アフター
二人が歩む、二人で歩む道。
あれから一月が過ぎた。
3年以上にも及ぶ遠回りの末、見事に恋は成就し、お互い忙しい中でそれなりに充実した恋人ライフを満喫していた。
『じゃあ、気をつけてな』
『ええ。約束は守ってね?』
『もちろん、忘れてないよ』
「……」
そして今日は、アイツが引っ越す日だ。
午前10時を少し回った頃、やけに隣が騒がしいことに気がついた。
「……なんだってんだ?」
換気をしようと窓を開けなかったら、気がつかなかったかもしれない。
ベランダから件の部屋を覗き込む。いや、流石にそれはマズくないか?
「確か、ちょっと前に引っ越しで空きができたって」
そういう話を母さんから聞いていた。
じゃあ今日、たった今、その引っ越し作業が行われているってことかな。
少し気になるが、邪魔をするわけにもいかない。
『これはどちらに?』
『あ、そこでお願いします』
『えーっと、この辺ですかね……?』
『
「はあっ!?」
微睡みの中にいた頭を急速フル稼働させる。
今、なんて言った?
「女の人、Neinって、——————まさか!!」
廊下を走り抜けて玄関へ。靴を上手く履けないことにモヤモヤして、思い切りドアを開けた。
「あ、はい。そこで――――――えっ?」
微笑を称えていたその表情が、驚愕の色に、そして俺を目にした瞬間、安堵の表情へと変わる。
「——————秋仁」
安堵から笑顔に。再開を懐かしむように、俺の反応を楽しむように。
そして、最愛の人に会えた嬉しさを表現するように。
***
『もう行っていい?』
緊張しながらメッセージを送る。
たった一行、数文字送るだけでも、未だに緊張する。
慣れる気がしないのは、たぶん今だけだろう。
「あっ」
すぐに既読がついた。たったそれだけのことが、なんだか嬉しい。
毎日、些細な嬉しさを発見している。
『あと10分待ってね』
そうして10分後。
ポン、と携帯が鳴る。
それだけのことに、やっぱり心が躍る。
「……」
ドクン、ドクン、と荒い拍動を繰り返す心臓に、深呼吸をして落ち着かせ、メッセージアプリを開く。
『もういいわよ』
そうして例のスタンプが送られてくる。
俺は『OKアライグマ』と呼んでいる。
『了解です』
俺もスタンプを送り返す。
通称『OKライオンくん』。くん付けなのは彼女が命名したからだ。
「……うん?」
アプリを閉じようとして、もう一度携帯が振動した。
『アライグマくんが食べられてしまうわ。可哀想よ……』
しょんぼりしたアライグマのスタンプも一緒に送られてくる。
「……ははっ」
そんな反応をする彼女を可愛く思って、俺は愛しいお隣さんの元へ向かった。
***
「お邪魔します」
「ええ。ようこそ」
一人で暮らす分には申し分ない、いや、少し大きい間取り。
インテリアや家具も、必要最低限のものばかり。これはまあ仕方ないか。
「あら、そんなに珍しいかしら?」
周囲を観察している俺を、彼女は珍しそうに見ている。
「後で、必要なもの買いに行こうか」
「え? ……あ、うん。あなたは時間大丈夫なの?」
「暇じゃなかったら来てないって」
「それもそうね。あ、そこに座って。飲み物は何がいいかしら?」
春海は台所へ向かう。ピンクのエプロンに身を包んだその姿は、いつもの彼女とは違って見えて、なんだか新鮮だった。
「コーヒーで」
「砂糖とミルクは?」
「お願いするよ。俺、ブラック苦手で」
俺がそう言うと彼女はおかしそうに笑う。
「なんだよ、悪いのか?」
「
「……っ」
そんな言葉が飛び出てくるとは思いもせず、思わず赤面する。
「やっぱり、可愛いわね」
「う……」
その後も、俺は春海にイジられ続けた。
***
流石はインテリア専門店だ。既にカーテンの品揃えの凄さに圧倒されている。
色とりどりに柄も沢山あって、目がチカチカして来た。
そんな俺とは対照的に、春海は神妙な面持ちでカーテンたちを品定め中。
「カーテンって、どんな色が良いのかしら? 柄も……花柄って、狙いすぎかしら?」
「うーん、春海に合ってるかっていうと微妙だな。シンプルな奴でいいと思うんだが」
俺がそう言うと、彼女はチッチッと舌を鳴らす。
「
厚手の生地のドレープカーテンと薄手のレースカーテンから成るダブルカーテン。
上で巻き上げるように使うロールスクリーン。
ブラインドに、プリーツスクリーン。etc.」
「お、おう……」
彼女の知識には圧倒されるばかりだ。それも嫌味ったらしくは無く、諭すように語るので小気味良い。
「っと、ごめんなさい。熱く語り過ぎたわね」
「別に気にしてないよ。それにしても、よくそんなに知ってるな?」
彼女は苦笑する。
「別に大したことじゃないのよ? 書いている時に必要に応じて調べて、それを今も覚えているってだけなんだから。……私達の知っていることなんて、本当に限られたごく一部分、氷山の一角の、そのまた一角でしかないんだから」
「流石は、夢原春海、大先生だな」
俺が肩をポンと叩きながらそう言うと、彼女がハッと何かを思い出したように体を震わせた。
「春海、どうかした?」
「え? あー、うん。……帰ってから話すわね」
***
「うーん、重い……」
そろそろ右腕が千切れそうだ。彼女の方も食材の入ったエコバッグで両手が塞がっているため、助けを求めることは出来ない。
「……もう少し。ほら、見えてきたわ」
彼女は両手が塞がっているのに器用に鍵を開けて、俺が先に入る。
荷物を降ろし、両手を解放したところですかさず彼女の元へ向かう。
「はい、持つよ」
「リビングまで数メートルしか無いのに。……ふふっ。でも、ありがとう。お言葉に甘えるわね」
そう言って袋を一つ貰う。男の俺でもずっしりと重い。中にはカレーの材料がぎっしりと。
「……ん?」
明らかに一人で食べる分量じゃない。
ということは……。
「ちょうどいい時間だから、お昼にしない? 秋仁、一緒に食べましょう」
ほら来た。やっぱりだ。
「もちろん。喜んで」
俺に断る理由なんて、あるはずないから。
***
昼食のカレーに舌鼓を打ち、家の内装の作業を一通り終えた後、春海が海に行きたいと言い出したので電車で海を目指すことに。
着いた頃には既に日も暮れ、辺りには俺たちしかいなかった。
「ペンネームを変えるって話が出てるの」
初耳だ。公募に応募していた時に使用していたペンネームは学生時代からずっと使っていたものだったから、一抹の寂しさを感じずにはいられない。
「何にするんだ?」
潮風に横髪が揺れる。
彼女は答えない。
その代わり彼女の視線は、今は暗く曖昧になった水平線の彼方に向けられていた。
海は、月を映す鏡だと誰かが言っていた。
あの水平線はきっと、春海の心を映す鏡なんだろう。
「……決めたわ。
「……海原ハルか。あれ? 春海の名前の、『夢』の字は?」
「……うん、読者に委ねたわ」
「読者に?」
「──────私ね、あなたに出会って、ようやくハッキリ見えたの」
「俺に出会って?」
「ええ。私、読者に夢を見せられる小説家になりたいの。だから、『夢』は読者の人達にあげるのよ」
春海はゆっくり目を閉じて、胸に手を当て、自分の胸に刻み込む様に。
「私という夜空に輝く、色んな人達。お父さん、お母さん。クイズ研究会のみんな。編集の山城さん。
そして、一番星のあなた。
……全ての人に、ありがとうの気持ちを込めて、そして未だ見ぬ読者というお星様のために、私は書きたいの」
自分を取り巻く人々への感謝と、これからの夢を口にした。
やはり、彼女の紡ぎ上げる言葉は綺麗だ。
だから、俺も負けてはいられない。
「……俺、ずっと迷ってたんだ。作家目指すか、出版業界に入るか、全く別の道を行くか。専業で作家やってる人なんてごく僅かだし、余りにもリスキーだし。そう言うのもあるんだけど、さ。現実は甘くないんだろうけど、出版社、目指してみようかなって」
「出版社、目指すの……?」
「うん。色々悩んだんだけど、これしか思いつかなくて。そこで、頑張ってみたい」
それ以外の言葉はうまく出て来なかった。
きっと九割九部、一喝モノだろう。みんなから怒られるかもしれないし、きっと彼女からも――――――
「そっかぁ。うん、そうよね。あなたの行く道、見つけたのね」
俺のその格好つかない、決まらない決意表明を誇らしげに胸を張り、頷いていた。
「怒らない、のか? だって、倍率メチャクチャ高いんだぞ、あの業界」
「それなら私の方が怒られて然るべき、でしょ? ……怒らないわよ。あなたの夢だもの」
そう言って指を絡めてくる。
その手は少し冷たかった。
「正直、不安なのよ。どこまで私の世界が通用するのか分からない。相手は私達のような一般人でしょう?」
「春海はもう一般人じゃないだろ?」
「物の例えよ。私の紡いだ文字が、単語が、文章が……キチンと届くのかなって」
「——————届くよ」
「え?」
目を白黒させる春海の手を、もう一度しっかりと握り直す。
大丈夫だ、とその手を通して、俺の手の熱を伝えるように。
「俺は、春海の世界一のファンだ。誰が何と言おうと、これだけは譲れない。その俺が言うんだ。きっと届くよ」
「……っ」
彼女が息を呑む。
その横顔を覗き見ると、一筋の雫が頬を伝っていた。
まるであの日の様に。彼女は宝石の様に美しい涙を流していた。
「わたし、あなたに泣かされてばっかり……」
手で拭っても止まらない涙。その涙で濡れた顔を隠すように、俺は彼女を抱き寄せる。
「……ねえ」
「ん?」
「私が良いって言うまで、このままでいさせて」
「うん。いいよ」
そうして俺たちは、永遠に感じられた一時間もの間、ただ静かに抱き合った。
ただお互いの温もりを感じながら、黄金の月を眺めて。
好きだと告白した、あの日の様に。
俺の脳内では、『愛の夢』が流れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます