第七話 「花蘇芳」

 街の通りを走る影があった。

 地元の高校の制服を着た女子は、雨が降っているのにも関わらず傘をさしていなかった。出血している左腕を右手で押さえ、足を引きずるようにして移動していた。髪は乱れ、制服は雨で濡れている。必死な形相はまるで何かから逃げているようだった。

「はぁ……はぁ……。どうして、私がこんな……」

 少なくとも彼女自身にこんな目に遭う覚えはなかった。原因不明で倒れ、やっとのことで退院したその直後のことだった。携帯は繋がらず、近くを通る人はまるで自分が見えていないようだった。話しかけても、肩を揺さぶっても反応がない。

 不意につんのめり無様に転ぶ。見れば右肩が真っ赤に染まっていた。直後に灼ける様な痛みが走る。

 このままじゃダメだ。焦る思考をどうにか回して大通りから路地に曲がった。ゴミ箱を蹴っ飛ばしながら、必死に何かから逃げる。

「うそ……」

 だがそこは行き止まりだった。背後で足音が聞こえる。

 それだけで全身が跳ね上がる。

「い、いや……来ないで……」

 後ずさり、何もない所で転んだ。地べたに尻を付けながらも必死に後退する。

 それは何も言わなかった。黙って近づき、銃口を口の中に押し込む。

 その時だった。

「おい。テメェ何をしてる?」

 声がした。押し込んだ銃口はそのままに後ろを向く。赤い髪が暗闇の中で浮いているようだった。

 突如銃を持つ誰かが消えた。赤い髪をした人物は一瞬訝しそうにするも、それが逃走した後であることに気付き舌打ちをする。

「おい、大丈夫か?」

 仕方なしにそこに座り込む女性に話しかける。まるで壁にもたれかかるように地べたに座りこんでいる。恰好からして高校生といったとこだろうか。全身から軽薄さが滲み出ている様だと思う。

 だが、声をかけても反応はない。泡を吹きながら何かを呟いていて、目も左右で見ている所が違った。

「……あのクソ野郎」

 そう呟くと何かを振るった。直後にゴトンと何かが落ちる音がする。

 その様を見るとその人物は特に気にすることなくその場を後にした。赤い髪は雨で濡れ、撥ねた部分には水滴がついているのだった。



 健治がいなくなってから雨が降り続いていた。

 天気予報ではしばらくは雨が続くと言われ、テレビに出ているキャスターは早めの梅雨ですかね、と首をかしげながらそうコメントした。

 真は鬱陶しく降り続けているそれを頬杖をついてぼんやりと眺めていた。

 健治はあの日以降学校にも来ず、完全に行方が分からなくなっていた。

 一時期はあの真面目な健治が欠席していることに、それこそ天変地異の前触れとでも言わんばかりに騒ぎになったが、流石に三日も経つとわざわざ口に出す人物はいなくなった。

 それよりも隣のクラスで殺人事件があったことに注目が集まっているからだ。

 黒斗は黒斗なりに思うところがあるのか最近は話しかけてこなかった。

 あの日どうして何も言えなかったのか、言い返せなくてもどうして後を追いかけなかったのか、後悔と健治の安否からくる不安で頭がごちゃごちゃになる。

 だが、それよりも何もできない自分に腹が煮えくりかえっていた。

(ほんとに……なにしてるんだろ、俺……)

 その時、視界の端で何かが光った気がした。

 慌ててその方向を向くと、少し離れたビルの屋上でもう一度何かが光るのを確認できた。

 外は薄暗いからなのかやけにはっきりと見えた。

「いま、なんか……っておい真!?どこに行くんだ!?授業始まるぞ!」

「悪い黒斗!早退する!先生に上手く言っといてくれ!」

「上手く言えって、おい、真!」

 黒斗の制止を最後まで聞かずに教室を飛び出た。

 雨に濡れることなんて頭になかった。



「本当ならおせぇって怒るとこだが、そんな姿されたら言えねぇな」

「ハァ……ハァ……ハァ……悪い……」

「ったく、危うく帰りそうになったぜ」

 真が今いるのはさっき見えたビルの屋上、ではなくその中にある一室だった。

 そこはもぬけの殻で、以前いた人間が使っていたのか事務用の机と椅子が部屋の片隅に積み上げられているだけだった。

 茜はそこの端の方に置かれた椅子を勝手に持ち出し腰かけると、不法侵入しているのにも関わらずのんびりした様子で背伸びをする。

 お腹を大きく露出させた英語のロゴが入ったTシャツの上に赤色のパーカーを羽織り、ズボンもまた太ももを大胆に露出させたジーンズと随分派手な恰好だった。

 全力で走って乱れた息を整えると、真はこう尋ねる。

「それで、いきなり何の用だ?」

「健治がいなくなったってのはホントか?」

 質問を質問で返され、言葉に困る。

 そんな様子を見て茜は苛立つように髪を掻きむしると、

「あのクソ野郎、まさかと思ったが……」

「な、なぁ!あなたなら何か知ってるんじゃないか?」

 そう聞かれると、大きく溜息をつき、

「それがあのクソ野郎、ご自慢の力に加え、あちらこちらに痕跡をわざと残していってやがっていやがる」

「てことは……?」

「全くダメだ。現状アイツを見つけんのは無理だな。それとアタシも何も知らねぇ」

 そうか、と小さく呟くが内心どこかそうなんじゃないかとは思っていた。

 あの健治がそう簡単に見つかるはずがない。

 それに、彼女に対して何か言っているとは思えなかった。

「さて、と、アンタこの後暇か?」

 唐突に茜がそう尋ねてきた。

 あまりに急な提案に驚き、慌ててうなずく。

「ん、なら行くぞ」

「え、ちょっと待てよ!どこにだ⁉」

 つかつかと先を行ってしまう茜を慌てて真が追いかける。

 するとピタリとその足を止めた。

「よく考えてみたら、アンタの名前知らねぇんだよな」

「……竹内真」

 名乗れと言わんばかりの態度に、真はひとまずそう答える。

「真か。アタシの名前は若海茜。茜でいい。よろしくな」

「お、おう……」

 満足したのか、返事を聞くと先ほどのように歩き出す。

 雨はまだ、止むことはなかった。



「ほら、早くしな。行先は上浦町だ」

「上浦町……?」

 切符を茜に渡され、ホームについてからやっと行先を言われた。

 上浦町は東側の川を渡った先にある比較的小さな町である。

 この町とは対照的に以前は機械の部品を製造していたが、戦後変化していく世の中についていけずに多くの店が潰れ、今ではかつて働いていた老人が住民の半数を占めていると聞いていた。

 角丘市を挟んで反対側に位置する横山市と違い完全なゴーストタウンになっていないとも聞いている。

「何か用でもあるのか?」

「いや、アンタに見したいもんがあってさ。こうなった以上、洗いざらい話しておこうって思っただけだ。ま、詳しい話は着いたらな」

 平日だからか電車の中は人が殆どおらず、この車両には老人が二人だけ乗っていた。

 茜は入ってすぐ右にある椅子に座ると、無造作に足を投げ出した。

 だが真は座ることなく茜の左側に立っているだけで、座ろうとしなかった。

 しばらく不思議そうに眺めていたが、様子を窺がいながらゆっくりと一つ右にずれる。

 真が申し訳なさそうに空いた席に腰を落ち着けた。

「……アンタ、もしかして人の右側にいられない、のか?いや、言い方がおかしいかこれじゃ……」

「大体合ってるよ」

 しばらく黙ったのち、真は一つ大きくため息をつくと、

「……どうせだから俺のことでも話しておくか」

 そうして語られた話は、なんてことないはずだった、一人の少年の人生だった。



 俺の家は四人家族で、真面目な父親と、明るく優しい母親、そして俺と少し気の弱い弟で構成された、なんてことないごくありふれた家族だった。

 だけど、ある時交通事故で母と弟が死んだ。よくある居眠り運転が原因だった。

 その日は家族で旅行に行っており、運転席に父、助手席に母、その後ろに弟、隣に俺がいた。

 その時はいつもとは弟と席が逆だった。弟がどうしても嫌だと駄々をこねたから仕方なく席を交換したんだ。


 結果として俺は弟に命を救われた。


 だけれど罪悪感は消えてなくなることはなくて、その日以来他人の右側にいられないという奇妙なトラウマが根付いた。

 残された父と二人引っ越し、父は失った二人のことを忘れようとするかのように必死に働いた。

 一人でいることが増えた俺は人を恐れてか段々と人見知りをするようになり、気が付けば他人と全く話さない不気味な奴に成り果ててた。

 当然だけど他のクラスメイトがこれを見逃すことはなく、結果としてかなり酷い虐めを受けることになった。先生でさえこれに加担していた。

 父に相談することもできず、こうなったのは自分のせいなんだと半ば諦めていた。

 そんな自分を助けて出してくれたのが健治だった。



 駅に着き、改札口を通って外へと出る。幾分か雨は弱くなっているものの、それでも雲が晴れることはなく、淡々と雨が降り続いていた。

 真は懐かしそうに笑いながらこう話す。

「あいつ昔は凄い口が悪いくせに変に真面目でさ。ほら、あれだよ、小さい頃によくある正義感ってのかな。それが刺激されたみたいでさ」

「あれがあーなのは昔からだったのかよ……。めんどくせぇやつだな……」

「それは正直否定できない」

 真は笑いながらそう言いつつも嬉しさをにじませながら、「でも、凄い助けられた。からかってくる奴らを片っ端から殴り飛ばしてさ。しかも「うるせぇブン殴るぞ」って言いながらさ。もう殴ってるのに」

 真の表情が真剣なものになった。

「そうやって体張って何度も助けてくれたんだ。ホントに何度も何度も。だからあいつにはすっごい感謝してるし、尊敬してるんだ」

 だから、と言って言葉が続かない。

『俺は、お前が死ぬほど嫌いだ』

 その言葉が頭の中で反芻した。

「ほんっとにアイツらしいな……」

「……まぁそのおかげで俺に対するいじめは収まった。俺もこのままじゃいけないと思ってなぁなぁでやってた剣道を本格的に始めて、健治は口調を変えて急に真面目になって、今では高校で生徒会までやるようになった。俺は途中で剣道辞めちゃったけどな」

「そんで、今に至るってわけか。アンタもなかなかに大変だったんだな。そういうのには無縁の坊ちゃんに見えたけど」

「ま、虐められてたのは殆ど俺に原因があったし、健治とも仲良くなれたし結果的にはよかったとは思ってるよ。あまりいい思い出ではないけど」

「そっか。さてと、着いたぞ」

 着いたのは住宅街の一角に佇む建物だった。

 やたら駐車場が広いこと以外は特に目立つものはない。

「連れてきたかったとこって、ここのことか?」

「まーちょっと違うんだけど、とりあえずついて来い」

「お、おう……」

(それに手に持ってるのって、お菓子、だよな?)

 さっきから気になっていたことだが、会ってからずっと茜は両手に袋を携えていた。

 大きく膨らんだそれにお菓子がぎっしりと詰め込まれている。

 尋ねたかったが、正直まだ怖いのでおとなしく後に続いた。

 中は外観よりもずっと綺麗だった。暖色系の照明を使っているのもあるが、クリーム色の壁に木目調の床がその効果をぐっと高めている気がする。

 やたら小さい靴の並ぶ棚に自身の履いていたそれを入れ、我が物顔で進む茜に続いて中へと入っていく。入り口にあったカウンターは無人だった。

 そうしてとあるドアの前に立つと、袋の一つを真に押し付けノックすることなくドアを開けた。

「元気にしてっか~?」

 初めて聞く明るい声に驚きつつも中を覗くと、幼稚園児くらいの小さい子供が十人ほどいた。

「あ~!赤毛のお姉ちゃんだ~!」

「お菓子持ってる~!ちょうだいちょうだい!」

 どうやら顔見知りらしく、茜だと分かると駆け寄ってきた。

 あっという間に人だかりができる。

「ちょ、これどうしたら⁉」

「いいから適当に配っとけ。アタシは挨拶してくっから」

 もう一つの袋も押し付けられ、子供たちが真に集中する。

 その隙に茜は奥に座っている年配の女性に声をかけた。

「いきなりすいません」

「気にしなくていいのよ。貴女が来てくれると皆も喜ぶから」

 その見た目通り優しい声だった。柔らかく微笑むと真の方に目を向ける。

「彼はお友達?」

「ええ、まぁそんなところです」

「そう。真面目そうな子ね」

「だと思います」

 するとお菓子を配り終えた(強奪された)真がよろよろと二人の所に来た。

「なーに取られてんだよ」

「いや、思ったより力強くて……あとめっちゃ彼氏かって聞かれた……」

「ま、そういうのが気になる時期だからな。気にすんな」

 真は思い出したかのように年配の女性に挨拶をする。

「あ、初めまして。竹内真って言います」

「真君ね。お菓子を持ってきてくれてありがとう」

「あ、いえ、別に──」

 茜に渡されただけです、と言おうとしたが泣き声で遮られる。

 見るとお菓子の取り合いをして喧嘩してしまったらしい。

 それを見て茜が「仕方ねーなー」というと子供たちの元に向かう。

 泣いている子を宥めている様子を眺めていると、先ほど挨拶した女性から話しかけられる。

「あの子、よくお土産持って遊びに来ては、ああやって面倒見てくれるの」

「そうなんですか」

 相づちを打ちながら足元に座り込む。

「本当に助かっているわ。おかげで他の職員の手が空くから、その間は別のことができるのよ」

 少し空いたドアからチラリと顔を覗かせる人物がいた。どうやら例の職員らしく、目が合うと小さくお辞儀された。

「ここがどこだか知ってるかしら?」

「えっと……」

「まぁ普通は知らないわよね」

 バツが悪くなり「すんません」と小声で言う。

「いいのよ。知らない方が良いもの。ここはね、児童養護施設って言って、家庭の事情で親と離れた子たちが、一人立ちするまで援助する場所なの。だからあれくらい小さい子からあなたと同い年の子が同じ建物で共同生活しているの」

「あれ?でもそれなら他の人は?」

「今日は平日よ。皆まだ授業中」

 クスクスと笑われ、学校をさぼっていることを思い出した。

 制服を着ているからそのことにも気づいているのだろう。だけどそのことについては何も聞いてこなかった。

「茜ちゃんは口も悪いしあんな見た目だから、多分誤解されることもあると思うの」

 その声色は本当に心配しているようだった。

「あの子が友達を連れてきたのはあなたが初めて。だからなんだけど、良ければあの子と仲良くしてちょうだいね。他の人に自慢できる、本当にいい子だから」

 子供に囲まれ笑う姿は初めて会った時の面影はどこにもなく、そのことにただただ困惑するのだった。



 一時間くらいだろうか、外は相変わらず薄暗く、雨はやんでいなかった。

 真と茜は傘を差すと施設を後にする。

「それで、聞きたいことあんだろ?」

 敷地を出た直後に、茜がそう尋ねた。

 真は「あ、あぁ」と答えたきり何も言わない。

「ま、そりゃいきなり連れてこられてガキ共の面倒見せたんだから、戸惑うのも無理はねぇよな」

 軽く笑い飛ばすと、茜は再度こう尋ねる。

「変だと思うか?アタシがガキの面倒見てんのは」

「いや、なんというか、意外だった」

「意外、か。まぁ間違っちゃねぇか」

「定期的に訪れてるって聞いたけど、どうしてだ?」

「簡単な話だ。あいつら皆アタシが保護したんだからな」

「保護?どうやって?」

 唐突に足を止め、振り返る。

 その目は昏く、冷ややかな光が灯っていた。

「……ま、知らぬが仏ってな。聞きたきゃ教えるがどうする?」

「いや、今はいい」

 そっか、と言うと茜は再度歩き始める。

 住宅街は息をしていないように静かで、雨が傘を打つ音と足音以外は何も聞こえなかった。それは初めて迷い込んだ空間とは違い、どこか寂しさを混ぜ込んだような静けさだった。

 二人は黙ったまま歩き続けた。駅とは反対側で、明らかに別の目的地へと向かっているのだけは分かった。それでも土地勘がないため見当がつかない。

「着いたぞ、開けるから少し待ってな」

 そこは工場の横にある小さな建物だった。

 さび付いた看板に書かれた文字は読むことができない上に、引き戸のガラスは汚れていて中が見えない。

「んじゃ次はアタシの番だな」

 引き戸を開け、真を中に入ると彼女は自身の生い立ちを話し始めた。



 アタシの家は昔からある小さな町工場だった。

 精密部品なんかを作っては大手の会社の機械に使われて、注文があればまた新しい部品を作るといった、まぁそんなとこ。

 戦前の頃からこの辺りは工業が盛んだったってのもあるみたいだな。

 まぁそんな感じで、代々続くいわば老舗の一人娘としてアタシは生まれた。

 実際家はかなり裕福だったと思う。小さい頃は欲しいものは大体買って貰えたし、お小遣いだって比べたことがねぇから分かんないけど、他の家よりは多かったと思う。

 父は職人気質な性格で、そんな父を大人しい母がいつも笑顔で陰ながら支える。

 アタシから見ても理想の夫婦だった。

 近所でもアタシはそれなりに有名でさ。色んな人に可愛がられて、愛されて育った。

 でもある時、常連だった会社から突然契約を切られた。

 後で調べたら最近の不景気のせいで、事業を撤退することになったらしい。

 そういうのは連鎖するみたいで、次々に契約を破棄され、あっという間に仕事は無くなった。

 まぁ無残なまでに転げ落ちたってわけさ。


 光の差さない部屋でそう語る茜は、まるで他人事のような口ぶりだった。

 今朝見たニュースのこととか、他の人の他愛もない噂話とか、そういった感覚で。

 そんな風に話す茜の表情はどこかおかしそうに笑っていた。

「そっからが大変だった。最初の方は父さんも必死に営業とかしてたけど、それでもだめだった。壊滅的にそういうのに向いてなくてさ。しばらくしたら家に引きこもって酒ばっかり飲むようになった」

 くだらなそうに笑いながら話を続ける。

「母さんも母さんで何もできないみたいでさ。ニコニコしながらただオロオロしてるだけ。

まぁそういうのに慣れてなかったんだろうけど。そりゃ普通はこんなことにはならねぇわけだし」

 はは、と笑う茜の口ぶりはどこか痛々しく映った。

「そんな時だった。今でも覚えてるよ。冬の凍えるような寒い夜だった。その時には電気もガスも水も止められてて、まさしく身を切るような寒さの中。アタシはあの野郎と出会った」


 

 その日は不思議なほどに月が透き通った夜だった。

 街灯の灯りをも呑み込むほどの青くて白い月の光が夜の黒に静かに浮かんでいた。

 寒さに震えながら寝ていたアタシは唐突に吹いた冷えた風で目を覚ました。

 いくら寒いからと言って風が部屋を通り抜けるなんてことはあり得ない。そう思って布団から体を起こし窓の方を見ると、

「やぁ初めまして。夜遅くに申し訳ない。ちょっとばかり君に用事があってね」

 月の光を反射して煌めく髪に、宝石のように綺麗な瞳。一瞬この世の人とは思えなく、その姿は魅惑的な存在感を醸し出していた。

「あなたは……だれ……?」

「僕の名前は、そうだなぁ……。これといってある訳ではないけど、とりあえず「銀」と呼んでもらえると嬉しいな。他の人からそう呼ばれてるんだ」

 そう言って微笑むあの野郎に当時のアタシは魅入られていた。

 夢なんじゃないかって思ったさ。

 布団に包まりながら恐る恐る質問をしてみた。

「……なんのよう?」

「僕は君を助けに来た、いや、今の現状を変えるための力を君に与えるために、ここに来たって言う方が正しいかな」

「ちから……?」

 アタシはそう返すのが精一杯だった。

「そう、理不尽な現実を、不条理な世界を変えるための力。それを得る資格を君は得た。だからこそこうして僕が来たんだよ。君を正義の味方にするためにね」

「せいぎの、みかた……」

 質問を繰り返すだけで、まるで現実にいる気がしないでいた。

 どこか遠い国に迷い込んだかのような、昔読んだ絵本の世界のおとぎ話みたいな話。

 あの野郎はまるで歌うかのように話を続ける。

「そう。悪を倒し弱き人々を助ける。まるで物語のような話。空想のものでしかないヒーローに君はなれるのさ。勿論タダとは言わない。一つ、なんでも願いを叶えてあげる。契約としては凄くありきたりなものだけどね。どうだい?なってみないかい?」

 そういってあの野郎は手を差し出した。

 アタシは少しだけ躊躇うも、その手を取った。

 悩む理由なんて何もなかった。

「さぁ若海 茜よ。君に問おう。君は何を望む?何を持って英雄となる?」

「……私は」

 小さく息を吸うと、しっかりと前を見据えた。

 冷えた空気が胸に満ち、鋭く小さな痛みが走る。

「私は、父さんの、いや家族の助けになりたい。ただ見てるだけじゃなくて、私が家族を助けたい!」

 重なる手が温かな光に包まれた。

 鼓動が一気に高まり、見えない何かが全身に広がっていくのを感じる。

 やがてそれは首元でひと際大きなうねりを発すると、急激にしぼんでいった。

 そこから先は何も覚えていなかった。

 気が付けば朝になっていて、洗面台の前に立った時に首筋に入った紋様に気がついたのだった。



「とまぁそんな感じでアタシは契約したのさ。確か一昨年とかそこらへんだったかな」

 茜は思い返すように、紋様のある首筋を撫でる

 雨は止まず、太陽が地平線へと沈んでいっているのか、薄暗さがより一層強調された。

 茜は暗いな、と呟くと近くのスイッチを操作した。すると天井にぶら下がっていた裸の電球が二度三度点灯すると、陰に染まる部屋を照した。

 真は恐る恐る入った部屋を改めて見回す。さっきまではよく見えなかったが、思ったよりも部屋には物が多く残っていた。何かしらの部品や、見たこともない金属。円柱形の金属製の容器や古くなったパイプ椅子などがみな一様に埃をかぶっていた。

 掃除しとけばよかったか、と呟くと茜は近くにあったパイプ椅子の埃を手で払うと、どかっとそこに座り込んだ。ギチギチギチ、とさび付いた部分が音をたてる。

「じゃあ、茜は契約してから結構経つのか」

「ま、そうなるな。実際あっという間だったよ。それからも色々あったし」

 早いもんだよなぁ、と呟きながら椅子を傾けながら天井を見上げた。

「当時のアタシはそりゃもう必死でさ」

 話を再開する。

「初めての敵は怖すぎて逃げ出したし、初めて倒せたのは三度目、しかもかなり弱い敵だった。そっから毎晩こっそり抜け出しては戦って、そうやってすこしずつ強くなってった」

 アタシが得た力はまさしく起死回生の一手となりうるものだった。

 少し時間はかかったが大手一流企業の社員がこぞって父さんのところに訪れ、非礼をわびた。そして以前と同じか、それ以上の条件の契約を再び交わした。

 家は瞬く間に豊かになり、父さんも母さんも昔に戻った。

 正直、嬉しかった。誇らしかった。アタシが二人を助けたんだって。

 他の多くの人々を助けながら、アタシは優越感でいっぱいになってた。

 この力は正しいんだって。だってこんなにも大切な人を幸せにできるのだから、と。

 だけどそんなのは幻だった。

 砂上の楼閣のようにひどくもろく、そしてとてもあっさりと崩れ落ちた。


 父さんに全てを知られたのだ。


 それも当然だった。なにせ父さんは当たり前の、それこそ前と何も変わらないものを作っているのに、周りはまるで見たことのないもののように語るんだ。不審に思われても仕方はなかった。

 父さんは夜中アタシに内緒で工場を見張ると、何も知らずにいつも通り来たアタシを目撃した。

 当時のアタシは気づかなくてさ、一仕事終え浮足立ったまま敵と戦いに行った。

そして帰ってくると、血まみれになって倒れてる両親の姿があった。



「……」

「そこからが大変だった。色々と面倒なことになってさ、まぁ当時の仲間に助けられてひとまずはどうにかなった」

 茜の声が僅かに変わる。

「結局、アタシのわがままで家族が死んだ。独りよがりの正義感に酔いしれて、目の前にあるものちゃんと見えてなかった。身の丈を超えた奇跡は必ず破滅に繋がってるって知っておくべきだった」

 そう言うとこちらの方を向いた。

「もうあんな目に遭うのはアタシだけでいい。同じような考えのやつが潰れていく様を何度も見てきた。これ以上同じ理由で傷つく奴がいることがアタシは嫌なのさ」

 だから、あの日健治に強く当たったのだ。

 別に単に気に食わないだけではない。その願いはやがて自らでさえ傷つけるものだと誰よりも知っているから。

 その道の先には何もないことを分かっているから。

 だからこそ、厳しい言葉をぶつけたのだ。

「でも、どうしてそれを俺に?」

「アンタはまだ間に合うからさ」

 そう言うと茜は小さく笑った。

「大方英雄になる理由が見つからなくて躊躇ってるんだろ?確かにアンタには才能がある。それもアタシらとは比べられない程のもんだ。だけど、今のアンタはなるべきじゃない」

「どうして?」

「簡単な話さ。英雄ってのはなりたくてなるんじゃない。ならざるを得なくて、なるしか他に道がない奴がなるものだ。だけど今のアンタにはそれがない。せいぜい誰かのために願いを叶えようとか、その程度の願いしか持ち合わせていない」

「それのどこが悪いんだ?」

 どこか健治を馬鹿にするような言い方に真が噛みつく。

「人の心は変わるのさ。不変な感情なんてもんはねぇ。まして願いを力に変える英雄が、そんなもんに頼るようじゃいずれ限界がくる。どう転んだって待っているのは悲劇だけだ」

「だけど……‼」

「誰かのために戦うのは構わない。でも誰かのために英雄になることだけは絶対に避けなきゃいけねぇ。それがどんなに尊いものであれ、感動的なものであれ、人は必ず変わる。それが人だからだ」

 そう言い切ると、真剣な表情が和らいだ。

「今日ここに連れてきたのはそれが伝えたかったからだ。だから何があっても英雄になろうとするな。願いを探しているうちはアンタに英雄になる資格はねぇよ」

 返す言葉もなく、真はただ聞いていることしかできなかった。

 雨は止まず、外は変わらず薄暗いままだった。



「……あなた、一体なにをしてるの?」

 鈴がそう声をかける。相手は健治だった。

 健治が家を出てから既に一週間が経過している。

 その目には明らかに疲労が見えた。

「……こんなことをしても彼女は帰ってこない。それはあなたにだって分かっていることでしょ」

「うるせぇな。お前には関係ないだろ」

 健治の口調はいつもとは明らかに異なっていた。

 風に揺られた木々の葉がざわめき、二人の髪を大きくなびかせる。

「……いいえ関係あるわ。真が心配してるもの」

「は?あいつは今関係ないだろ」

 その口調には明らかな敵意があったが、彼女は特に気にする素振りを見せない。

「……あなたがどう思おうと彼は心配している。だから早く元の生活に戻りなさい」

「何様だよお前?あいつのことでも好きなのか?」

「……ええ。それが何か?」

 あまりに堂々とした告白だった。

 流石の健治も言葉を失う。

「……私は彼が苦しむのが嫌。だからあなたがいなくなっては困る。ただそれだけのことよ」

 風が木々を強く揺らし、辺りにいたカラスがけたましく鳴いて飛び去った。

 健治はじっと鈴を見つめると、短く尋ねる。

「──やっぱり知ってたのか。このこと」

「……ええ」

「……そっか」

「……分かったのなら、早く戻りなさい。今からでも遅くはないはずよ」

「お前、本当はいいやつだったんだな」

 そう言われ鈴は訝しそうに彼を見つめる。

 その口調はさっきまでの苛立っているものではなく、どこか穏やかで、そうまるで死期を悟ったような──。

「──!あなたまさか!」

「すまん」

 次の瞬間健治の姿はそこにはなかった。大方自らの力でも使ったのだろう。こうなってしまったら鈴でさえ追うのは難しい。

「……彼……既にもう……」

 一人残された鈴はそう呟く。

 辺りには人はおらず、ただ風だけが悲しく鳴くだけだった。



「さて、とそろそろ帰るか。悪いな遅くなっちまって」

「いや……気にしなくていい」

「そっか。帰り送るよ。ここら辺の道分かんねぇだろ」

 外の雨はまだ止んでいなかったが、それでも弱まっていた。

 この調子なら今晩中に止むだろう、と真はそう検討をつける。

 二人は無言のまま路地を歩き続けた。

 前を歩く茜の背中をぼんやりと眺めていると、

 

 突然、鈍い衝撃が真の体を貫いた。


 それは一点を貫くような鋭さはないものの、全身を均等に打ちのめすような、水面にたたきつけられたような感覚に似ていた。

 真は咄嗟にある方向を向く。茜も気が付いたのか同じ方向の匂いを嗅ぐ素振りを見せる。

「茜、これって……」

「あぁ、間違いねぇ。敵だ」

 そう言うと一瞬で英雄としての姿に変身した。

 手にしていた傘を真に渡すと、

「悪いが、ここからは一人で帰ってくれ」

「分かった。……気をつけてな」

「……ったく、分かってるっての」

 そう言うと茜は勢いよく飛び出して行き、やがてその姿は見えなくなった。

 真もまたその後を追うように急いで駅までの道を走る。

 雨は、まだ止まない。



 一足先に行く茜は町に入って改めて事の大きさに気が付いていた。

(この距離でこの匂い……こりゃマジでやべぇかもな)

 茜の英雄として特化しているのは嗅覚だった。町に漏れる敵の匂いを瞬時に判断し、どこにいるのか的確に判断できる、といったものだ。

 ただ実際は関係ないが天候に左右されやすく、特に雨の日では全力の半分程度しか鼻が効かない欠点がある。

 それなのに、この匂いは明らかに異常だった。正確な位置が把握できないほどに広範囲に広がっている。

(正直、このレベルは初めてだ……)

 彼女の経験上、敵の強さは匂いの強さに比例する。

 今までの敵でも半径一kmが限度だった。だが今回の敵は軽く見積もっても数kmの範囲を覆っている。

 だとすると、この敵の強さは文字通り次元の違う物になる。

 茜はそんなことを考えつつも町の中心へと向かっていた。とりあえず中心に行けば方向ぐらいは分かるかもしれないからだ。

 ビル群の一つに降り立つと、全神経を鼻に集中する。

「この感じだと、敵は駅、か?」

 匂いの発信源は駅の方からだった。このままだと真と鉢合わせするかもしれない。

 あいつ一人じゃ危険極まりない。そう判断すると急いで駅へと向かった。

 近くに降り立つと茜は変身を解き、人目を避け線路のフェンスを乗り越え、駅のホームに入る。

 だが、真が乗ったであろう電車はまだついていなかった。

 時間通りならとっくに着いている。不審に思い電子掲示板を見てみると、全ての電車が運転を見合わせていた。

 本能的に敵を遠ざけているのか分からないが、この際ならむしろ助かる。

 どうせだし、他の一般人も避難させるか、と思った所で茜はあることに気が付く。


 誰もいないのだ。乗客ならまだしも駅員の一人さえ見当たらない。


 このタイミングでの遅延は間違いなく予想できるものではない。普通なら不満げに電車を待つ人の列がいくつかあっても不思議ではなかった。

「どうなってやがる……?」

 茜にとっては助かることだが、流石に都合が良すぎる。

 とりあえず改札の方も見るか、と思ったが、ふと視界の端に何かが引っかかった。

 一瞬敵かと思い腰に手を当てるも、その正体が分かるとすぐさまその手を下した。

「なんだアンタか。つーか今までどこ行ってやがった?」

 そこにいたのは健治だった。

 健治はその問いには答えず、幾何学的な形をした椅子に座って項垂れていた。

 そういやコイツアタシのこと嫌ってたな、と思うと特に気にすることなく隣に腰かける。

 敵の匂いは間違いなくここを示しているが、空間はまだ現れていないようだった。

 現に健治が先に来て座っているのだから、既に移動した、という心配もない。

(ひとまず敵の空間が現れるのを待つか)

 茜はそう結論を出すとぐっと背伸びをした。

「そーいや、アンタなんで逃げてんだ?」

 返事はない。わざと大きくため息をつくと再度話しかける。

「真の奴が心配してたぞ?つーかアイツにくらいは連絡いれろっての」

「──」

「?どうした?」

「──あれはどうした?この前の」

「あぁ、あれか。始末しといたよ。どうせあれはもうダメだろうからな」

「……そうか」

「……ま、アタシがどうこう言えたことじゃねぇけどさ、一般人に手ぇ出すのはやめときな」

 数秒経って「分かった」と返事が返ってくる。

「んで、アンタなんで──」

「茜はさ」

「お、おう」

 声が重なり、つい質問を止めてしまう。

 健治は顔を上げないまま静かに尋ねた。

「英雄になったこと、後悔したことはあるか?」

「ねぇな」

 即答だった。

 一切の迷いのない返事に健治の体が微かに動く。

「そりゃあ色々あったけど、なったことだけは後悔してねぇ。なったことを後悔しちまったら、これまで犠牲にしてきた連中も救った連中も、全部無駄だったってことになるからな」

 ぼんやりと雨の降る外を眺めながら、茜は語る。

「人生どう進んでも結局後悔はするし、別の選択肢を選べばよかったって思うこともある。だからこそ、自分で選んだことだけは後悔しないってアタシは決めてんのさ」

「……それが、大切な者を失ったとしても、か?」

「だとしても、そうなった責任はアタシにある」


 自分のせいで両親は死んだ。

 自分のせいであの人は死んだ。

 全ては自分のせい。自分の弱さが生んだ結果だ。


 だからこそ、

「もがいて足掻いて苦しんで、例え悪夢にうなされても、そんでも精一杯生きるしかないのさ。それが残された側にできる唯一の贖罪だと、アタシは思ってる」

 死者は帰らない。

 英雄になった後ではその事実は変えられない。

 残された側にはその後を選ぶ権利があるのかもしれない。

 でも、後を追って何になろうか。慰め?免罪?供養?


 ──違う。

 そんなものはただの自己満足でしかない。

 そんなことを先に逝った者は望んじゃいない。

 そんなことのために、ここに残されたわけじゃない。

 これが正しいことではないのかもしれなくても。

 それでも、茜はそれが正しいと信じているし、そうであるべきだと思っている。


「……んで、いきなりどうした?」

 項垂れたままの健治にそう尋ねる。

 そこで敵の匂いが一層濃くなっていることに気が付いた。

「…………いや」

 顔を上げた健治は笑った。肩の力の抜けた、どこかホッとしたような笑み。

 訝しげに見つめる茜の表情が一瞬で変化する。

「────テメェ、まさか!」

 それは、あまりにも遅かった。

 遅すぎた。致命的なほどに。


「俺も、そんな風に生きたかった」


 最期にそう呟くと、彼の体が一瞬で消えた。

 突如巻き起こった風に茜は為すすべなく吹き飛ばされる。

 受け身も取れず柱の一つに打ち付けられる、息が詰まるもどうにか意識は保った。

 花びらが風と共に舞い、地面に落ちると瞬く間に枯れる。

 眩暈のするほどの激臭。それは英雄になってから嗅ぎ慣れたものだった。

(クソったれ…………‼)

 絶望に打ちひしがれる暇もなく、彼女の姿はそこから消える。

 そして、星井健治という人物は、文字通りこの世から消えたのだった。



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