれる手勢も潰滅している。

 彼は生まれて初めて恐怖した。

 同時に感じる、敗北と死。

 反対にシェイドはこれまで味わったことのない満腹感に若干の吐き気を覚えた。

 厖大なミストを取り込んだことで感じる、体内から圧迫されるような息苦しさ。

 それも間もなく溢れる力ゆえと理解し、万能感に浸り、クライダードとしての誇りに酔うハズだった。

 が、この少年にあるのは復讐心と、それを支える殺意のみである。

 項垂れ、ぼんやりと視界に映る地面に影が落ちた。

「わしを、殺すのか? この国を、乗っ取ろうというのか……?」

 見上げた時、目の前にいる少年には表情がなかった。

 いつもの彼なら躊躇っただろう。

 無抵抗の、武器を持たない相手に容赦のない一撃を加えられるような攻撃的な性格に、彼の母は育てなかったからだ。

 幼馴染みが評したように底抜けのお人好しとして、その手を引いたかもしれない。

 少年は何も言わなかった。

 小さな手が炎を纏い、燃え尽きたハズのドラゴンが蘇る。

 炎の渦は天高く飛翔し、一度だけ咆哮すると下に向かって真っすぐに飛んだ。

 ペルガモンはその様を眺めていた。

 拝むように、縋るように伸ばした両手は、何をも掴むこともなく、彼はアメジストの濁流に呑み込まれた。

 凄まじいエネルギーの波が老獪を中空に巻き上げ、そして――。

 熱いとも痛いとも感じる暇もなく、彼は炎に焼かれた。

 初めての敗北は死だった。

 だが暴君にはあまりに優し過ぎる最期だった。

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