あと一歩が踏み出せなくて

今度は俺が、彼女について語る番だろう。


夢原春海ゆめはらはるみ

今でも時々会うようになったその関係の始まりは、高校一年生の春に遡る。


***


光を遮るように、カーテンを閉める。

私物のノートパソコンに電源を入れて、ワープロソフトを起動した。

「……ふぅ」

学校に自分のパソコンを持ってくるバカなど自分だけだ。

そう思っていた。

「……ん?」

カタカタ、カタカタ。

外からキーを入力する音が聞こえてきた。

多分、別の教室からだろう。

「妙だな」

つい最近始まった情報リテラシーとやらの授業ですら、パソコンを使用するような課題は出されていないはず。

第一、パソコンは不要物とみなされるから、俺のようなバカでない限りは持ってこないのが普通だ。

「……どれ、覗きに行くか」

パソコンにロックを掛け、教室を出る。

その音の出所は、俺の教室からさらにもう一つ部屋を挟んだ向こうから出ていた。

札は『1-4』。

窓から覗き込んでみると、そこにはやっぱり人がいた。

「女の子だ」

放課後に一人で残ってて、パソコンを使ってるっていうのは俺と同じ趣味なのかも。

そんな都合の良いことを考えて、ドアをそーっと開いた。

彼女の手の動きが止まる。そしてその子は吐息を漏らすみたいに呟いた。

「——————誰?」

耳が痛いほどの静寂に包まれた教室は、その音量でもハッキリと声が届く。

「何やってんだ? パソコン、持って来ちゃマズイだろう」

「だから? 私があなたにそれで何か迷惑をかけたかしら?」

「いや、別に。ただ音がしたから、気になって」

「普通なら聞こえないはずなんだけど、耳が良いのね」

彼女の態度はなんだか素っ気ない。別に友好的に接してくれとまで言うつもりはないが。

「名前、なんて言うんだ?」

「いきなり何なの? ナンパ? 気持ち悪いわね」

それは明確な拒絶だった。

俺は捻くれた人間なので、こういうのとは無理に関わらないようにしている。

でも、なんだか勝手に抱いている親近感がそれを妨げた。

「ごめん。聞いた本人が名乗らないのは失礼だったよな。……神野秋仁じんのあきひとだ」

「……だから、私はあなたに興味ないわ」

「書いてるの、小説だろ?」

「だから何度も言わせ――――――え?」

今まで画面にしか顔を向けていなかった少女が、俺の方を振り返る。

「書いてるの、あなた……」

「興味、あるか?」

俺の言葉に彼女は苦虫を噛み潰したような顔をして、ゆっくりと頷いた。

「そっか。じゃあ、パソコン取ってくる」

そう言って教室を後にしようとしたその時だった。

「夢原、春海……」

「え?」

「それが、私の名前。……聞き返しとか、ナシだから」

そう言って、顔をもとに戻してしまう。

「……」

思わぬ出来事に停止した思考を強引に動かす。

まずはパソコンを持って来よう。

踏み出した一歩は、自分でも驚くほど軽く、力強く。

その去り際に、俺はこう言った。

「……良い名前だな」

仲間ができた喜びを胸に、俺は元来た道を引き返した。


***


「そんなことも、あったわね」

春海は頬を朱に染めながら、また顔を隠すように膝で隠す。

そんな彼女を見ながら、ふと思い返す。


『——————まだ、終わりじゃない。だから、ね。……あ、秋仁っ』


少し恥ずかしそうに差し出すその手は、震えていた。

でも、不思議と暖かい気持ちにさせてくれる、そんな手だった。

俺は驚きのあまり、目を見開いた。


『——————春海、お前、今なんて』


俺の問いかけは、聴衆の歓声にかき消されて。

そうだ。俺と彼女を語るには、これは外せない。

2年生の、文化祭。その際に起きた出来事を。


***


『大正解!! 決勝進出です!』

正解音が聴衆で半分を埋め尽くした教室に鳴り響く。

クイズ研究会四天王なる集団の猛者たちを3人まで打ち倒し、残りは部長の島崎ただ一人。

このクイズ研究会なる集団を構成するのは、男子4人、女子1人の計五人。

研究会唯一の女子、橋本さんは、外の待機列の整備の仕事に当たっていた。


「つ、疲れる……」

ギリギリまで神経を研ぎ済ませた反動か、頭が悲鳴を上げていた。

思わず床にへたり込む俺に気がついたのか、彼女は数秒間逡巡し、そうして意を決したような顔で、俺に――――――


手を差し出した。


「——————まだ、終わりじゃない。だから、ね。……あ、秋仁っ」


「……っ」

心臓が一際ドクンと跳ねて、さらに小刻みに、拍動は痛いぐらいにどんどん速さを増していく。


「——————春海、お前、今なんて」


尋ねた俺の声は、ひどく弱々しく、掠れていて。

聴衆の歓声と、スピーカーから発しているアナウンスの声がかき消してしまう。

その中で俺が分かったのは。


彼女が頬を赤らめて、恥ずかしそうに、でも勇気を振り絞って俺に手を伸ばしてくれていた。ただ、それだけ。

でも、十分過ぎる。


「——————」

その手を、しっかりと掴んで、彼女のその表情から垣間見える想いを受け取って立ち上がった。

「……っ」

彼女の顔が、笑顔でくしゃっとなった。

その笑顔は間違いなく、俺が今まで春海と過ごしてきた中で、最高の笑顔だった。


***


「——————終わった、わね」

「ん? ああ、終わったな……」

俺も、彼女も。その声音はひどく困憊していた。

10問先取で、10-3。紛うことなき惨敗だった。

それでも、心地よい疲労感と。

そして、不思議な暖かさが、俺の胸をいっぱいにした。

「……さっきは、ごめんなさい」

その声は沈んでいた。彼女は何も、悪いことなんて、してないのに。

その謝罪が何を意味するのか、それが分からないほど、俺は朴念仁でも何でもない。

「気にするな。こっちが余計に恥ずかしくなる」

「そうよね。っ、——————あの、ね?」

春海が何か覚悟を決めたように、俺に話しかけてくる。

俺は何も言わず、静かに頷いた。

「秋仁って、呼んでもいい?」

「うん」

俺は、今微かに浮かんできた一つの想いを胸に、ゆっくりと頷いた。

「秋仁っ」

「うん」

心の霧が晴れたかの様に、春海が何度も俺の名前を呼ぶ。

やっぱり少し気恥ずかしくなって俯いた。


***


「——————」

今になって思い返せば、ヒントは随所に散らばっていた。

ふと目が合ったり、何かと思えば急にソワソワしだしたり。

最初はあれほど嫌がっていたクイズも、気がつけば一緒に出し合う仲に。

そして研究会との勝負も、あと一歩のところまで行った。

放課後も嫌々下校していたのに、いつしかそれが自然になっていった。

俺が変わったのではなく、彼女が変わったんだ。


最初は彼女に対する嫉妬の方が大きかった。

それは紛れも無い事実。

その稀有な才能に、嫉妬していた。

でもあの日、あの一文を見たとき、その認識は根底から覆った。


純粋な、綺麗な想いで紡がれた宝石のようなそれは俺の胸を打った。

そして溢れ出す宝石のような涙も、俺に見せてくれる喜怒哀楽も。

そのすべてに惹かれ、気がつけば彼女の一挙手一投足を目で追うようになっていた。


そうか。


俺、春海のことが、好きなんだ。


それを今になって、ようやく自覚した。

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