第三話 「矢車菊」

 人で溢れかえる駅前の一角、円形のベンチに二人の少女がいた。

「相変わらずだな、アンタは」

 その少女は呆れた様子でベンチに腰掛ける。

「別になんだっていいでしょ?」

 もう片方の少女は鬱陶しそうに手で髪をなびかせるとそう答える。


「しかしまぁ、大したもんだな。昔となんら変わってない」

「そうでもないわ。つい最近見逃したばかり」

「アンタが?珍しいことがあるもんだ」

 驚いた様子で少女はそう言う。

「それで、突然何の用だ?約束はどうした?」

「はっきり言って私も不本意よ。だけど、ここ最近は何かがおかしいの」

「おかしい?」

 少女はそう聞き返す。


「この町に別の英雄が現れた」

「……それはホントか?」

「ええ。微弱だけど力が聴こえた。でも間違いなく相当な手練れよ」

「ありえんのか?大体アンタの感知に引っかからないヤツなんて初めて聞いたぞ」

「だからこそおかしいの。更にもう二人、感知できなかった人が現れた。しかもどっちも素養有り」


「……それで、アタシにどうしてほしい?」

 深刻な表情を浮かべそう尋ねる。

「簡単な話よ。あの約束が果たされた時、その二人をお願いしたいの」

「はぁ?あれが果たされることなんかねぇだろ?」

「だとしても、お願い」

「…………分かった。そん時は任せな」

 ひどく溜めてから、少女はそう答えた。

「ありがと。ごめんね、時間を取らせちゃって」

 そう言うと片方の少女が立ち上がる。

 だが、気が付いた時にはもう片方の少女はそこにいなかった。

 さっきまでいたであろう場所をしばらく眺めていると、少女は踵を返し歩き出す。

「そんなの、アンタらしくねぇぞ……」

 その背中を眺めながら少女はそう呟いた。

 赤い髪を揺らしながら、少女は人混みに消えたのだった。



 その日、真は職員室に呼び出されていた。

 呼び出した相手は凜道先生で、昨日真の家に行ったが、誰もいなかったことについて問い詰められたのだ。一応どうにか誤魔化すことができたが、それでも納得していたかは微妙なことだ。滅多なことが無い限り夜中に家を留守にしない真にとってここ数日の出来事はあまりに彼らしくなく、少しだが生活リズムが乱れている。

(遅くなりそうなら今日は同行するの辞めとくか……)

 連日真と健治は結衣に同行していた。一応自由参加という体なのか一人しか来なくても結衣は何も言わなかった。同行しても成り損ないの小型や空振りな日が多く、例の大型は現れなかった。そのことに物足りなさを感じつつも、街に危険がないことを安堵するだけだった。

 後で健治に伝えとくか、と思いながら廊下を歩くと、その先に見知った後姿が見える。目を惹く亜麻色の髪だけですぐに誰か分かった。

「和さん」

「わっ」

 抱えるノートの山がぐらりと揺れる。

 真が慌てて山が崩れないように手で押さえる。

「悪い」

「い、いえ。こちらこそすみません」

 うつむきがちにそう返す。適当に相づちを打つとノートの山を指さし、

「これって、課題?」

「は、はい。今日、日直なので……」

「これ一人で持つには多くない?手伝うよ」

「い、いえ!私がやるって、言ったので」

 一瞬声が上ずり、しぼむように声が消えた。

 真は頭を掻きながら「方向一緒だし平気平気」と言ってノートの大半を和から無理矢理取る。

「そ、その、ありがとう、ございます」

「気にしなくていいって」

 そう言って笑うと、前髪に隠れた表情も少しだけ柔らいだ。

 二人は自然と人の少ない方の廊下に向かっていた。和の声は小さいが、ここでなら十分に聞き取れる。

「最近は、その、皆さんどんな感じですか?」

「んー、まぁ普通?黒斗はまた課題追加されてひぃひぃしてるくらいかな」

「飯田さん、らしいですね」

「あれで赤点取らないんだから不思議だよなー」

「それは、羨ましいです……凄く……」

 どんなに勉強しても常に赤点か、それをギリギリ上回る程度の点数しか取れない和にとっては羨ましい限りなのだろう。

 実際真から見ても羨ましいと思う。

 真はどんよりとした空気を変えるために真が話題を変える。

「それで、健治はどんな感じ?上手くやってる?」

「け、健治君ですか……⁉」

 途端に声が大きくなる。無人の廊下にそれはよく響き、そのことに驚いた彼女の顔が真っ赤になる。

 それが恥ずかしかったのか丸まった背中が一層丸くなる。

「健治君は、いつも真面目で、私よりずっと勉強も図書委員としての仕事もできますし、とても助かってます」

「ホントに?迷惑かけてない?」

「い、いえ。全然です。むしろ私が迷惑かけてばっかりで……」

「そんなことないと思うよ」

 だってベタ惚れだし、と内心そう付け加える。

「それでも、もっとちゃんとしないといけないんです……。皆さんに、いつまでもお世話になってるわけには、いかないですから……」

 そう言って小さく「うん」と付け加える。

 それを聞いて真は「そっか」とだけ答えた。

 教室のある廊下の手前の曲がり角で和が足を止めた。

「ここまでで大丈夫です。ありがとうございました」

「え?でももうちょいだし教室まで運ぶよ?」

「それだと、その、目立ってしまうので……」

 例の一件で二人の関係はよく知られている。そしてまだ、そのほとぼりが冷めきっていなかった。

 まぁそりゃそうか、と納得すると真は抱えていたノートを乗せる。

 和は少しだけ顔を歪めたが、それでもどうにか立て直すと、

「それじゃ、また」と言ってその場を後にする。

 真は少し遅れて角を曲がった。少し離れた和の背中が教室に入るのを見送ると真も自分の教室へと入ったのだった。



 その日の放課後、真は結衣と銀と一緒に街に来ていた。

 と言っても特に何かするわけではない。適当に辺りをぶらつき、ほどほどな時間に解散するだけのもので、この場合は敵がいないことを示している。

 真には理屈が分からないが、結衣はこの町に敵が現れた際すぐに場所が分かるようにしているらしい。初めての際に見せられたあれはただのデモンストレーションで、実際はあんなことしなくてもいいのだと後で銀に教わった。

 だからか前を歩く二人はどこかのんびりとした様子だった。銀に至ってはあくびまでしている。

 そして一時間も経たない内に解散になった。結局、今日もまた結衣は一言も発さなかった。声を聞いたのは初めて同行した時だけで、それ以降全くと言っていいほど何も言わない。

 嫌われてるのかと心配になるが、同行させたり、待ち合わせ場所にちゃんといたりするのだから多分平気なのだろう。銀に聞いてもニヤニヤするだけで何も教えてくれなかった。


(案外難しいな……)

 一人考えながら自転車を漕ぐ。特に買う物もないし、寄る場所もないので真っすぐ家に帰った。家には誰もおらず、書き置きがないからまだ仕事なのだと判断すると一人夕食の準備を始める。

 今晩のおかずは唐揚げと決めると黙々と調理を開始する。和食が好きな真でも関係なく唐揚げは好きだった。調理の手間からここ最近は作れてなかったが、今日なら充分に足りるだろうと判断する。

 いつの間にか日が暮れ部屋全体が暗くなる。真は電気を付け調理を再開しようとすると、前触れもなく玄関の扉が開いた。

 ズカズカと一切の遠慮のない足音を聞いて誰だか即座に理解すると、大きくため息をついた。部屋の扉が勢いよく開く。

「お邪魔ー!」

 相変わらずのジャージ姿に真は頭を抱える。

「毎度言ってますけど来るなら一言ください」

「お、今晩は唐揚げか。いいじゃんお酒に合う!」

「全然聞いてないし……」

(多めに下ごしらえして正解だったな)

 調理しつつ横目で圭の様子を見る。ソファに横になりながらテレビを見ていた。自分の家かと突っ込みたくなるのを抑えつつ、真は唐揚げを揚げていく。

「なんだ、圭までいたのか」

 その声を聞いて真は再度扉の方を向いた。そこにはスーツ姿の父、竹内厳が立っていた。

 相変わらずの強面と、がっちりした体格、低めの声だけで職業がかなり限定できそうだと真は思う。警察官相手に指導を行えるほどの剣道の腕前に加えて、第一線で活躍し続けて得た風格は並大抵の物ではない。

「おかえり父さん。今日は早いね」

 そんな父に対して真は普通に接するよう心掛けた。変に気を遣うのもどうかと思うし、殆ど顔を合わせなくとも父はただ一人の家族だ。それなりに会話をすべきだと真は考えている。

 その父では締めているネクタイを緩めると、

「ここ最近は大した事件もなくてな。帰れるときは早めに帰るよう言われたんだ」

 そう言って圭が空けたスペースに腰かけると大きく息を吐いた。その様子を見て真は調理の手を一旦止めてお茶をグラスに注ぐと二人の元に運ぶ。

 二人は「ありがとな」「サンキュー」と言うと数度口に含めた。

「しかし、お前はなんというか、ここはお前の家じゃないんだぞ?」

「えー、でもしょっちゅう来てるし、合鍵持ってるし」

「それはお前が警察署にまで鍵を取りに来るから渡したんだ。そもそもそんな調子で先生が務まるのか?」

「圭さん学校にいる時は真面目だよね」

 台所に立つ真が口を挟む。

「こー見えて、私結構いい先生だから」

「自分で言うのか……」

 そんな二人の会話を聞きながら真は夕食の支度を終えると、テーブルに並べた。

「うまそー!」と声を漏らす圭の表情を眺めながら、真も自分の席につき手を合わす。

「いただきます」

 料理はあっという間に消えてなくなった。父もお腹が空いていたのか箸がよく進み、圭さんは食事の合間にビール缶を三本空にしてしまった。

「ご馳走さん。また腕上げたな」

「ほんと?そう言ってもらえると嬉しいな」

「ホントホント。将来いい旦那さんになれるぞ」

 ほろ酔いの圭が手に持つ缶を揺らしながらそう言う。滑舌が悪く、半分くらいは聞き取れなかった。

「圭、お前は今日泊まっていけ。そんな状態で帰らすわけにはいかない」

「えー?平気だってー」

「警察官として見逃すわけにはいかないんだよ。真、悪いが寝室に布団を敷いてくれるか?確か来客用のがあるだろ?」

「分かった」

 急いで寝室に向かうと元から敷かれてあった布団の横に新たに布団を敷く。いつも圭が来た際に使わせているもので、最近干したばかりだった。

 準備ができたのを確認し、呼びに行こうとすると父が圭さんを担いでやってきた。真は通り道を開けると、さっき敷いた布団に寝かせる。

 部屋の電気を消し、二人は元いた部屋に戻ると椅子に腰かけた。

「全く、あれで先生なのが信じられないな」

「まぁ色々あるんだと思うよ」

 真が苦笑しながらコップに入れたお茶を飲む。

 少しの沈黙の後、父が口を開いた。

「それで、学校はどんな感じだ?」

「別にこれといって特にないかな。いつも通りだよ」

「そうか。……それと、部活はどうするんだ?」

 少し考えると、「しばらくはいいかな」とだけ答えた。

「家事を任せっきりなのは悪いと思っているが、別に無理しなくてもいいんだからな?」

「平気平気。これでも楽しんでるから」

「それなら、まぁいいが」

 そう言いつつビールに口をつける。ほんのりと顔が赤くなっている。

「まだ早いが、進路はどうするつもりなんだ?」

「今のところは進学のつもり。でも特にやりたいことがあるわけでもないから、こう決めてに欠けるっていうか……」

「お金に関しては心配するな。母さんと貯めた貯金があるから、行きたいと思ったとこに行っていいぞ」

「分かった、ありがと」

「まぁ俺もお前ぐらいの年の頃は全然将来の事なんて考えてなかったから、悩む気持ちはよく分かるよ」

「ほんとに?」

 真面目なイメージが強い真にとっては驚きでしかなかった。

「昔は剣道ばっかやっててな、将来の事なんて微塵も考えてなかった。それが部活を引退していきなり目の前に現れるから面食らったもんだ」

「そっから警察官になろうって思ったの?」

「……まぁそんなところだ。このご時世大学ってのは就職を考えて選ぶ人が多いってことは他の同僚から聞く。でもな、やりたいことを見つけるために大学に行くのは俺は全然有りだと思う。それこそ高校生で具体的に進路が決まってるやつなんて殆どいないし、今決めるなんてもったいないからな」

「勿体ない?」

「せっかく選ぶ時間があって、選べる場所にいるんだ。そんな簡単に人生決める必要なんてないと思うし、やりたいことってのは探さなくても自ずと目の前に現れてくれる。そうじゃなくても探したり、色々試したりしてもいい」

 だからな、と厳は一言置くと、

「そのために大学に行くのはいいと思う。だけどやりたいことが見つかった時それができる環境がないと話にならない。だから今は勉強をして、少しでもいい大学に行ったほうがいいな。俺は結局高卒で警察官になったけど、どうしても苦労することが多かったから」

「うん、分かった」

 こうして父の話を聞くのは随分久しぶりのことだったし、身の上話なんて初めて聞いた。

(目の前に現れる、か……)

 話を聞いて真の脳内に浮かんだのは結衣さんの姿だった。凛々しく、逞しい姿。迫る敵に物おじせず、一般人を守るために人知れず戦い続けている。

 その姿に心が躍った。初めて、なりたいと思えるものができた。こんな自分でもそんな風にできたらいいなという気持ちはあの日以降段々と高まっている。

 だけど、本当にそれでいいのかと思う自分もいる。願いもなく、ただ戦いたい。英雄になりたいというだけでなっていいものではない気がする。

 叶えたい願いは、ある。だけど、それを本当に叶えていいのか分からない。果たしてそれを歓迎してくれるのか、それだけが気がかりで、だからこそ踏み出せないでいた。

 気が付けば目の前に座る父は眠ってしまっていた。押し入れから毛布を取り出すとそっとかける。

 父一人で俺をここまで育ててくれたことは感謝しかない。決して愚痴や弱音を吐かないけれど、俺の見えない所で相当な苦労をしているはずだ。

 もし願いを叶えたら父は喜ぶだろうか。多分、いやきっと喜ばない。それどころか怒るかもしれない。そんな風に育てた覚えはないと殴られるかもしれない。

「……はぁ」

 後片付けをしながら真は小さくため息をつく。

 すっぱりと割り切れない自分が腹立たしく、それでいて惨めな気持ちになった。



「今日はありがとうね」

「気にしなくていい。どうせ他にやることもないからな」

 その日、健治は和と共に駅近くのショッピングモールに来ていた。学校終わりの二人はともに制服でその手にはスーパーの袋が握られている。

「しかし、真といい買い物は一気にするものなのか?」

「うーん……人によると思う。普段はこまめに買い物をするんだけど、ここ最近は委員会で忙しかったから」

「なるほどな」

 健治もまたその委員会のせいで結衣に同行できないでいた。基本的に自由参加とはいえ連日顔を出さないのは申し訳がない。

「その、ね。あんまり無理しなくてもいいから」

 顔に出ていたのか和がそういう。

 健治は顔を横に振ると「そんなことない」と告げた。

「それよりも、今は図書館の利用率を上げる方法を考えないとな」

「そうだね……。健治君はどう思うの?」

「場所が悪い上に今時図書室を利用する人なんてあまりいないからな。本が好きでもない限り使おうとは思わないはずだ」

「それに今来ている人も自習が目的の人ばかりだし……」

 二人が抱えている問題の一つに図書室の利用率の低さがあった。それも学校ができて以来最低を記録していると先生から聞かされ、本格的に解決しないといけない状況になっている。

「何か目玉でもあればいいのだが……」

 そういう健治ですら図書室とはあまり縁のなかった。頻繁に顔を出すようになったのは和と知り合った高校からで、そもそも本をあまり読みもしなかった。

 そんな健治にとって図書室に行きたがらないことは良く理解できた。

「何か新しい本とか加えるなんてどうかな?」

「それも有りだが予算が少ない以上得策とは言えない。だが、それ以外に手立てがあるとは思えないし、再度生徒会で予算が増やせないか聞いておこう」

「そっか……。とにかく、今は頑張って考えないとね」

 和がやる気に満ちた顔でそう言う。

 健治にとってその表情は特別なものだった。人見知りが激しく、常に表情の硬い彼女だが、健治といる時はその表情がいくらか柔らかくなり、口数も増える。そんな姿を見せてくれることが健治にとってなによりも嬉しいことだった。

(一時期は大変だったが、ようやく元気になったみたいだな)

 手に持つビニール袋を持ち直す。和は徒歩で通学しているため、健治は自転車を近くに置き、歩いて和の家まで一緒に歩く。

 和の家は学校からそれほど遠くない。だが自転車通学が多いため歩いて通う人は殆どいない。いたとしても相当に近い人だけで、それでも全校生徒のほんの僅かしかいない。

「そういえば、飯田君の課題はどうなったの?」

 和にそう聞かれ健治は考え事を一旦止めた。

「真のやつが付きっ切りで面倒を見て終わらせたそうだ。かなりの量だったらしい」

「相変わらず面倒見がいいんだね」

「お節介というか、困っている人を放っておけない性分なのだろう」

 真はそのせいで終始元気がなかった。思った以上に黒斗が勉強していないらしく、終わらせるのにかなりの時間を有したらしい。あれでどうやって赤点を回避しているの問い詰めたい程だと、真が言っていたのを思い出す。

「そっちのほうはどうだ?何もないか?」

「うん。今のところは平気。クラスの人も仲良くできてると思うよ」

「そうか。それなら良かった」

 健治がほっと息を吐く。

「それでも、もし何かあったらちゃんと言ってくれ。いざとなったらまた味方になるからな」

「うん。ありがとね」

 その後二人は他愛のない話をしながら帰路を歩いた。主な内容は本について、あの本が面白かったとかあの場面がいいとか、とにかくそういった話だった。

 本の話になると和のテンションが一つ高くなる。最初こそついていけなかったが、今では対等に語り合えるほどに成長していた。

 和を送り届けると健治はその足で駅近くへと戻った。言うまでもなく自分の自転車を取りに行くためだ。

 その道中、健治は何も気なしに路地を曲がった。日が暮れるまでまだ時間があるが、真らがどこにいるか分からないため今から合流するのは難しい。携帯があれば簡単にできるだろうか、生憎機械関係にはとことん疎いため持ち合わせていない。

 そう考え物の試しに通ったことのない路地に行ってみようと思ったのだ。


「──ん?」

 ふと、足が止まった。そこは歯医者らしく、今は営業していないのか広めの駐車場には車が一台も止まっていなかった。

 こんなとこがあったのかと思いつつ駐車場を横切り、歩きながらぼんやりと建物を眺める。煙突や出窓があるためか随分メルヘンな造りだ。そんな見た目だからか明らかに浮いているし、新築だからか外壁も綺麗で余計に浮いている。

 しばらく眺めていると、裏手のドアが小さく揺らめいたように見えた。

(いま、何か……)

 気のせいだと思いつつも近づいてみる。何の変哲のないドアだ。人がいないのだから鍵がかかっている。

 はずなのだが、

「ん?」

 ガチャリと音を立ててドアノブが回った。試しにドアを引くと何故だが外壁が続いていた。

「いや、まさか……」

 そっと左手を伸ばす。まるで吸い込まれるように手が壁を貫通した。

(これ、まさか空間が……⁉)

 数歩下がり、慌てて辺りを見渡す。幸いなことに人の姿はない。むしろこれがあるから人の姿がないのかもしれない。

(結衣先輩を呼ぶ……?いや電話番号を知らないし、近くに公衆電話も見当たらない。探せばあるかもしれないが、これがここにあるということは見つかったことを敵も察知してることになる……) 

 健治はそう考えると、建物の傍に隠すように鞄を置いた。分かりにくい位置だがこれを見つければ三人が来た際、中に自分がいることがすぐに分かるだろう。

 左手に刻まれた紋様を確認すると、健治は意を決して中へと入った。



 そしてそのことを遠く離れた結衣も察知していた。

 今日もまたのんびりと町を歩き、もうそろそろ解散かなと真が思ったその時、突如結衣の動きが止まった。

「……?どうかしましたか?」

 どこか遠くを見つめる結衣に真がそう尋ねる。その様子をのんびりと眺めていた銀の表情が微かに動いた。

「まさか、誰か入ったの?」

「多分」

 そう言うや否や結衣と銀が走り出す。突然のことで驚きつつも真はその後を追った。二人とも信じられないくらいに速かった。

 そうしてたどり着いたのは住宅街の一角にある西洋風の建物だった。看板を見ると歯科医と書かれており、まだ出来て間もないのかクリーム色の外壁は周囲の建物より色が鮮やかだった。

 建物には電気はついていないが、特に張り紙も立て札もなかった。定休日なのかな、と思い入り口に近づくも今日は営業していることになっている。

「誰もいないみたいですね」

 真がそう言いながら結衣の方に近づくと、真剣な目つきで病院を睨みつけていた。

 隣に立つ銀が感心した様子で呟く。

「これ、とても上手くできてるね。ここまで上手く隠してあるのは初めて見たよ」

「隠す?何を?」

「空間さ」

 真が尋ねると銀がそう答えた。

 真はそう言われて再度病院を見つめる。綺麗な外観以外に特に感想が出てこない。

「これは分からなくて当然さ。それで、どう?」

 銀に尋ねられた結衣が静かに建物に近づく。そして裏手のドアの傍にある塀に近づくと身を屈め何かを持ち上げた。

「それ、健治の……!」

 結衣は銀にそれを渡すと一度真を見て、再度ドアに近づく。

「僕はここで健治が出てくるのを待つよ。二人は中に入って健治を探して」

「わ、分かった」

 真は慌てながらもそう言うと、結衣の元に駆け寄る。

「行くよ」

「は、はい」

 結衣の後に続いて足を踏み入れた。



 そこはヨーロッパにある城の中のようだった。大理石のようなものでできた壁や天井には細かな装飾が施され、置かれた花瓶や壁画、彫刻も美術館にあるもののように高貴な雰囲気を纏っている。窓からはなぜか光が差し込んでいて、廊下は割と明るかった。

 真はすぐ傍の花瓶にそっと触れて、驚いた。凹凸がなかったのだ。近くにあるものに触れてみると全て同じだった。

「なんだってこんな……」と真が呟く。結衣は辺りを一瞥すると少しだけ顔をしかめた。

「どうかしましたか?」

「遠い」

 どうやらこの辺りではなく、もっと奥に健治はいるらしい。

 結衣は瞳を閉じると、いきなり真の服を掴んで強引に壁沿いに引き寄せた。それは何かから身を隠すような仕草だった。直後に奥から何かが現れた。

「ブリキの人形……?」

 現れたそれを見て真はそう呟いた。昔テレビで見たクルミ割り人形によく似ていて、カタカタと動作こそぎこちないものの、その細い足で歩き線のような目で辺りを見ていた。手には先端に刃物のついたおもちゃのような銃を持っている。

 結衣はそれを一瞥すると、現れたそれとは別の方向に進み始めた。道は入り組んでいるが、前とは違い建物としての構造があった。それでも碁盤の目のように十字路がそこらへんにあるため、違った意味でどこにいるのか分からなくなる。

 それでも結衣の歩みに迷いはなかった。まるで正解が見えているかのように先を進む。

 そうしてたどり着いたのは螺旋階段だった。人が同時に三人、横に並んで降りることのできるくらいの大きさのものだった。

(あいつ、下に降りたのか……?)

 一応敵を警戒しつつ階段を降りる。結衣の歩き方は不自然なまでに音がしないので、見よう見まねで真似してみる。

 その後も同じように下へと降りていく。五回を超えた所で結衣はおもむろに部屋の扉を開いた。

「休憩」

 それだけ言うと傍に置かれた椅子に腰かけた。部屋の造りは外と同じだが、椅子と机、それとベットだけは実在するものだった。

 言われた通りにベットに腰かけほっと息を吐いた。

 健治の姿はどこにもなかった。その事が気がかりだが銃を持っているからもしもの際はなんとかできるだろうし、交戦したのなら結衣が気づくはずだ。

 休憩の間も二人は無言だった。結衣は瞑想でもしているのか目を閉じピクリとも動かない。なんとも居づらい空間だった。そもそも結衣さんと二人きりでいること自体が初めてで、どうしていいのか分からない。

「凜道先生とはどういう関係?」

 突然声がして肩が大きく揺れる。見ると結衣の瞳が真のほうを向いていた。

「親父の幼なじみなんです。その縁で何かとお世話になっていて」

 動揺しつつも真が答えると「そう」とだけ返事がくる。

 再び沈黙が始まった。とにかく会話をしないと、と思い必死に話題を探す。

「その、先輩ってどれくらい前から英雄をやってるんですか?」

 最初の言葉が予想以上に大きくなり、思わず自分自身で驚く。

 先輩は無言で真を睨みつけると、指で「6」と示した。

「そ、そんなに……」

 想像よりずっと長いことに真は言葉を失っていた。

「凄い……」

 思わず、そう呟く。

 結衣の体がピクリと動いた。どうやら聞こえていたらしい。

 真は慌てて言葉を繋げた。

「英雄としての技量や実力もそうですけど、そんなに長い年月英雄として活躍して、それで学校にも行って、部活もやって、それなのに全然偉そうじゃないし、いつも淡々としてるっていうか、常に冷静というか……」

 話しながら何を言っているのか分からなくなる。第一いきなり褒めていること自体が理解できていないのだから尚更によく分からなくなる。

「なんか、とにかく凄いってのはよく分かるんです。でも、どう凄いのか全然言葉にできなくて、なんて言ったらいいんでしょうね?」

 思わず苦笑するが、結衣の反応はない。

 一呼吸置いて、話を続ける。

「俺、その、あんまり得意なことがないんです。人にこう誇れるものがないっていうか、他人に自慢できることなんてなくて。昔剣道やってたんですけど、それも親父に言われてたからやってただけで」

 どうしてこんなことを話しているのか分からなかった。

 ただ、この人には聞いてほしいと、そう思った。

「だから、英雄とか敵の話聞いて、しかもその素養があるって聞いたとき、最初は困惑しましたけど、凄く嬉しかったんです。そんな風に言われたことがなかったから。自分にもこれだって胸張って言えるものが見つかったんだって、そう思えたんです。結衣さんからしたらいい迷惑かもしれないですけど」

 恥ずかしそうに頬を掻く。

「足手まといなのも、邪魔なのも分かってるつもりです。それに大変なことも辛いこともあるのも。それでも、俺は結衣さんと同じ英雄になりたい。結衣先輩みたいになりたいんです。だから──」



「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああ」



 それが、結衣から発せられたものだと理解するのに数秒かかった。

 そして、それがとてつもなく長い溜息だということに気づくのに更に数秒かかった。

 背もたれに思いっきりもたれ掛かりながら、整った髪の毛を掻きむしる。

「あーもうめんどくさい!辞めた辞めた!やってられないっての‼」

「え、あの、その……え?」

 いきなりのことで困惑するしかなかった。

 そんな真を置いて結衣は一人捲し立てる。

「大体なんで君がいたの⁉こっちだって色々事情とかあるから、学校の連中にはばれないようにしてたってのに!それがどうして空間の中にいたわけ⁉それに素養有りとかありえなくない⁉」

「す、すんません……」

 目を白黒させながらも、とりあえず謝る。

「しかも健治くんが英雄になりたいって言うからなんか面倒なことになるし、しかもそこそこに戦えるし、それでも英雄になりたくならないようにって冷たくあしらっても全然へこたれないし、しかも君までなりたいとか言い出すし、君たちホントにメンタル強いよね⁉ここまでくると逆に関心するよ!」

「あ、いや、はぁ……」

 どう反応していいのか分からず空気の抜けたような返事しかできなかった。

「全くさ、最初銀の馬鹿に言われた時はどうしたら諦めてくれるるか結構考えたんだよ?なのに一切意味ないとかありえないでしょ⁉」

 あーもー最悪!と天井に向かって大声で叫ぶ。

 何がどうなってるか分からない真は、とりあえず尋ねてみた。

「一つ、聞いてもいいですか?」

「なんでもどーぞ」

「えっと、結衣先輩、ですよね?」

「そうに決まってるでしょ。あと結衣さんでいいから」

 わ、分かりました、と答えて一つ咳ばらいをすると、

「それで、その、さっきまでのは?」

「何が?」

「いや、その、態度というか、表情というか、なんというか……」

「あー、あれ?演技っていうか外向け用の顔?みたいな感じ?」

「なんで疑問形なんすか?」

「だって意識したことないんだもん。昔からああしろって口酸っぱく言われて、それで身に着いただけだし、周りに近寄りがたいって言われるからしてただけ」

「あ、分かり、ました……」

 なんというか、これはこういうものだと処理することにした。

 突き詰めても多分というか間違いなく何も出てこないし、今は頭がショートしてて理解できる気がしない。

「それで、なんで急に変えたんですか?」

「言ったじゃん。全然諦めないから、冷たくあしらうのはやめたの」

 そう言うと音を立てて椅子から立ち上がった。

「君たちが英雄になりたいって言うなら、できるだけの事を教えてあげることにしたの。それならわざわざ猫被ったままにする必要ないし、こっちのほうが気が楽だし」

 そう言って弓を仕舞う。不思議に思った次の瞬間扉のある壁が崩れ落ちた。

 見るとブリキの人形が集まっていた。カタカタカタとけたましい音を立てている。

 真は慌てて剣を取り出し構える。対する結衣さんは完全に囲まれている状態なのに、一切動揺していなかった。

「ま、あんだけうるさくしてたら集まってくるわよね」

「いや、それ結衣さんのせいじゃ──」

「うっさい」

 そう言いながら結衣は真っすぐ突っ込んだ。弓も矢もない状態で、だ。


 そして群れの中心にいた敵を思いっきり殴りつける。


 ボコッ‼と鈍い音がしたかと思うと敵が紙屑のように吹き飛んだ。

 真が唖然としているうちに、次々に敵が吹き飛ばされていく。

 そしてあっという間に敵の残骸ができあがっていた。

 清々しいのか満面の笑みを浮かべながら真のもとに戻ってくる。

「あーすっきりした!君たちと知り合ってから全然できてなかったからね」

「……もしかして、こっちが本来の攻撃なんですか?」

「場合によるかな。敵にも矢が効かないやつとかいるし、そういう場合に使うの。あとは敵に囲まれてたり、矢を番えてる時間がなかったりする時とかね」

 信じられないくらい丁寧な説明だった。そもそもこんなに話していること自体が驚きしかない。

「ほらっ!さっさと行くよ!」

 残骸を踏み越え結衣がそう呼ぶ。

 何がなんだか分からないまま真はその後に続いた。

 辺りにいた敵はあれだけだったらしく、このフロアは静寂に包まれていた。

「なんか聞きたいこととかある?ないわけないだろうけど」

 先を歩く結衣がそう聞いた。

「なら、一つ気になっていたことがあるんですけど」

「なに?」

「その格好、恥ずかしくないんですか?」

 突然、結衣が咽た。

「だ、大丈夫っすか?」

 激しく咳き込むと、涙目の結衣が顔を上げた。

「き、君さ……、結構遠慮ないよね」

「すんません」

 んん、と喉を鳴らすと、

「そりゃ最初は多少は恥ずかしかったけど、でも人に見られることなんて滅多にないじゃん?そう思ってる内になんだったら割と可愛いのかなって思ったり……」

「まぁ結衣さんからしたら着慣れてますからね」

 なにせ弓道着だ。部活で嫌と言うほど着てる。

「昔はそこまでだったけど、今は割と気に入ってるってとこ。武器や服装は選べないから私の場合はついてると思うし」

「え、それランダムなんですか?」

「そーよ。場合によっちゃ着ぐるみとかもあるかもね」

 えっ、と呟いたのが面白かったのか結衣はクスクス笑う。

 二人は階段を見つけると足取り軽く降りていく。

「そういやなんですけど、結衣さんの願いってなんだったんですか?」

 結衣は少し間を置くと、ゆっくりと口を開いた。

「私は『自由になりたい』よ」

「自由に?」

 そう尋ねると結衣はため息をついた。

「私の家は先祖が武将とかなんとかで歴史ある家柄らしくてさ、私はそこの一人娘として育てられたの。生まれつき体が弱かった私は少し遊ぶだけですぐに風邪を引くから、幼い頃は家の外を歩いた記憶がない」

 敵を倒しながら結衣は話し続ける。

「一応長女だったからそれなりに礼儀作法を叩きこまれたけど、緊張してすぐ熱を出すから親戚の集まりに私は参加できなかった。それでも寝ているところにも声は聞こえてた。凄く楽しそうで、笑い声に満ちてた。そんな風にしている人達が羨ましかった」

 その後ろ姿は少しだけ小さく映った。

「このままずっとここにいるのが嫌だった。外の世界が見れないのが怖かった。でも家族が私が外に出ることを許すはずもなくて、体も弱い私じゃ家を飛び出ても生きていけない。そんなことを思ってる時に私は銀と出会った」

「それで、英雄に?」

「ええ。少しだけ怖かったけど、ここから出られない怖さの方が勝ってた。だから契約したの。ちゃんと願いは叶って、体が強くなった私は外に出ることを許された。そうして今に至るってわけ」

「そうだったんですか……」

 真はそう答えることしかできなかった。

 何も不自由なく生活を送ってきた真にとって、どこか遠い世界のことのように思えた。

 外に出る。街を歩く。日々当たり前に行っていることができない人がいることを、それをするのが困難な人を、真は初めて出会ったのだ。

「そんな私でも両親はそれなりに可愛がってくれたし、今でもたまに会ったりもする。そんな両親を見てたら、この町全員は守れなくても、英雄としてせめて自分の知る範囲だけは守ろうって、他の子が大変な役割を担わずに済むように一人で頑張ろうって思った。だからこそあなたたちもそうしようとしたん、だけど……」

「なんか、すんません……」

 話がようやく繋がって、真はもう一度謝った。

 対する結衣はあっけらかんとしていて、

「ま、そこは私の杞憂だったってことで。これからは一緒に戦うんでしょ?」

「そう、なります、ね……」

「なに?今更考えを変えたとか?」

「いや、そんなことはないんですけど、実はまだ叶えたいことが思いつかなくて……いや、一応あることにはあるんですけど……」

 怒るかと思ったが、結衣の反応は思ったよりも普通だった。

「命をかけてまで叶えたい願いなんて普通ないものだし、無理に探す必要はないけどね。それでも、やっぱりなるならこれだってのは見つけてほしいかな。叶えた願いを元に英雄としての力を得るわけだから」

 考え込む真に対して結衣はこういった。

「英雄に為ること自体が目的でも、そうでなくても、その後に待ってるのは辛いことのほうがずっと多い。だからこそ自分を支えるものを見つけてほしいし、戦う理由があった方がいい」

「戦う、理由……」

「そう。追い込まれて、最後の最後で力になるのはそういったものなの。それを見つけて、それのために戦う。そうすればどんなことがあっても乗り越えることができる。どんな逆境も打破できる力に変わる」

 矢を番え放ちながら結衣は話し続ける。

「それに、どんなに強い奴でもさ、独りぼっちはしんどいのよ」

 敵を全て撃ち貫き、結衣は笑いながらそう締めくくった。

 その笑顔はどこにでもいる、ごく普通の女の子だった。

 真は「はい」と答えた。静かに、それでも強くそう言った。


「さて、と。そろそろかな。健治くんの音が近くなってきてる」

 小さな道を抜けると開けた所に出た。斜めの道の向こうに手すりがある。

「まさかここまで来てるなんてね」

「思ったより小さい、ですね……」

 柱に身を隠しつつ、吹き抜けになっている所から下を見下ろす。その真下に見るからに別のものがいた。巨大な椅子に腰かける敵が二体、身に纏うものから察するにさながら王様とお姫様といった所だろうか。その二体は何かするわけでもなくそこに座っている。

 螺旋を描くように続く廊下の中層辺りに健治の姿があった。

「健治いました。多分道なりに行けば合流できそうです」

「私も見えた。それなら私が気を引くから、その隙に健治くんの所に向かって」

「了解です」

 結衣が飛び降りるのを見届けて真は走り出す。

 最下層に降り立った結衣は弓を携えゆっくりと接近する。

 どうやら敵が結衣を認識したらしい。カタカタとけたましい音を立てながら動き始める。

「悪いんだけどさ」

 弓を構え、矢を絞る。

「今回ばかりは、速攻で倒させてもらうよ‼」

 言い終えるより早く矢を放つ。王様の姿をした方が手にする剣で矢を撃ち落とす。

 だがその一瞬の間に結衣が距離を詰めた。撫でるようにそっと二体に触れると瞬く間に紋様が広がり、動きを封じ込める。

 為すすべもなくもがき倒れる敵の頭を躊躇なく踏み砕いた。バキッっという音がすると胴体が塵になって消える。

 圧倒、その言葉に相応しい一幕だった。

「さて、と。向こうは大丈夫かな」

 後は空間が消えるのを待つだけ。

 二人の行方を確認しようと、顔を上げた瞬間、

「────────────────ッ⁉」

 突如背筋に寒いものが走った。

 反射的に身を捩る。

 その直後に右手に破裂したかのような痛みが走った。

「────しまっ」

 避けようとするも遅く、結衣の全身に矢が突き刺さった。

 痛みよりも先に疑問が湧く。

(どこから……)

 答えはすぐに見つかった。そこら中に、螺旋廊下を埋め尽くすように手下が溢れていた。それらの手には弓や槍、剣が握られている。

 ただ二か所、真と健治のいる辺りだけはぽっかりと空間が空いていた。

 それを見て確信した。


 泳がされていたのだ。


 敵は元より健治君が迷い込んでいることを知り、彼を救出することを想定していて、そのうえで私一人がここに来るように仕向けたのだ。だからこそ健治君は一人最下層にまで来れた。来れてしまったのだ。

 この事態に気づいた真君が何かを叫ぶ。その姿を見た瞬間少しだけ力が甦った。体中に走る痛みを無視して矢を番え放つ。それは狙った所へとしっかりと当たった。

「行ってッ‼‼」

 攻撃の雨に晒されながらもそう叫んだ。



 そう言われて真は迷いながらも前へと進んだ。近くの敵を斬り倒しながら、最短距離で進んでいく。

 下は敵で溢れかえっていた。傷だらけの結衣がそれを倒していくも、あまりに数が多すぎる。押され始めているのが分かる。

 遠い。健治の元にいった後では間に合わない。

「くそったれ‼」

 一瞬躊躇うも真は飛び降りた。剣を側壁に突き刺し勢いを殺すも、それでも完全には殺しきれず地面に叩きつけられる。

 真に気づいた敵が迫る。痛む体で強引に切り伏せた。

「結衣さん‼」

 間を掻い潜り結衣に駆け寄る。見ただけで分かるほどにボロボロだった。至る所に傷を負い、衣装は血で真っ赤になっている。

「……健治、くん、は……?」

「アイツなら平気です」

 ここからでも健治の姿は見えた。健治は健治で敵を倒しているようだ。見た限り数が少ないからそう簡単にやられないだろう。

 囲む敵は威嚇するように音を立てて二人を囲んだ。真の存在を警戒しているのか近づこうとしてこなかった。

 ガクンと結衣が膝から崩れ落ちる。慌てて真が支えた。

「大丈夫っすか⁉」

「……平気。それよりも、力を、貸して」

「なにを?」

「弓を、構えて……」

「でも、そんなことより……」

「いいから。お願い」

 強く言われ、真は無言で頷く。

 力が入らないのか右腕がだらりと垂れている。傍から離れ、地面に転がっている弓を手に取った。

「動かないよう、しっかり構えてね……」

 真から見ても明らかに限界だった。そっと触れただけで倒れてしまいそうな程に体がふらついているし、彼女の周りには血の海ができている。

 それでも、彼女の瞳は煌々と輝いていた。

「大丈夫。必ず、守るから……」

 小さく、優しく微笑むと、血まみれの右手を弦に添える。途端に矢が現れた。

「────ッ‼‼‼」

 血を吐きながら、それでも歯を食いしばり弓を引くと、その手を離した。

 結衣はその反動で後ろに倒れる。放たれた矢は壁を掠めつつ天井に向かう。それは空中で球体に変化すると、そこから四方八方に矢を降り注いだ。

 その様はさながら流星群のようだった。一体、また一体と敵が砕けていく。その残滓で散る花びらがヒラヒラと、雨のように降り注いだ。

「……すげぇ」

 真は思わずそう声を漏らしていた。

 圧巻だった。あまりに美しく、見惚れるような攻撃だった。

「これなら──」

 助かる、そう言おうと結衣の方に振り向く。

「────え?」


 いなかった。

 すぐそこにいたはずの彼女が、どこにもいなかった。


「ゆい、さん……?」

 返事はない。

 降り積もる花びらの中に、大きな血の跡があるだけだった。

 ゆっくりと空間が消えていく。いなくなった彼女のように、何も残ることなく。

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