第九話 「天竺葵」
鈴の意識が戻ったのは明け方のことだった。
ピクリと瞼が動くと、ゆっくりと開かれる。
「やっと起きたか」
「……あ……」
そこで膝枕されていることに気が付き、頭を上げた。
茜は立ち上がると大きく背伸びをする。
「さて、と。それじゃあそろそろ行くわ」
何の気なしにそう告げる。
「……そう」
鈴の反応もまた、淡白なものだった。
「なんだ、止めねぇのか?」
「……止めたとして、あなたは言うことを聞くのかしら?」
「そりゃあ……、ないな」
一瞬考えると、あっけらかんと笑った。
「……なら、行きなさい。場所は分かってるでしょ?」
「あぁ。それじゃあ、これでサヨナラってことか」
その言葉に幾つかの意味が含まれていた。
それでも、静かに「そうね」とだけ答える。
空が僅かに明るくなる。ほんの少しだけ町に音が戻っていく。
「……今更だけど、これを」
そう言うと鈴はポケットからそれを取り出した。
それを見た途端、茜の表情が変わった。
「──オマエ、なんでこれを」
「……彼女が死んだ場所で拾ったの。ずっと、渡しそびれてたけれど」
「……そっか。アイツ、まだこれを持ってたのか……」
「……私の知る限り、それを手放していたことは一度もなかったわ。どんな時も彼女はそれを肩身離さず持っていた」
「……ったく、なんだよ。それならそうだと言ってくれたらいいのに」
鈴から受け取ると、しみじみと茜が呟いた。
「……遅くなってごめんなさい」
「いいさ。アイツがこれを持ってた。それが知れただけ良かったよ」
そう言うと袖で両目を強くこすった・
「ありがとな。それと、ずっと誤解してて悪かった」
「……別にいいわ。そう思われる態度をとってたわけだし」
そう言われ、茜はふっと笑った。鈴もまた小さく笑う。
「んじゃ、またな」
「……ええ。また」
最後の言葉は呆気なく。
茜はその場を後にし、その背中を鈴は静かに見送ったのだった。
その背中が完全に見えなくなってから、鈴はおもむろにこう言った。
「……それで、気は済んだかしら?」
「そう邪険にしないでよ。盗み聞きしたのは謝るからさ」
物陰から姿を現した銀はいつも通りの口調で謝罪を口にした。
鈴は敢えて無視をすると、再度問うた。
「……何か用?」
「いや、実に面白いなと思ってさ」
「……は?」
一瞬にして空気が変わる。近くで休んでいた鳥たちが慌ただしく飛び去った。
そんな空気に当てられても、銀の口調はのんびりとしたものだった。
「時間遡行。同じ時間を何度も繰り返し、真を救おうと戦い続けた。そんな存在は極めて珍しいと思ってね」
「……そう」
「そして、恐らく君は自分の力を勘違いしているね」
「…………え?」
嫌な予感がした。
聞いてはいけないと、本能がそう訴えている。
「君の能力は時間を巻き戻すことではないってことさ」
「……どういう、こと?」
どうにか平静を保ちながら鈴はそう尋ねる。
「恐らく君の力は切断と複製。それも時間と言う概念にも作用できる極めて強力な代物さ。それを君は時間を巻き戻す力と勘違いしていた。まぁやっていることを鑑みると無理はないけどね」
でも、そうだとすると君の話に辻褄が合う、と銀は言う。
「君は何度も時間を繰り返した。何度も繰り返して、何度も同じ結末に辿り着いた。でもそれだとおかしいんだよ?時間を巻き戻すと言うことは、戻った地点から分岐した別の未来に行ってもおかしくない。必ず真が死ぬことは本来無数にある可能性の一つに過ぎないはずなんだ」
現在という一点から未来は幾つにも分岐する。
それは先に進むほどに細かく分かれ、そこには予想すらしない未来だって存在する。
本来であればそういった未来に進んでもおかしくない。それなのに、鈴が繰り返した時間はどれも終わりが同じだった。
まるで、予めそう決まっているように──。
「でも、君の力が切断と複製だとしたら、君が真と知り合いその死に立ち会う、その一連の時間のみを切断し複製することで繰り返していたとしたら、君がいくら繰り返そうと結末は変わらない。なにせ既に彼が死ぬことで結末を迎える、一つの物語のような物だからね」
「……」
「なにより、この繰り返された時間は戻るのではなく一直線に続いているものだとしたら、真を含めた彼らの素養が皆高いことにも納得がいくんだ」
「……どうして?」
「君はもう知っていると思うけど、英雄の素養を高める一番の方法は親しい人物との死別。でもそれは味わう度にその鮮度は落ちてしまう。だけど、君の力が仮定通りの場合はその問題を解決している。なぜなら──」
「……誰も、繰り返していることを覚えていない」
鈴の答えに銀の表情がパッと明るくなる。
「そうなんだよ。誰一人として同じ時間を繰り返していることを知らない。違和感こそあっても、大概は違和感のままで片付いてしまう。普通は同じ時間を繰り返しているなんで思わないからね。だからこそ彼らは親しい人物を失う経験を、繰り返し何度も初めて味わい続けることができた」
銀にしては興奮さめならぬ様子で結論を出す。
「だからこそあの破格の才能を持つ存在が出来た。過剰なまでに運命の糸が彼らに与えられた状態なんだ。恐らく君の場合は経験していることを覚えているから、その恩恵が少ないうえに、体に相当な負荷がかかっている。その結果死ねない君の体が刻一刻と死に近づいている状態なのさ。その証拠が変わり果てたその姿だ」
「……それじゃあ……?」
「君の懸命の努力のおかげで史上最強の英雄が出来上がったのさ。そうしてそれは史上最強の敵に為る。世界を救う英雄が、世界を滅ぼす敵と為るわけだ。君が、真を育てたといって過言じゃない。これはね、人類史において誰一人として為し得ない快挙なんだよ!これだけでもこの世界に意味があったと言えるんだ!」
「…………そんな」
鈴は呆然と、力なく崩れ落ちた。
必ず救うと約束した。何度も血に塗れながら、それでも必死に戦い続けた。
その結果、約束した相手を苦しめていた。
その事実を受け止めるにはあまりに遅すぎた。
なぜなら、事態はどうすることもできない程に進んでしまっていて、
彼女の力は時間を戻すものではないから。
「君がどうしたとしても、”あれ”はもうすぐこの町に現れる」
それが最悪の敵であることは、言われずとも分かった。
「その時、僕たちは目にすることになるのさ。人類史最強の英雄をね」
「……そんなこと、私が許すとても?」
怨嗟に満ちた、低く昏い声だった。
銀はそうだね、と肯定でも否定でもない返事をすると、
「だけど今の君ではあれには勝つことはできない。それに、もうすぐ戦える英雄は君だけになる。そうなればせいぜい時間稼ぎが関の山だろうね」
聞き終えるや否や鈴は腰に備えていたナイフで銀の首筋を狙う。
銀はピクリとも動かず、その切っ先は見えない壁に防がれたかのように寸前で止まった。
そして彼女の全身に赤い模様が浮かび上がっていた。
──緊急防衛装置。
万が一英雄が彼らに危害を加えようとした際に起動する代物で、本来であればまず知ることのない隠されたシステムの一つだった。
「全く、君は知っているだろうに。どうであれ君たちでは僕は殺せない。そんなことを今更言われたくないだろう?それにこの国で腐っていない肉体を手に入れるのはすごく苦労するんだ。そんな簡単に壊されては困るんだよね」
苦悶の表情を浮かべる鈴を一瞥し、踵を返した。
その瞬間鈴の体から模様は消え、ばたりとその場に倒れ込んでしまう。
「さっき真と話したよ。いやはや彼も困惑していたね。流石の彼でも君の話は衝撃的だったようだ」
「……──まさか、彼をここに⁉」
「別に彼がここに来たわけじゃない。彼と僕の聴覚を一時的に繋いだに過ぎないし、どちらにせよ彼が望んだことだ。僕が責められる謂れはないね」
一切悪びれることなく銀は語る。
「彼は彼で思うことがあるみたいだろうけど、まぁ大丈夫だろうさ。なにせ結末は既に決まっている。だから気にせず戦うといいよ。必ず彼が助けに来てくれるんだから」
そう言って銀はその場を後にする。
泣き崩れる鈴を置いたまま。
茜は結局、何かするわけでもなく例の空間の入り口に来ていた。
場所は駅の傍にある小さな建物だ。ひび割れた壁にびっしりと覆われた蔦だけでろくに手入れされていないことが分かる。明け方とはいえ駅を利用する人はいるため、むしろここに移動してくれて助かった。
「さて、と……」
多分、アタシはここで死ぬ。鈴の話を聞いた限りアタシが最も死んでいたのは健治の死後、つまり今頃だった。それは敵と戦ってだったり、そうではなかったりするが、どちらにせよ死ぬタイミングはほぼ同じだった。だから鈴もアタシを止めなかった。きっとアイツもアタシがここで死ぬと思っているからだ。
ポケットから携帯を取り出し、閉まった。一応施設の人に連絡を入れようかと思ったが、時間が時間だったし、そもそも何を伝えればいいのかも分からない。
この敵は今まで戦った中で一番強い。それは昨日の時点で理解している。力は多少戻っているが、例え全回復していても勝てるかは微妙なとこだった。傷も一応塞いだがいつ開いてもおかしくない状況にある。力も万全とは程遠いものだった。
「行くか」
それでも、躊躇うことなく足を踏み入れる。
数歩進むと瞬く間に異世界にいた。
昔はこれも怖かったな、と茜は懐かしむ。初めの頃はとにかく全てが怖かったが、今となっては随分慣れたものだ。
特に警戒することなく足を進める。敵は空間を作ってまだ一日しか経ってない。経験からこの短時間で手下を辺りに侍らすことは難しいだろうし、なにより空間を作ってすぐに襲撃された以上、下手に人を襲ったりはしてないはずだ。
本棚でできた道は一直線に伸びていて、途中立ち止まると本棚に入っている本に触れてみた。大体に実体があり日本語で書かれていたが、どれも文章に抜けがあって読めたものじゃなかった。きっと健治の記憶を元に本を生成したのだろう。だからか目に入るだけでも同じ本が幾つも見て取れた。
その中の一冊、百ページもない薄い本を取り、パラパラとめくるがすぐに白紙になった。試しにページを数えると十七ページしかなく、書かれた所も文字化けしていて全く読めない。
嘆息すると元の位置に戻す。
「──来たか」
そう呟きアクセサリの錨を一つ手に握る。絡繰り仕掛けのように部屋が物凄い勢いで後方に流れていく。まるで勝手に前に進んでいるような錯覚に陥りつつも、茜はぼんやりと考えを巡らせていた。
敵の正体が英雄だということはさほどショックではなかった。元より多くの人を殺した茜にとって殺した数が増えた程度の話だったし、自分が殺される立場になっても仕方がないと思えた。
相手が健治だということに多少の負い目はあるが、それでも無視はできない。この状況を生み出したのは他でもないアタシ自身だし、その責任はアタシが取るべきだと思う。
最後に、残した人たちの顔が思い浮かんだ。真と鈴が気がかりだが、どうにかなるだろうと結論を下した。伝えたいことは伝えたつもりだ。その先はアタシがどうこうすることではない。同じ道を歩くことはできない。
そして、道が終わり、扉が勝手に開かれる。熱気が頬を叩いた。そこは昨日とまるで変わっていなかった。空を飛ぶ天使は変わらずそこにおり、その中心にそれはいた。黒曜石でできた彫刻のような姿は、昔見た銅像にどこか似ている気がする。部屋は燃え、煙は抜け落ちた天井を通り消えていく。奥にあるスタンドガラスもまたその姿を保っていた。
思いっきり息を吸い込む。熱せられた空気が胸の奥の何かに点火した。
「さぁて、いっちょやってやるかァァ‼‼」
錨を槍状に変化させ、構え叫ぶ。
敵が茜を認識し、攻撃を開始する。
降り注ぐは巨大な十字架。さながらゲリラ豪雨のようなそれを潜り抜け、撃ち落とし、躱していく。無傷とはいかないものの、第一波をどうにかしのいでみせた。
「おらぁぁぁぁああああ‼‼」
宙に飛び槍を本体に振り下ろす。だが天使の一体が割って入った。手ごたえこそあるが、本体には届かない。
その一瞬の硬直を敵は見逃さなかった。空中にいる茜めがけて十字架を放つ。
茜は手にある槍を円盤状に変化させ、足場にして回避する。だが十字架の一つがわき腹を掠め、塞がっていた傷口が開いた。痛みに顔をしかめつつも両手に一つずつ錨を握りそれらの大きさに変化させると、再度突っ込む。
再びの雨。それも先ほどよりも強く、完全には躱しきれない。
「──チッ‼」
舌打ちし本体への攻撃を一旦諦め、標的を周りの天使に変更する。手下自体はさほど強くはないが、倒しても倒しても新たに天使が降ってくるため数が減らない。それに、いくら強くないとはいえ数が尋常じゃない。目に見える範囲で五十はいる。
「……やべぇな」
勝ち目が見えてこない。既に全身には初戦の時と同じくらい、いやそれ以上の傷を負っていた。敵の底はまるで見えず、弄ばれていると思えてしまうほどに余裕がある。事実敵の本体は一度も動いていない。
「ったく、なんでこんなことしてんだか」
事態を把握すると途端に目が覚めた心地になった。
そもそも、この敵を倒す必要はない。茜のテリトリーは隣の町なのだから、今放置していても何も問題はない。
なにより責任だとか、義務なんて知ったことではない。第一そんなものを掲げるほど真っ当な性格をしていない。
なら、どうしてこんなことをしているのか。
「どっかで、諦めきれてなかったんかもな……」
迫る十字架をどうにか防ぐ。
だが、勢いを殺しきれず後ろへと吹き飛ばされる。
「ガハッ……!」
壁にぶつかり、息が詰まった。一瞬、意識が遠のく。
──健治の姿はかつての自分を見ているようで気分が悪かった。正義だとか、誰かのためだとか、そんなものを掲げて戦うことに意味なんてない。実際、最後は敵に堕ちた。
それでも、その在り方は否定したくなかった。できなかった。だってそれは、昔のアタシを否定することになるから。
古い考え方に固執すれば、やがて破滅が訪れる。アタシはそう思って、そんな道を歩んで逝った人を大勢見送った。そんな姿を見て、何度も自分の考えを改めた。
でも、健治と出会い、変わらない強さがあることをアタシは知った。
「──だから、テメェだけは許さねぇ。どんな目に遭ってもアタシと同じ道を選ばない、そんな強さを持つテメェが、敵として在ることだけは、ぜってぇに許せねぇんだ‼」
フラフラと立ち上がりながら飛来する十字架を全て弾き飛ばす。
全身が軋むように痛む。傷口が広がり血が溢れる。
それなのに、振るう槍の鋭さは増していた。
「そうさ、簡単な話だ。気に食わねぇんだよ。アタシが認めたテメェに、アタシが捨てたモン抱えて戦い抜いたテメェにだけは、ぜってぇに負けたくねぇんだ‼‼」
口の中が血の味で満ちる。
視界が霞み、錆びた鉄の匂いが鼻に広がる。
手足の感覚が鈍く、力が上手く入らない。
それでも力を振り絞り、瞼を閉じると、意識の奥底に眠るそれを引きずり出す。
──茜がそれを使わなかったのには幾つの理由がある。
一つは戒めとして封印していたため。それは大切な人を失った忌々しい力で、そうである以上使おうとは思えなかった。
もう一つはその性質。それは現実にあるものではないと作用しない。空間にあるものや敵に対しては適用しないため、媒介となるものを持ち込まないといけない。
「────ッ‼」
飛来する十字架や全身に走る激痛を無視して何かを放る。それは腰に提げていた錨のペンラントだった。鎖でつながれたそれを思いっきり投げる。
弧を描くそれは本体の上空へ弧を描き飛んでいく。そして真上に着いた瞬間手をかざし渾身の力を込めた。
ガガガンッ‼‼‼‼と鈍い音が響く。
それは巨大な錨だった。
先端は地面に突き刺さり、手下の天使諸共貫いている。
茜は間髪入れずに再度力を込める。それに呼応するかのように地面が光る。
それは茜が戦っている最中に撒き散らした彼女の血だった。
地面から現れた錨が再び敵を貫く。最初の攻撃で身動きの取れない敵は為すすべもなくその攻撃を受けるしかなかった。
「…………くそったれが」
だが、茜はそれを見届けることはできず、
電池が切れたようにその場に倒れた。
(相変わらず、燃費が悪いんだよなぁ……)
うつぶせになりながら、茜はぼんやりとそう思う。
茜の得た力は現実にある物質を空想の物質に変化させる、というものだ。確かに強力で応用の幅が広いが、仕組みの難解さと力の消費量が欠点だった。元の物質とは別の物質や、本来より大きな物に変化させる際恐ろしいほど力を消費してしまう。錨の形をしたものが媒介の場合はある程度消費を抑えられるが、それでもこのサイズとなると話は違ってくる。
そしてそれは、最期の一押しとしては充分だった。
(死ぬ、のか……)
全身が痛いのにやけに体が寒い。それでも体は震えることなく、むしろ心地よい眠気をもたらしてくる。
すると不可解なことが起きた。指先が花びらとなり散り始めたのだ。それは四肢、両方の手足で起こっているのがなんとなく理解できた。
(どっちにせよ、死に際は同じってか……)
胸に提げたペンラントは変わらずそこにある。胴体が最後で良かったと思う。
ふと思えば色々と無茶をしてきたものだ。それこそ死んでもおかしくない状況を、毎度どうにか乗り越えてきた。だが、今回ばかりはどうにもならないらしく、
今更それが少しだけ悔しかった。
(ま……しかた……ない……かな……)
結局健治との勝負に勝ったのか負けたのか、それが分からないことだけが気がかりで、どうでもいいか、と笑うとその瞼を閉ざした。
そして何事もなかったかのように一日が始まる。
穏やかで、優しい日の出と共に。
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