第八話 「暗転」
父親のことを、自分は何も覚えていない。
物心ついたころにはいないことが当たり前になっていた。自分が生まれて間もなく離婚して、父親は既に別の家で父親をしていると、小学校に上がる頃にそう教わった。
自分にはその意味がよく分からなかった。だから授業参観で家族の作文を読んだ時、そのことを話した。クラスで笑いが起こった時、何が起こったのかよく分からなかったのを今でも覚えている。
その日の夜に母親に叱られた。なんであんなことをしたのだと、頬を叩かれた。
あの時、あの瞬間、きっと自分には味方はいないのだと悟った。世界全ての物が敵なのだと、幼いながらそう思った。
だから歯向かい続けた。からかう同級生も、知っていて心配してくる先生も、自分の事を見て噂話する親たちも、全てに立ち向かい、ありったけの想いで憎み続けた。
真とはこの頃に出会った。自分と同じように虐められているのが気に食わなくて、思わず手を出していた。
「ありがとう」と真は笑った。どうして笑っていられるのか理解できなかった。そして抗おうとしない真が嫌いでたまらなかった。
だけど、真にも母親がいないことを知った。
初めて、同じ境遇の人と出会った。
その時になって分かったのだ。あれは真なりの抗い方だったということを。
そして、そういう強さがあることを、この時初めて知ったのだ。
凄いと、幼いながらそう思った。
自分の知っている誰よりも強いと思った。
そんな真に、幼い自分は憧れたのだった。
時間は流れ、お互い性格も環境も変わった。それでも常に隣には真がいた。どんな時だって傍に居続けてくれた。
その有り難さを一人になって知った。
それがどれだけ幸せなことだということも。
大切な人を苦しめた連中を殺し続け、最後の一人を殺した。
それでも、残ったのは無数に積み重なった後悔と、血で汚れた両手だけだった。
「俺も、そんな風に生きたかった」
昔、形からと直したはずの一人称が思わず出ていた。それがおかしくて、酷く悲しかった。もう二度と、これを真に聞かせることがないのだから。
ついでと言ったら怒るだろうけど、黒斗にも悪いことをした。真の目を盗んでは何度も相談に乗ってくれた。それこそ真には言えないことを何度も話した。それをあいつは一度も笑ったことはなかった。真剣に、黒斗にしては真面目に聞いてくれた。
一度だけ、深夜に歩き回る黒斗の姿を見た。携帯を片手に、道行く人に画面を見していた。そこに映っているのが自分の顔だと知った時は思わず泣きそうになった。
そして、茜と話す真の姿を駅で見かけた。それなら、また駅に来るだろう。
敵になったら、茜に殺されたいと思った。誰よりも、茜の実力を知っているから。
「ごめん」
たった一言。それだけなのに最期まで言えなかった。大切な人を傷つけたこの口では、言うのは余りにも難しかった。
結局、最期も後悔だけが残った。
憧れにもう手が届いていると、彼だけは知らないまま。
駅についた真はホームで起きていた事態を見て目を疑った。
誰一人として電車に乗ろうとしないのだ。空になった車両を見ているだけで、動こうとしない。
「あの!これ何かあったんですか?」
近くに立っている駅員にそう尋ねる。その駅員も困惑の色を浮かべていた。
「それがどうしてか、お客さんが乗ろうとしないんです。ここまで乗っていた人まで降りてしまわれて。更に二つ向こうの駅でも同様のことが起きていまして、念のため電車を止めているんです」
その話を聞いた瞬間、真の脳内にあることが思い浮かんだ。
(もしかして駅に敵がいるのか……⁉)
「あの!俺いますぐ戻らないといけない用事があって!その、電車出せませんか?」
「うーん……特に故障も障害もないし……少し待っててもらえますか?」
そう言うと運転手のもとにむかい、何やら無線で連絡を取り始めた。
少しして真のもとに戻ってくる。
「どちらにせよ動かさないわけにはいかないので、乗ってもらって構わないですよ」
「──!ありがとうございます!」
真が電車に乗るとホームでどよめきが起きた。だが誰一人として電車に乗ろうとしない。
そうして電車がホームを出る。乗客は真一人だった。
何も問題なく電車は角丘市の駅に着く。発進した電車にお辞儀をすると真は辺りを見渡した。
ホームには誰もいなかった。
そこにいるだけで今すぐここから離れたい、という気持ちになる。
(どこに……)
必死に周囲を見渡すと、ある一点に目が留まった。それは駅に置かれたベンチで、電車が来るまで座って待っていられるように置かれている代物だった。そのベンチとベンチの間、人一人が通れるか通れないくらいの隙間から只ならぬ圧があった。見ているだけで拒絶反応がする。
真は躊躇うことなく足を踏み出す。
数歩進むうちに熱風が襲い掛かってきた。
腕で顔を隠しながら進むと途端に視界が明るくなった。
──赤。
雲一つない日の夕日の色が目に飛び込んできた。
次に目に入ったのは燃え滾る炎だった。だがそれは燃え広がることはなく、ただそこで燃えているだけだった。
そこは建物の中のようだった。ただ、天井は焼け落ちたのか、天に座す夕日が煌々と屋内を照らしている。
木の床に均一に並ぶ独特の形の椅子に、一段高いところに置かれた台、火に包まれる十字架に、祈りを捧げる少女が描かれたスタンドガラス。そして、
「なんだ、あれ……?」
空中にそれはいた。黒曜石でできた石像らしきものが蹲って漂っていた。周囲には羽の生えた子供が飛び交い、手にはラッパが握られている。
そして建物中央に、先ほどまで一緒だった人物がいた。
「茜!」
「──ッ!来るな!」
足を止めた瞬間、目の前に何か降って来た。
十字架、何も言われてなければいた位置にそれが突き刺さっている。真には目で追うこともできなかった。
「来い!一旦引く!」
茜は体を支えていた槍で飛来するそれを撃ち落とすと反転して走り始めた。
真もその声に従い出口に向かう。
(───あれ、って……)
その際何かが光った。細い鎖に繋がれた十字架のペンラント。それは以前旧友が自慢げに見してくれた代物と瓜二つだった。
「ぼさっとすんな!早く行け!」
そういわれて真は再度走り出した。
扉が閉ざされ、遂に確認することは叶わなかった。
扉が閉じた瞬間、茜が膝から崩れ落ちた。慌てて真が駆け寄る。
「おい、大丈夫か?」
「……あぁ、なんとかな。クッソ、あの野郎めちゃくちゃ強ぇ」
真は茜に肩を貸しながら来た時にはなかった、本棚でできた通路を歩いていく。
どうやら敵は襲ってこないらしい。負傷した茜は走れそうにないがこれなら逃げきれるだろう。
「多分生まれたてだから、力を温存したいんだろうさ」
敵の追撃を警戒していることに気づいた茜がそういう。
「生まれたての敵は基本的に人を襲わない。元から力のあるやつでもアタシら英雄を襲おうとはしないもんだ」
「危険だってのを知っているからか?」
「多分だけどな。くそったれ……、まさかこんなことで知るとは思わなかった」
痛みが酷いのかいつにも増して口が悪かった。引きずる左足以外にも負傷した箇所は複数ある。茜の強さを知っている真にとっては驚きでしかなかった。
「……やっぱり、あれは健治、なのか?」
さっきチラッと見えたペンラントは間違いなく健治が和から貰ったものだった。そんなものを茜が持っているわけがないし、そもそもあの場に健治の姿はなかった。
茜は重々しそうに口を開く。
「敵が人の負の感情からできてるってのは知ってるな?」
「あぁ。銀から聞いた」
「そんで時折だが強力な敵が現れる。それは人に直接憑りついて生まれたので、チマチマ集めるくらいなら負の感情を抱えこんでる奴を乗っ取る方が効率がいいからだろう。こっちの索敵の目から逃れやすいからな」
ただ、と茜は前置く。
「そう考えるならアタシらみたいな英雄に憑りついたっておかしくはない。むしろ敵と直接相見える分その可能性は高いことぐらいちょっと考えれば分かることだった」
傷口が痛むのか茜が顔をしかめる。
「そもそも、消えた英雄の数が合わないってことに目をつけるべきだった。基本的に圧倒できる力があるのにいなくなる英雄の数が多すぎる。そりゃ結衣みたいなのもいるかもしれねぇけど、それを加味しても数が絶望的に合わない」
「なら、他の英雄も?」
「恐らくな。とにかく、今は外に出るぞ」
足元が絨毯ではなくコンクリートに戻る。
何一つ壊れていないそこに、ただ人だけが存在していなかった。
そんな中に二人の人物がいた。
その姿は明らかに浮いていた。
「よォ。相変わらず遅いご到着で」
真から離れ近くにあった椅子に腰かけるとドスの効いた声で茜が話しかける。
四ノ宮はそれを無視し、真にこう尋ねた。
「……どうしてあなたがここにいるの?」
「そりゃテメェが黙ってたからなぁ。ちゃんと教えてたらこんなとこに連れてこねぇよ」
横から茜が口を挟む。煩わしそうに四ノ宮が言う。
「……少し黙っててもらえるかしら?」
「はッ、よく言うぜ。全部知ってて何も言わねぇヤツのいうことなんか聞くかよ」
真の口から「え?」と声が漏れた。
恐る恐る茜を見ると鼻で笑いながら、
「こいつに言われたんだよ。健治に関わるのはよせってな。だがまさかこういうことだとは思わなかったわ」
「……教えて、それであなたは素直に聞いたかしら?」
「たられば論なんざ興味ねぇ。だとしても真にまで黙ってるはないだろ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
真が会話を遮る。
「つまり、四ノ宮さんはこのこと全部知ってて黙ってたのか?分かってて?」
相変わらず感情の読めない顔でこう言った。「そうよ」と。
「悪いな真。ひとまずその話はここで終わりにしてくれ」
「どうして……?」
「それよりも重要なことを聞きてぇ。まさかここにきて教えねぇってことはねぇよな?銀?」
「そうだね。こうなった以上君たちには伝えておくべきだろうからね」
「何を?まだ何かあるのか?」
真がそう尋ねると茜がこう訊いた。
「真、アンタ徳元結衣って奴のこと覚えてるか?」
「勿論だ。あの人のことを忘れるなんて……」
「なら、アイツが死んだ後でアイツの話をしたのは?」
「健治と、あとは────」
不意に言葉が途切れた。
まるでそうなることを知っていたかように茜がいう。
「それなら、アイツが学校に来なくなってから、そのことを話したやつはいるか?耳に聞こえてきたんでもいいし、名前だけでもいい。とにかく、学校で徳元結衣って名前を一度でも聞いたか?」
真は思い返す。いなくなってから三日、真は結衣さんのことで頭が一杯だった。
ほんの少しでも話題に出てないか、いなくなったことに気が付いている人がいないか、心配している人はいないか、必死に気を張り続けた。
よく考えてみたら、それはおかしな話だった。
そもそも結衣さんは学校一の美人だ。その美貌で他校にまで名前が知られている有名人で、弓道部にだって入っている。
なのに、誰一人として学校に来ないことを不審に思っていなかった。
それが一日だけならいい。だけど彼女がいなくなってから既に数週間が経っている。
それなのに一切話題にならないのは明らかに不自然だった。
それこそまるで、最初からいなかったかのように──。
「つまりそういうことだ」
茜の声で思考が中断される。
「英雄が死んだ場合、もしくはこうして敵になった場合、その存在は文字通り消えてなくなっている。関わりのある人間の記憶から、書類まで全部で、だ」
「……」
「そんでもう一つ。英雄は死ぬとその体が花びらとなって消える。英雄である証の紋様、これに刻まれた花の花びらとなって、物理的にも消えてなくなる」
「だ、だけど!歴史に名を残している人は大勢いる!それに俺らだって覚えて──」
「大方、同じように気づいた連中が書き残したんだろうな。こういう人物がいて、こんなことをしたってな。それが行った結果とかみ合い、歴史に名前だけが残った。つまりアタシらが知ってる連中は軒並み実在したのかどうかさえ怪しいってことだ」
「茜、君は知っていたんだね?そのことについて」
銀がそう尋ねると茜は肯定した。
「後者は今さっき知ったが、前者は少しだけ気になって調べたことがあったからな。そしたら根こそぎ消えてやがった。明らかに人為的にできる範囲を超えてたから、理由はすぐに分かったさ」
茜に睨みつけられても銀は涼しい顔のままだった。
「君たち英雄がこの世を去った場合、自動的にいたことを証明する物は全て消去されるようにできているんだ。例外として僕達と接触したことのある人物や、同じ英雄だけは覚えていられるようにしてあるけど」
「……」
「願いを叶える際に得られる正の感情を元に君たちの体を作りかえる。そうすることで君たちは敵と対等に戦える力を手にするんだ。普通の人が相手するには敵は強すぎるからね。そしてその感情を元に生きている以上、その根源にある願いを否定や後悔をし続けると力そのものを失う。力が正の感情から負の感情に変化した存在、それが君たちの敵だ。勿論力の源である紋様を失うことでも死んでしまうけどね」
ついでに、と銀は言葉を続ける。
「君たちは誰かを弔う際によく花を添えるだろう?だからというか、一応念のため君たちが死んだ際その体は花びらとなって消える仕様にしてあるんだ。誰か分からない死体が転がっていたらはた迷惑な話だからね」
まるでちょっとした豆知識のように銀は話す。
そして、それがどういう意味を持つのか、真は理解してしまった。
英雄は、英雄に為った時点で人ではなくなるのだと。
「くっだらねぇ」
吐き捨てる様に茜がいう。
「前々から思ってたがつくづく狂ってやがるな、お前ら」
「そうだね。君たちからしたらそうかもしれない。それでも、僕たちは良かれと思ってこの仕組みを設けた。それだけは理解してほしいかな」
そう答える銀を茜は鼻で笑った。
ふと見ると真が一人その場を後にしていた。
追いかけようとする鈴を茜が自身の武器で止める。
「そっとしてやれ。普通の奴じゃこの場で発狂したっておかしくねぇんだ」
「……そうね」
「それとてめぇも……って遅かったか」
見ると銀の姿はどこにもいなかった。
追うにもアイツの思考はまるで読めない。そのうえこの天気では探すのは困難だ。
なにより、茜にはやるべきことが残されていた。
「前々からさ、聴きたかったことがあんだ」
冷めた表情の鈴に茜はこういう。
「アンタさ、どうして真にこだわる?なんか理由でもあんのか?」
「……別に、それを知ってどうするの?」
「はっきり言ってアンタは異常だ。その髪や瞳にしたってどう見ても普通ではないし、そんだけの素養があるのにまるで力を感じねぇ。なにより、変身しないで戦う英雄なんて初めて会った。こうなった以上確かめておきたいと思ってさ」
「……そうね。確かに、私は異常かもしれない」
そういうと鈴はゆっくりと歩き出す。向かう先は駅の外だった。
「……移動しながらでもいい?そっちの方が話しやすいから」
「アンタが言うなら付き合うさ」
二人は線路を超えて駅の外に出る。雨は止んでおらず、少し歩いた先にも道行く人はまばらにしかいなかった。傘を持っていない二人は濡れることを気にせず歩き始めた。
「……まずは、そうね。私の生い立ちから」
そうして鈴は自身のこれまでを話し始める。
私はごく普通の家庭に生まれ育った。
両親もこれといった特徴はなかった。だからか私もごくごく普通に育った。
小さい頃の私は人づきあいが苦手で、入った幼稚園では常に一人だった。
めまぐるしく変わる話に全然ついていけなかった。まるで別の国に迷い込んだかのように全てが違くて、怖く見えた。
そんなだから小学校に入っても、中学校に入っても友達はいなかった。
いじめはされなかった。というより認知されていなかったのだと思う。それでも目立たないように、目立たないようにとずっと息を潜めて過ごしていた。
そんな自分を変えたくて私は遠い高校に進学した。私の意見に賛同してくれた両親は一人暮らしをすることを許してくれた。多分問題を起こさないだろうって確信があったのだと思うし、実際そんなことをする勇気は私にはなかった。
でも、高校に入っても変わらなかった。それどころかクラスの人から嫌われ始めた。
勉強も運動も、人づきあいもろくにできない私は気味が悪かったのだと思う。
そんな自分に嫌気が差して、それでも変われなかった時に、
私は真と出会った。
二人は人気のない公園の、屋根のある休憩所に腰かけていた。
話す鈴はどこか辛そうだった。
「おい、大丈夫かよ?」
「……平気よ。続きを話すわね」
第一印象は最悪だった。
剣道部に入っていた真は同じ部活の人たちといつも騒いでいて、しかも席が隣で、騒ぐ場所は決まって真の席だった。
彼らの一人が隣の私の机に腰かけても何も言えなかった。
騒ぐ彼らは恐怖の対象でしかなかったし、言ったところでなにを言われるか分からなかった。
だから私は私のできる最大の労力で気配を消していた。
そんな彼らを疎ましく思う反面、羨ましいとも思った。
私もこんな風に友達と話したい。休み時間や昼休み、放課後に楽しくお喋りがしたかった。
でも、それは私の手の届かない所にあると思っていた。だから諦めないといけないと何度も反芻した。
なのに、それをいとも簡単に手に入れている彼らが羨ましくて、妬ましくて、そう思う度に自分が嫌いで嫌いでたまらなくなった。
そんなことを延々と考えながら帰っていた時に、私は敵の空間に迷い込んでいた。
いつもと同じ帰り道が、全く違う風景に変わった。とにかく怖くて、昔のことがフラッシュバックしてしまって身動きがとれなくなっていた。
迫る敵に怯えるだけで、もうダメだと思ったその時。
私は真と結衣、二人の英雄に助けられた。
「真?あいつは契約してないだろ?」
「……今は話を聞いて」
「お、おう」
酷く乱れた息を数秒かけて整えると、鈴は当時のことを話し始めた。
「もう大丈夫ですから、安心してください……ってあれ?なんかどっかで見たことがあるような、ないような……」
「真君。今は敵に集中して」
「あ、了解です」
この時そこにいた化け物のことはあまり覚えていない。それよりも目の前にいる二人の姿に目が吸い込まれていた。
竹内君は袴を着ていた。上が紺色で下が灰色のもので、腰に刀を一振り差していた。
結衣の恰好は省略するけど、あなたの知る格好と同じだったわ。
二人は私を庇うように立つとまっすぐ敵を見据える。
「しっかし、ほんとにキモイっすねあれ。なんかイソギンチャクみたい」
「数は六。手下は私がやるから本体をお願い」
「了解っす!」
結衣が真の背中をそっと触れると、竹内君がいなくなった。
気が付けば化け物の近くにまで接近していた。
直後、化け物が爆発する。弓を構えている結衣が小さく息を吐いていた。
「はぁぁああ‼」
二回か、あるいは三回か。竹内君は瞬く間に敵を斬ってみせた。
私の目では全然跡を追うこともできなかった。
そして直後に真が結衣の元に戻っていた。敵が作った空間が消えて、良く知る景色が現れた。
まさにあっという間の出来事だった。
「大丈夫ですか?」
心配そうに覗きこむ真の顔を見て私は慌てて顔を擦った。
そうして立ち上がると急いでその場から立ち去ってしまった。
「あ、ちょっと!」と呼びかける声が聞こえた気がしたけど、そんなものは全然耳に入ってこなくて、何をどうしてたのか気づいたら朝を迎えていた。
その日は学校を休むことにした。初めてするズル休みはなんだか落ち着かなくて、時間の進みがゆっくりに感じた。やることもなかったから勉強してたけど、あのときの光景が目に浮かんできて全然集中できなかった。
部屋が少しだけ暗くなってきたとき、部屋のチャイムが鳴った。通販なんて使わないし、そもそも人が訪れることが初めてで、私は慌てて玄関に向かった。
不用心にもドアを開けると、そこに例の二人が立ってた。
「あ、良かった~。今日来なかったから心配したよ。大丈夫か?どっか調子悪いの?」
「そういきなり聞かれても答えられないわよ」
「あ、それもそうっすね」
真の口調はいつも耳にするのと同じだったが、他人の私を心配してくれていることは嬉しかった。
隣に立つ結衣が口を開く。
「良ければだけれどお話をさせてもらってもいいかしら?あなたにとっても無関係なことではないから」
私はただ頷くことしかできなかった。
そしてこれが運命の分かれ道だと言うことを、この時の私は知る由もなかった。
「それでアンタは英雄になったのか」
「いいえ。私がなったのはもっと後の事よ」
鈴の額には汗が滲んでいた。さっきから息は乱れたままで、瞼もどこか重たそうだった。
茜が心配そうに見つめる中、鈴は話を続けた。
「そ、そんなことが……」
話を聞き終えた私はそう答えることしかできなかった。情報量が多いのもあったが、その中身もすぐ呑みこめるほど簡単なものではなかった。なにより自分にもそんな才能があることなんて全然知らなかったし思いもしなかった。
「学業と両立させるのとか大変だけど結構楽しいよ。ま、俺はまだ成り立ての新米だけど」
「そうね。素質は充分あるけれど、危機感が足りてないとこが欠点かしらね」
「ん~、でも結衣さんいるしなんとかなりそうな気になるんすよね」
「それは嬉しいけれど、もうちょっと緊張感を持ってほしいかな」
分かりました、と答える真は学校で見るまんまだった。
常に明るく、笑顔を絶やさない。口調は崩れているけど、それでもどこか真面目な部分が見え隠れしていた。
「それで、なるでしょ?英雄に」
「え、えっと、まだなんとも……」
「え~、でも願い事なんでも一つ叶うし、仲間が増えるのは嬉しいけどな~。同じ新人同士仲良くしたいし」
「強引に勧めるのは感心しないかな」
「うっ……はい。悪い、無理に詰め寄って」
「い、いえ全然。気にしないでください」
会話が止まってしまい、どうにか話をしないとと思いこう尋ねる。
「そ、その!英雄になるために契約する人って今どちらに……?」
声が上ずってしまい、思わず顔を伏せてしまう。
真がどこか言いずらそうにしながら「分かんない」と言った。
「正直あいつがどこにいるのか知らないんだよね。滅多に顔出さないし、だから俺が英雄になるのが遅かったんだよ。すぐにでもなろうと思ってたのに」
「悪いけれど私も知らないの。彼、かなり気分屋っていうか、気まぐれというか、とにかく簡単に捕まらないから。だから焦って契約しようとしなくていいわよ」
「そうそう、俺なんて咄嗟に契約したから叶えたかった願い事全部パーになっちゃったし、ゆっくりじっくり考えたらいいと思うよ」
やれやれ、といった表情で真がそう言う。
この時の私は残念な気持ちと焦る気持ちで一杯だった。初めて同い年くらいの人と仲良くなれそうなのに、そのきっかけを失いそうで怖かった。
だから、その後結衣が「しばらくは見学ってことで一緒に同行してみない?」と聞かれた時は本当に嬉しかった。
初めてできた繋がりに、初めてできた居場所。それが一時のものだとしても私にとっては充分過ぎるものだった。その日の夜は興奮して寝付けなかった。
次の日、学校で寝不足な私に当たり前のように話しかけてきたときは本当にびっくりした。真は剣道部のエースとして有名だったし、結衣はそれ以上に有名だった。だけど、周囲の目なんか気にならないくらいそのことが嬉しかった。そして放課後になって、二人の後についている間はただただ楽しかった。勿論敵は怖かったけど、不思議と不安ではなかった。
二人の連携は日に日に上手くなってるのが目に見えて分かった。私はさながら運動部のマネージャーのような気分でそれを応援していた。その反面私が契約してここに加わって、その輪を壊すことが怖くなっていった。
「しっかし、アイツ全然来ねーなー。もう一週間が経つぞ」
その日は大型の敵を倒して帰る最中だった。真の言う通り見学を開始して既に一週間が経過していた。
二人が戦い、それを見守る立ち位置が馴染み始めていた頃だった。
「他の町にも行ってるみたいだし、中々来れないんじゃない?」
「全くよー、ここに将来有望な英雄候補がいるってのに何してんだか」
どう反応していいのか分からず、ありがとう、とだけ返す。
突然、着信の音が鳴る。それは真の携帯からだった。
「やべっ、親父からだ」
そう言うと真は少し離れて電話に出た。そんな様子を私と結衣はその場から眺める。
「警察官なんだって、真の御父さん」
「そうなんですね」
「たまにああやって電話かけてくるの。忙しくて滅多に帰れないそうよ」
「それは大変そうですね」
少しの沈黙のあと、私は意を決してこう聞く。
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
「うん」
「竹内君が言っていた、咄嗟に叶えたって話。あれってどういうことなんですか?」
結衣は一瞬躊躇うも、「ま、鈴ちゃんならいいか」という。
「真の叶えた願いはね『車に轢かれそうになった子供を助けたい』だったのよ。丁度例の彼がいる時で、叶える願い事を考えながら歩いてる時だった」
「それで、叶えたんですか?」
「ええ。結果としてその子供は助けられた。だけど、あまり言いたくないけど失敗だったと私は思ってる。命懸けで戦う使命を帯びるのにふさわしい願いだとは思えないし、その後一人で悩んでたのも知ってるから」
「そうなんですか……」
「でも、あなたが加わってから随分元気になったわ」
面倒そうに電話に応じる真を眺めつつ結衣は言う。
「あのままだったら彼は早々に脱落してたかもしれない。だからありがとね。私もあなたを連れてるからか周りをちゃんと見ることができてるの」
「いえ、別に私は……たまたま、あの場にいただけで……」
「だとしても、助けたのがあなたで良かったって思うわ」
そういうと結衣は微笑んだ。そんなこと言われたのは初めてのことで、私は何も言うことができなかった。
「それに、もうすぐ”あれ”が来るかもしれないし……」
「あれ?」
そう聞く間際に真が戻ってきて、結局その話を聞くことはなかった。
その後も例の彼は来ることはなく、
そうしてこの町に”あれ”が現れた。
”あれ”はまさに天災だった。遠くからでも家屋が吹き飛び、ビルが崩れ落ちたのが見えた。あちらこちらで火の手が上がり、けたましくサイレンが鳴り響いていた。
幸いなことに私の部屋は進路から外れてたから、まだ見ている余裕はあった。だけどなんだか嫌な予感がして、四人しか登録してない電話帳を開き、ボタンを押した。
……繋がらない。
「──まさか」
気が付いたら私は部屋を飛び出していた。鍵を閉め忘れたことも、放り投げた携帯も忘れて町の間を必死に走った。
被害の中心は壊滅的な被害を被っていた。建物は原型を留めておらず、あちらこちらに赤い液体で濡れた人が倒れていた。中にはまだ息のある人もいたけど、その時の私には何も出来ず、目を瞑って通り過ぎることしかできなかった。
そして、”あれ”がいた。空中に漂う動物の群れはさながらパレードのような恰好をしていて、それらの上には一回り大きな怪物が十二匹。見ただけで難敵だと分かった。
更に上、人型の”あれ”は一目見ただけで全身に鳥肌が立った。
──”あれ”は人が敵う相手ではない。
”あれ”はいるだけで人を呪い殺せる厄災そのものだと、本能がそう訴えかけてきた。
それらの間を縫って何かが降ってきた。それは私の良く知る人達だった。
「──竹内くん!徳元さん!」
「……四ノ宮?なんでここに……」
「そんなことより徳元さんが!徳元さんが‼」
真が抱きかかえていた彼女の体はボロボロで、全身至るどころに傷があった。なのにその顔は眠るように穏やかで、まだほんのりと温かかった。
「結衣さんを頼む」
そう言うと真は彼女を降ろし立ち上がった。
戦うつもりだ。結衣さんが死んだのに、同じくらい傷だらけなのに、それでも往こうとしている。
「……ダメだよ」
気が付けば私はそう言っていた。零れる涙と共に言葉が溢れた。
「ダメだよ!あれは勝てない!あれは人が敵う相手じゃない!今からだったらまだ逃げ切れる!だから──」
「だからこそ、俺はいくんだよ」
振り返る真の表情は凪いでいた。
驚くほどに、彼は落ち着いていた。
「俺は英雄だ。この町を、結衣さんが守り続けた人達を守らないといけない。多分、俺が死んでも結衣さんも同じことをすると思うから」
そう言って笑った。いつもの溌剌とした、明るい笑みだった。
「それに鈴がここにいるのに引くわけにはいかないしな。お前がいるのに、格好悪いとこなんて見せらんねぇっての」
え、と尋ねる前に真の手がそっと私の頭を撫でた。
思考が真っ白になった。
そして静かに頭から手を離した。
「必ず戻る。だから待っててくれ」
言い終えると即座に跳躍し、敵に接近した。
その姿を私はただ見ていることしかできなかった。
結果として、真はその敵の撃退に成功した。街の半分が崩れ落ち、多数の死者を出しながらも、それでもどうにか町の中心にある線路を超えさせはしなかった。
その代償は、初めてできた私の大切な友達の命だった。
崩壊した町を一人進む。
敵はもういない。曇天だった空の切れ間に青が見えた。そこから差し込む光はまるで祝福するかのようにあちこちに降り注ぐ。
辺りには瓦礫が散乱していた。それでもどうにか進むことはできた。よじ登り、滑り下り、小さな傷を増やしながら歩き続けた。
「────あ」
そしてそれはあった。光の一番集まる場所に、静かに横たわる姿があった。
「───ああ」
一気に駆け寄る。まだ血の固まってない傷が至る所にあった。左腕はなく、両足も膝から下は無くなっていた。
「────ああ、ああ……」
そしてその顔は穏やかで、眠っている様だった。
「あああああああああああああああああああああああああああああああ‼」
私は叫んだ。ただただ叫んだ。顔を涙や鼻水でぐしゃぐしゃにしながらも、それでも叫んだ。血の味が口に広がっても、声が枯れても、それでも叫んだ。
死んだ。死んでしまった。大好きだった彼も、憧れていた彼女も、二人ともいなくなってしまった。底の見えない穴に落ちたかのように、目の前が真っ暗になる。息が苦しい。まるで水の中にいるように息ができない。嫌だ。こんなの。こんなことって──。
「あーあ。結局死んだのかよ」
ふと、声がした。
ひと際大きな瓦礫の上に声の主がいた。逆光で顔は見えないが、背丈は真よりも大きそうに見えた。
「ったくよ~、散々かっこつけといて最期がこのざまかよ。くっだらねぇな」
とてつもなく不快な声だった。内容もだが、その声そのものが嫌で嫌でたまらなかった。嫌な音を集めて一つにしたような、酷く心がざわつく声だった。
「ま、あれを退けただけいいってことにするか。どーせ替えはいくらでもいるし」
「そんなことない‼」
気づけばそう叫んでいた。ピクリと、そいつの体が動く。
「真君は、結衣さんは、私の大切な友達だ!初めてできた、私の──」
「そんなの知るかよ」
吐き捨てる様に遮った。その声には明らかに侮蔑の意味が込められていた。
「たかが二人死んだくらいで何ゴタゴタ言ってんだお前?人類の総体を考えりゃむしろ二人なんか誤差だろ。それどころかあってないようなもんじゃねぇか。コイツらのおかげで被害はこんだけで済んだんだ。むしろ万歳三唱して喜ぶべきなんじゃ──」
ふと、言葉が止まる。
再度口を開くと感心したような口調に変わっていた。
「つーか何だお前、素養があるのか。そうかそうか、こんな役立たずと仲良くしてんのかってバカにして損したぜ」
「……もしかして、あなたが?」
「そういうこったな。初めましてお嬢さん、もう何もかも終わっちまってるけどどうするよ?」
ケラケラと、まるで神経を逆なでるように笑う。
「簡単な話、ギブアンドテイクってことだな。願いを叶える代わりにお前の人生を貰いうける。それが嫌なら断ってもいいぜ?こっちも無理強いはできないことになってるからな」
「どんな願いでも叶えられる?」
顔をしかめながら私はそう尋ねる。
「ま、お前の『運命の糸』じゃちっとばかし足りないからな、多少は歪んで叶うかもな。例えば二人を生き返らせるって願った結果ゾンビになったり、とか」
そう言うと片手をヒラヒラさせて「それでもいいってんなら叶えてやるよ」とニヤリと笑う。どこまでも薄気味悪い笑みだった。
私は俯くと考えて、考え抜いた。生まれて初めてこんなに真剣に考えたことはないっていうくらい考えた。彼は胡坐をかき頬杖をついてじっとその様子を眺めていた。
「……それなら」
私は顔を上げる。お、と彼が声を漏らす。
「私は、彼との出会いをやり直したい。何も出来ない自分を切り捨てて、それでもう一度彼に会いたい!」
「──ふぅん」
彼は素っ気なく呟くと瓦礫の上に立ち上がった。
「四ノ宮鈴。英雄たる資質を持つ者よ。その言葉に偽りはないか。後悔はないか」
「ない!私は、必ず助けて見せる!」
力強くそう答える。
もう二度と失いたくない。もう、ただ見ているだけは嫌だ。
変わるんだ、ここから。これがその一歩だ。
──その瞬間体の内側に何かが現れた。
次の瞬間には全身に広がり、うねりをあげる。
「ようこそ、地獄へ」
最後に聞こえたのはそう呟く声だった。
そして私の意識は一気に落下していき、気が付けば私はベットの上にいた。
ゆっくりと起き上り、辺りを見渡す。やけに鮮明な夢だと思い、ふと左の手の甲を見ると見慣れない模様がそこにあった。
そうして私は時間遡行に成功したのだった。
「……じかん、そこう?」
「……ええ。最初は何の冗談かと思ったけど、繰り返すうちにそうだと理解できたわ。私は一定の間の時を戻せる。だから時間遡行というのは少し違うかもしれないわね」
鈴はそう言って息を吐いた。瞼はもう半分も開いておらず、眠たいのか口調もどこかゆったりとしていた。頬はほんのりと紅くなり、額には汗が滲んでいた。
「やっぱ、アンタ調子が──」
そう言って額に触れた途端茜の表情が変わった。一瞬手を離すと、濡れた髪をどかして再度触る。
熱い。とてもじゃないが平熱なんてレベルじゃない。下手したら命に関わるほどの熱だった。
「テメエ、なんでこんな状態で出歩いてるんだ!」
「……平気よ。このくらいなら、むしろ元気だわ」
「嘘つくな!いいから移動するぞ!少しでも熱を下げないと──」
「……もう少しで話は終わるから」
そう言って鈴は茜を睨む。その表情を見て、茜はため息をつくと上げていた腰を下げた。
「……元々の武器は大きな鋏だった。だけど大きすぎて私には持つこともできなくて、半ば呆れながら結衣が力の一部を私にくれた」
「なるほどな。道理でアンタから似た匂いがすると思ったわけだ」
彼女本人の匂いがまるでしないのに、懐かしい匂いは微かにしていたのだ。
腑に落ちた様子で茜が呟く。
「……そのおかげでどうにか戦うことはできた。だけど、”あれ”には勝てなかった。何度繰り返しても、何度挑んでも二人は死んだ。途中から健治も加わって、あなたがその輪にいることもあった。だけど一度も勝つことができなかった」
「それほどまで”あれ”は強ぇのか?」
「……ええ。とにかく、何度も繰り返してたある時、私は変身する力を失った」
「失う?そんなことがあるのか?」
茜がそう尋ねると鈴は静かに首を振った。
「……詳しいことは分からない。でも、そこから事態は悪化していった。一番大きかったのは真の性格が大きく変化していたことだった」
「さっきの話を聞く限りじゃ、明らかに別人だからな」
「……変わった彼は異常だった。多数を救うためなら躊躇うことなくなんでもした。自分の身を顧みない危険な戦闘を続けたこともあったし、英雄がやがて強大な敵なると知ると真っ先に私たちを殺そうとしたこともあった。そんな彼を私が殺したことだってあった」
「……」
「……そうしているうちに私にも異変がおきた。少しずつ視力は落ち、耳も遠くなった。しまいには武器を振るうこともできなくなっていた」
そこから先は泥沼だった。
繰り返すたびに敵の現れる位置は変化していた。強さこそ変わらないものの、弱っていく私にとっては強さが増すのと同義だった。
触覚だけではなく、視覚や嗅覚、聴覚といった五感も殆ど効かなくなった。強化されたのが触覚だったのが幸いして今日まで物に触れているのかどうかは認識できた。
気が付けば髪は白くなり、瞳も白くなっていた。全身が重く、一日のほとんどを睡眠に費やさないといけなくなった。それでも些細なことで疲れ、熱を出した。吐き気が止まらず、意識は朦朧としていた。耳鳴りも酷くなり、そのせいで会話が成立しないことが増えた。
「……今は一時的に聴覚を戻してるから聞こえてるけど、そのせいで体力を失ってるの。だから熱が出てる。それだけ」
「それだけって……」
「……私の使う刀は彼から譲り受けたの。『俺の分まで生きてくれ』って言われてね。必ず助けると、何度言ったか覚えてないくらいに繰り返した。彼らの死に際を何度も見届け、時には恨まれ嫌われながらも、何度もね」
聞こえてないのだと、茜は気づいた。
もう聴覚を保つ力もないほどに彼女は衰弱しきっていた。
「それでも救うと決めたの。どんなに嫌われても、例え一生話すことがなくても、私は必ず彼を救う。それが私の望み。全てを救うのはできなくても、せめて彼だけは……必ず……」
気が付けば彼女は気を失っていた。すぅすぅと寝息を立てて眠る鈴の頭をそっと膝に置く。熱はまるで引く気配がなく、その表情は酷く疲れていた。
茜はぼんやりと空を見つめる。雨は止まず、暗闇が広がっているだけだった。慣れてくると雲が空を覆っているのが見て分かる。
茜は話を全て理解できたわけではない。呑み込むには少し時間がいるだろう。
やがて自分が死ぬことはそんなに驚かなかった。いずれ死ぬだろうと、ぼんやりとしたイメージが明確になっただけで、それほどショックではなかった。
ただ、彼女がどれほどの覚悟で戦い続けたのか、あれほどまでに真にこだわっているのか、その理由だけは本当に驚いた。
「はぁ……」
ため息をつくとおもむろに首から下げるネックレスを手元に引き出す。先端には金属でできた二匹のイルカがいた。端のほうがどこか歪で、大きさも不揃いな代物だった。
──それはかつて、三人でたてた誓いの印だった。
──ささやかで、それでも精一杯の願い。
──だけど、その願いはある日突然終わりを告げた。
「分かんねぇな……」
小さく、そう呟く。
応える人は、いない。
時を同じくして、
「……」
真は一人、ベットの上で蹲っていた。
反対側には佇む銀の姿があった。
「……お前は、このことを知っていたのか……?」
そう尋ねる声は自分でも驚くほど乱れていなかった。
銀は困ったように首をかしげる。
「彼女と契約したのは僕ではないからね。ある程度見当はついていたとはいえ、確証を得るには手がかりが少なすぎた」
「そうか……」
そう言うと真は口をつぐんでしまった。
「でも良かったのかい?僕と聴覚を共有させて話を聞くなんてことしなくても、実際にその場に行けばよかったのに」
そう尋ねられても真は何も言えなかった。
そもそも、どうやって帰ったのかあまり覚えていなかった。気が付けば真っ暗な自分の部屋にいた。
部屋を包む沈黙がやけにうるさく、どうしてか心がざわついて落ち着かなかった。
「俺にも英雄の素質があるって言ってたな」
真が口を開いた。
「うん。それも並大抵じゃないくらいのね」
「それは鈴のせいでか?」
「そうなるね」
「ならさ、この状況で落ち着いていられるのもそれが理由なのか?」
そう尋ねる真の表情は変わらない。
だがその口調は自分自身を傷つける様に、醜い自分を罵るようだった。
「結衣先輩が死んだときも、和があんなことになった時も、健治が死んだ時も、さっき鈴の話を聞いた時も。俺は、俺はたったの一度も悲しいと思わなかった。憤りもしなかった。それどころか、ただそうなのか、としか思わなかった。しちゃいけないのに、納得できてしまった」
大粒の涙がベットのシーツに落ちる。
ポツリ、ポツリと。漏れ出した本音と共に。
「そんなの、そんなのおかしいだろ。どうして何も思えないんだ。間違いなく皆が死んだ理由は俺にあるのに、俺は何も感じない」
銀は表情を変えることなく静かにそれを聞き続ける。
潤んだ真の目にはそれが自分の姿と重なって見えてしまった。
「結局、俺は自分のことしか考えてない。そんな奴が英雄?笑わせるなよ。
俺は醜い。自分の弱さから目を背けて勝手に乗り越えた気になった愚か者だ……」
最後の方はもはや言葉にすらならず、ただ掠れて消えていった。
全てを聞き終えると銀はその口を開いた。
「英雄としての素養には「運命の糸」が大きく関わるんだ。これはその人がどんな人生を歩み、どう過ごしてきたか。生まれや周囲の環境によってもその量が変化する。そしてそれを受け入れられる容量は人によって違っていて、英雄としての力はそこに左右される」
「……」
「そしてこの運命の糸を増やす一番の方法が『大切な存在を失う』ことなんだ。この方法ならたった一度で充分な素養を得ることができる」
真にとって母親と弟がそうであるように。
茜にとって両親がそうであるように。
人は無くして初めてその大切さを知り。
失ってその価値を、存在の大きさを実感する。
その感情の揺れ幅が、人を超えた英雄としての素質を育む。
「運命の糸には正の感情と負の感情、その両方に染まる特性がある。元々負の感情はそこらへんに存在し、微弱だけど君たちは日常的にそれに冒されている。だから大人ではなく君たちのような子供しか英雄になることができない。でも子供であっても過剰に冒されてしまえば英雄にはなれない」
その声に一切の邪気は無く、ただただ驚きに満ちていた。
「だけど、君はそんなジレンマを乗り越えた。確かに君のような境遇の人間はこの世に沢山いるだろう。でも回数が違う。味わう鮮度も違う。今の君にとって大切な人が、この短い期間で何度も死んでいった」
真の歩んだ人生は決して平凡ではない。
それでも特筆するほど過酷でもない。
だが、最も多感な時期に、親友を、憧れの先輩を、好きな人を何度も失う。
為すすべもなく自分の前で。数えるのも億劫な程に。
そんな地獄のような日々を、一体誰が想像できるだろうか。
「真、君は人間としてあまりに成熟してしまっているのさ。嘆き悲しむのではなく、その死をもって前に進もうと決意するのでもなく、ただ事実のみを受け入れる。その強さを君は手に入れてしまった。本来なら許容できない量の力を、両方とも納めることができるほどにね」
心の傷は時間が少しずつ癒してくれる。
どんな出来事も、年を重ねれば心の整理の仕方を覚える。
そうして人は前に進む。
だが、真はその先の領域にいる。
正面から受け止めるのだ。
その時感じた想いも感情も、全てをそのまま受け止めて生きることができる。絶望も希望も後悔も奮起もせず、ただただ凪いだ心のままでいられる。
それができてしまうほどに、彼は成長してしまっていたのだ。
そしてそれは、もはや人ではない。
「君が頑なに英雄にならなかったのはそれが最善の選択肢だと無意識に理解していたから。感情に流されることなく人として正しく行動し、結果多くの人を救うことに成功している。今までもそんなことがあったんじゃない?」
健治を探しにいかなかったのも、誰も乗りたがらない電車に一人乗ったのも、ここまで英雄にならなかったことも、鈴の経験の通りなら犠牲を最小限に抑えることには成功している。
それが善い悪いかはともかくとして、結果は明確に出ている。
銀は笑う。子供のような無邪気な笑みだった。
「でも、この世界は君が英雄になって、そして死ぬことで終わるのが既に決まっているんだ。だからそんなに気にしなくていいと、僕は思うけどね」
銀はそう締めくくった。
少し経って、真がこう尋ねる。
「一つ、聞いてもいいか?」
「?なんでもどうぞ」
「結局、お前らはなんなんだ。何が目的で、どういう理由でこんなことしてる?そもそも、どうしてこんなシステムを作った?人の願いを叶える仕組みを作ったり、感情に形を与えるなんてことができて、なんのためにこんなことをしている?する必要があるのか?」
「あるのかどうかは今の段階では結論は出せないかな。ただ、それ以外なら答えられるよ」
「教えろ」
銀は一瞬考え込むとこう訊いた。
「そうだね。例えば君は、犬や猫の気持ちが理解できるかい?」
「は?」
あまりに突拍子のない話に思わずそう聞き返していた。
「できないよね。何千年も近くにいるのに未だに分からないことが多い。今知られていることも当かどうか確証があるわけではない。ただ、そうなのではないかという憶測や推察の域を出ていない。まぁ意思を伝達する手段がないんだから仕方ないのだけど」
「……それがお前らにとっての人間だっていうのか?」
「僕らはね、元々実体がない存在なんだ。奇跡や偶然を意図的に起こせるためか肉体を持つ必要がない、と言うべきなんだろうけど。でも中にはそれをいいことだと思わない連中もいた。自分たちも肉体を持つべきだと考えたんだ。だけどないものをあることにするのはいくら僕たちでも難しい。そこで彼らはあることを思いついた。遠い星にいる生物にその理想に叶うよう調整、飼育しようってね」
「……」
「そこからが大変だった。一回の検証に数千年の時間を有した。それなのに辿る結末はどれも同じだったんだ。どうしてだと思う?」
「……思考があるから、か?」
「いいや。同じ種で思考を有し、言葉も使えるのに意思の疎通がまるで図れないからさ。それどころか同じ言語を用いている相手とすら話し合いすらできず、他の獣のように殺し合うばかりだった。僕らも色々と手を打ったけど、改善される兆しはなかった」
いつの時代だってどこかで必ず戦争があった。多くの血が流れ、数多の命が無意味に消えていった。そして決まってそれは弱き民であった。
何度も文明が築き上げ、そして滅んだ。しまいには自らの住む星すらダメにし、敵味方諸共死滅することもあった。
彼らは、そんな光景を何度も目撃してきたのだ。膨大な試行回数の元に。
「そんななかである仮説がでた。それは人の内側で生まれる特有の感情が生き方に影響を及ぼし過ぎているのではないか、ということだった。ひとまずそれらを二つに分け、それぞれに対しての受け皿を作った。これが英雄と敵だね」
受け皿、という言葉が真の脳内に響いた。
「無関係な人類が無難に生きるために排出させた感情を集めできた存在である敵を、対になる感情の力を持つ人間である英雄が倒し、やがて倒し続けた存在に自らが為ることで、一種のサイクルを生み出した。極めてごく少数が犠牲になることで大多数が平和に暮らせるようにする仕組みを導入しているのが、今回の世界なんだ」
「────────────」
真は言葉を失っていた。
あまりに、あまりにスケールが異なった。
見ているものが、考え方が、物の捉え方が違い過ぎた。
(でも……)
思ってしまった。
正しい、と。
少数が犠牲になることで大多数が生存する。この仕組みは真の知る限り一番よくできている。恐らくこれが最も多くの人を幸せにできている、と。
立ち去ろうとする銀に対し真は何も言えなかった。今この場で言い返す言葉を持ち合わせていない。正しいと結論を出してしまった以上、否定するのは不可能だった。
部屋を出る直前、銀は思い出したかのようにこう言い残した。
「最後の敵が来るのは三日後。それまでに願い事を決めといてね。どんな願いであれ、君にはそれを叶えられる才能があるんだからさ」
そうして銀は部屋を後にする。
何も言えない真を残して。
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