第一話 「邂逅」

 今日も目覚ましが鳴るより早く起きれた。

 枕もとに置かれた時計を見ると、目覚ましを止めて大きく背伸びをする。

 自室のカーテンを開け、ベットを軽く整えるとリビングを通り洗面所に向かった。

「あ、やっぱ帰ってきてたのか」

 リビングに併設されている台所の物の配置が寝る前と変わっていた。洗濯機の前に無造作に置かれた衣類を見ると昨晩帰ってきていたらしい。

 洗濯の仕方は割と適当だと、籠に入っている洗濯物を洗濯機に放り込みながら竹内真は思う。男二人なのだから特に気にすることもないだろうし、真自身それほどこだわりがある訳ではない。

 着ていた寝巻を脱ぎ、一緒に洗濯機に入れる。慣れた手つきで操作をし、動き始めたのを確認すると自室に戻り制服に着替えた。青に近いネイビーのジャケットにグレンチェックのズボン。白のワイシャツに紺色のネクタイを締めたその姿は二年目に入っても中々に馴染んでこない。そもそも顔つき的に学ランの方が似合いそうだが近くの高校の殆どが学ランではなかった。

(あんまり遠いと色々不便だからな……)

 そこで洗濯機を回していることを思い出すと一旦上着だけを脱いで近くの椅子にかける。音がないのが寂しいのでテレビをつけると朝の報道番組が流れていた。つい最近交通事故で死亡した子供の母親が行方不明になっている、というニュースを聞きながら昨晩の残り物を弁当に詰めていく。

 入りきらなかった料理を適当に食べて、使った皿を洗う。毎食後すぐに洗うので一回の量はそれほど多くならない。洗った皿を流しに置き、洗濯物をベランダに干す。今日の予報では一日晴れるそうなので、気兼ねなく干すことができた。

(いい天気、だな)

 ぐっと背伸びをして息を吐いた。澄み渡るような青空がどこまでも続いている。

「……よし」

 真は自室に戻り身支度を整えると部屋の一角にある仏壇の前に正座した。花の水を足し、ロウソクに火をつける。その火でお線香に火をつけると手を振って消し、香炉に立てる。

 りんを鳴らし手を合わせる。目を閉じ「行ってきます」と呟くと、静かに立ち上がり鞄を肩に下げた。

 ゴミ捨ての日は明日なので今日は手ぶらでいい。そう考えながら鍵を閉め階段を降りる。真の住む部屋は古いマンションの四階にあるのだが、できてしばらく経つためエレベーターがない。

(降りる分にはいいんだよな……)

 ここを通るたびにそんなことを思う。高校生とはいえ毎日の往復は中々に堪えるものがあった。

 駐輪所に向かい自転車に鍵を差し込む。中学の時から使っているこいつも、そろそろメンテナンスに出さないと、と考えながら自転車を漕ぎ始めた。


 

 真の住む角丘市は二つの大きな川に挟まれている。

 そのどちらも一級河川に認定されており、昔から農業や工業で栄え、また交通の要衝としても有名だった。

 だが三十年前に起きた原因不明の大災害で市は半壊、人口も大幅に減ってしまった。

 それでも、ここ最近は町の北部で進められている再開発のおかげで少しずつだが活気を取り戻している。

 逆に町の南部はその流れに取り残されていて、築数十年の住宅や田畑などが未だに残されている。真が住むのはその南側にある集合住宅の一室だった。

 時代の流れが目で追える街だと、昔父が話していたのを覚えている。その時はその言葉の意味が分からなかったが、今になってようやく理解することができた。

 真の通う高校は町を南北に仕切る線路の北側にあった。南の、それも隣の市との境目に真は住んでいるため、通学はいつも自転車を使っている。

 通学路の途中にある並木道を抜けるのが真の密かな楽しみだった。春になると満開の桜が見れるのだが、季節は過ぎ、もうすぐ梅雨が来ようとしていた。今は青々とした葉が空を覆い尽くすように生い茂っており、程よい気温も相まって頬を撫でる風が心地よい。

「……よっしゃ」

 グン、と自転車を漕ぐ力を強める。景色は瞬く間に流れ、向こうから踏切の音が聞こえてくるのだった。



 駐輪場に自転車を止めると、昇降口を抜け階段を上がる。

 真の通う学校は市内唯一の県立高校で、比較的進学に力を入れている学校だった。

 生徒の半数が部活に参加しているが、真の学年は部活に入らない、いわゆる帰宅部が多かった。真も同じ帰宅部である。

 四階建ての建物は階ごとに学年が隔てられており、一つ上がるごとに学年が一つ下がる仕組みになっている。一階は主に部室として使われ、二階より上が各学年の教室になっている。

 それとは別に職員室や図書室がある別館があり、各階にそれを繋ぐ渡り廊下が二つあるため、上から見るとカタカナのロの字のような形をしている。その中央には中庭があるが、基本的に生徒が踏み入れることはない。

 一学年六クラスで構成され、真は三組に属している。一組から三組が理系、四組から六組が文系と分けられており、二年生に上がる際に希望した分野に分けられるのだ。

 

 教室を開けるとあまり人がいなかった。朝礼まであと二十分しかないが、いつもこんな感じなのでさほど驚きはない。学校に早く来ているのは朝に勉強する人か早起きが日課の人くらいだ。

 真は鞄を背負ったまま教室の一角に向かった。そこには二人の生徒が話をしている。

 二人は真が来たことに気がつくと気の抜けた挨拶をする。

「おはー」

「今日はいつもより遅いんだな」

 真は空いた席に腰かけると背負ってた鞄を下した。

「まーな。そういうお前らは?」

「自分はいつも通りだ」

 そう言って読んでいた本を閉じたのは星井健治。細見で身長は百七十五前後、銀枠の眼鏡と短く整えられた髪から真面目な印象を持たれる人物で、生徒会で副会長を行っている。

 成績は優秀で、常に学年で十番以内を取り続けており、真と同じで部活動には所属していない。また、真とは小学校からの付き合いで、いわゆる腐れ縁というやつである。

「オレ今日寝てないんだよね。だから早く来過ぎた」

 反対側に座っているのが飯田黒斗。身長は百八十を超えており、屈託のない笑みと少し長めの茶色の混じった髪からおおよそどういう人物かは想像するに容易い。

 それでも成績は真ん中くらいで、赤点は一度も取ったことがない。先生の間では課題の提出率が悪いのと遅刻が多いことでよく知られている。

「よく寝ないで学校に来れるな。俺には無理だわ」

「授業中に沢山寝るからへーきへーき」

「全く……。それで試験は通るのだから先生にとっては面倒でしかないな」

「そこはまぁオレなんでね」

「調子に乗るな」

 軽く小突かれただけなのに大袈裟に痛がる様子を真はのんびりと眺めている。

「そういや、二人は課題やったか?」

 真がそう尋ねると黒斗の動きがピタリと止まった。

 そして瞬く間に顔が青ざめていく。

「……まさか、お前」

「そんなとこだろうと思った」

 黒斗が恐る恐る口を開く。

「…………教科は?」

「古典」

「死んだわ」

 そう言うと腕を枕にして顔を伏せる。

 そして泣き出してしまった。

「まー、圭さんだから課題三倍の刑で済むんじゃね?」

「ヤダよ!三倍とか終わる訳ないじゃん!どう考えたって人がこなす量じゃないでしょ‼」

 うわぁぁああ‼と早朝にも関わらず絶叫する姿をクラスにいる皆が呆れた様子で眺める。

 課題未提出常習犯であることはこのクラスだけではなく学年中で知れ渡っている。

「頼むよ真ォ!どうにか説得してくれよォ!お前ならなんとかなるだろォ⁉」

「いや俺に言われたってどうにもできないから……」

 ガックンガックン首を揺さぶられながら、真はそう返事をした。

 凜道圭。このクラスの担任で、年中ジャージ姿でいるが担当は古典。剣道部の顧問をしており、真の父親とは古い付き合いだそうだ。昔から家に遊びにきたりするためか、教員と生徒というのは少し距離感が近いのかもしれない。

 だが、圭さんはそういった面では非常に厳しいことで有名な先生だった。

「そうだ!今からやればいいん──」

「無理だろ」

 健治に一蹴され、空気の抜けた風船のようにしぼんでいく。

 真も内心同意しながら、今座っている席の本来の人が来ているか確かめようと教室をぐるりと眺める。


 すると目の端で何かが引っかかった。

「なんか、見たことないやつがいる」

「は?そんなことあるわけないだろ。もう五月だぞ」

「いや、そこの、一番右奥にいる……」

 真は教室の一番右手前に腕を枕にして眠っている女性を指さす。

「あー……。いやすまんな。自分も初めて見た」

「えっ⁉何お前ら四ノ宮さんを知らないの⁉」

 伏せていた黒斗が驚いた様子で顔を上げた。

 困惑している二人を見て呆れた様子で説明をする。

「四ノ宮鈴さん。一年の時はなんか家庭の事情で学校に来てなかったらしくて、ちゃんとくるようになったのは二年になってから。そりゃ最初の方は相当目立ったけど、今となっちゃ全然だぞ」

「そう、だったか……?」

「え、マジ?ホントに?ホントに認識してなかったの?」

「まぁ、な……。だが結構目立つし普通なら気づく、か……?」

「んー……。正直俺も全然気づかなかったわ」

「すげービックリだわ。一瞬で眠気が吹き飛んだ」

すると、見られていることに気が付いたのか、体を起こすとゆっくりと三人の方に振り向いた。


 とにかく白かった。消えてなくなりそうな、そんな儚い印象を受けた。

 肌も髪も瞳も、その全てが雪のように白く、寝起きだからなのかぼんやりとした表情を浮かべてる。

 浮世離れた美しさだった。下手すればテレビに出てくる芸能人よりも美しいのではないかと思ってしまうほどに。

 ただ、


「……え?」


 その瞳は決して好意的な目であるようには見えなかった。

 むしろその逆、色んな感情がまるで絵具のように混ざり合い、乱雑に折り重ねたような、そんな一言で言い表せない雰囲気を醸し出している。

 席が離れているため誰を見てるのかは判断できないが、目線は俺のほうを向いている様に見えた。

 目を離せない。

 得体のしれない何かに押さえつけられたかのように頭が動かない。

「?どしたの?」

「……いや、なんでもない」

 そう言いながら真はようやく視線を健治たちの方に戻す。

 どうしてか、真には彼女が今にも泣きそうなのを我慢しているようにしか見えなかった。



 結果として、黒斗の課題は三倍になって帰ってきた。

 当然と言えば当然な訳で、特に何かある訳でもなくその件は終わった。

 授業は然して変わらず進んでいく。中間試験が月末にあるがまだ言及する時期ではない。

 そんな中、真の脳内は四ノ宮鈴のことが離れなかった。

 その手に疎い真から見ても相当な美人だと思う。二重の目にすらっとした鼻筋、薄く結ばれた唇に、透き通るような肌。

 その姿に、どうしてか一切見覚えが無かった。いることにさえ気づけなかった。

(なのに、なーんか引っかかるんだよなぁ……)

 ノートの端を適当に塗りつぶしながら真はぼんやりとそう思う。

 どうしてか分からないが、不思議とどこかで会った気がした。それもすれ違った程度じゃなくて、何度も顔を合わせているような、ただのクラスメイト以上の関係だった気がする。

 他人に空似かもな、とそう結論を出しつつも、昼休みを迎えてもなおモヤモヤした気持ちは消えることはなかった。



「いやぁ、相変わらず凄いなあの『眠り姫』!」

 昼休みになり、集まり昼飯を広げつつ開口一番に黒斗がそう言った。

 クラスの中は思い思いに机を寄せて、仲のいいメンバーで食事を食べている。

 それでも彼らの話の中心には常に携帯が存在していて、集まっているのに集まる意味がないような光景が広がっている。

 それが真はなんとなく嫌いだった。

 因みにだが、真は昨晩の残りを詰めてきた弁当、健治は梅のおにぎり3つ、黒斗は売店で売っているメロンパンとカレーパン、それに自販機で売っているパックのジュースである。

「あの女いけすかん。一体授業を何だと思ってるんだ」

「まーまー、なんだかんだいって全問正解なんだから別にいいだろー?」

「違う!自分は別にそういうことを言ってるんじゃなくてだな!」

「分かったから、少し声のトーンを落とせって」

 忌々しそうに愚痴をこぼしながらおにぎりにかぶりつく健治を真はなだめる。

 とはいえ、真も実の所は感心していた。

 

 まさかの全授業で堂々と睡眠。しかも一番前の席で、だ。

 それよりも凄いのは、それのせいで先生に押し付けられた無理難題な問題を全て解答してしまった所だ。はっきり言ってクラス全員が絶句していた。

 ここらへんは以前からいたはずなのに変な所だと思うが、黒斗の説明通りならまだ新鮮に見えるのだろう。現に黒斗はさっきからそのことばかりに触れている。

「なんか一時期は天才少女として有名だったらしいよ。詳しくはそのうち調べることにしてるんだ」

「だからあんなに頭がいいのか」

「そうなんだよ!しかも美人だし!クールなのもたまんないよな!」

 そう言われて視線を例の少女に移すと、変わらず机に突っ伏して寝ていた。

 あれじゃ話しかけずらいだろうな、と真は思う。そもそも起こされた時と移動教室で移動したときしか起きているところを見たことがなかった。

(一体いつ寝てるんだ?いや今寝てるんだからいつ起きてるんだろうか。深夜とかになにかしているのかもしれない。それにしては肌が綺麗だけど。なんかどっかのテレビで夜更かしは美容の敵、だとか言ってたが彼女を見てるとそんなことないのかも)

 考え込んでいた真は気味の悪い笑みを浮かべる黒斗に気が付く。

 どうかしたか?と聞こうとすると、既に2つ目のおにぎりを食べ始めている健治がため息をつきながら一言、

「お前、あの女のこと見過ぎ」

「………はぁ⁉いやいや、そんなことねぇだろ!」

「いやいやー、照れなくてもいいんだぜ?流石に分かってるからさ、親友?」

「これ見よがしに言うんじゃねぇよ!あとさりげなく肩組もうとすんな」

「いたッッ⁉ちょ、おま、関節極めるなよ⁉痛い痛い痛い痛い!ギブ!ギブだって!」

 一瞬で手首と肩の関節を極めると、黒斗は大袈裟なジェスチャーをしながら離すよう求める。

 それを見て真はため息をつきながらその手を離し、健治はやれやれと言わんばかりに肩をすくめた。

「真が四ノ宮さんのことが好きなのは置いといて」

「おい」

「ぶっちゃけ、徳元先輩とどっちが美人だと思うよ?」

「はぁ?」

 健治が気の抜けた返事をする。

「お前、ホントそういうの好きだよな」

「当たり前だろ!つーかお前らが特殊なだけだから!普通男子高校生はそんな話するんだって!」

「あっそ。ぶっちゃけ俺らに聞かれても困る」

「全くだ。第一徳元というのは三年のだろう?確か弓道部に属している」

「そうそう!あの人も相当美人なんだよなー!」

 徳元結衣。この学校の三年生で話の通り弓道部に属している。

 背が高く美人で、凛とした佇まいはまさに大和撫子と呼ぶべき存在だ。その噂は他校にまで広まっており、なんでもファンクラブまであるという。学校にいる間は常に傍に数人いるため、校内では芸能人のような扱いを受けている。

 因みに黒斗もファンクラブの会員らしい。

「一回だけ練習してるとこ見してもらったけど、あの人結構凄いらしいよ。大会でもいい成績残してるとかって」

「え、お前弓道場に入ったことあるの⁉」

「前にだけどな」

 真は以前ちょっとしたことで見学させてもらったことがあった。

 その腕前には素人目に見ても目を見張るものがあったが、正直周りからの視線が痛いことの方が印象に残っている。

「いーなー!オレも見てーなー!」

「お前みたいな下品な屑を入れるわけがないだろうが」

「そこまでいわなくても良くない⁉」

 そんな他愛のない話をしていると、突然校内放送が入ったため、三人は一度会話を中断する。ガサガサと音がすると低い女性の声が聞こえた。

『二年三組の竹内真―。至急職員室にー』

 それだけ言うとブツリと音を立てて回線が切れた。そしてさっきまで流れていたBGMが再生される。

 声の主は凜道圭先生だった。

「お前、なにかしたのか?」

「さ、さぁ……」

「はっ!もしかしてオレの課題が減る、とか……⁉」

「それなら本人を呼び出すだろ」

「そっかー……それもそうだなー……」

 真は自身の荷物をまとめると凹んでいる黒斗を置いて教室を出た。

 昼休みも半分が過ぎている。この時間になると昼飯を食べ終えた生徒で廊下に人が溢れかえっている。

 職員室は真達の教室と同じ階にある。その人の群れを通り抜けるのは気が引けたため、真は少し遠回りの反対側の廊下へと進んだ。

 二つしかない渡り廊下だがその使用率はかなり偏っているのだが、主な理由は職員室と購買に近いからだと真は思っているが、実際の所はよく分かっていない。

 遠回りするのは少し面倒だが、人気のない方を通るのは少しだけ落ち着く。喧騒から離れ、日常から切り離されたような、そんな独特な感覚を味わえるからだ。

 だが、そんな感覚を味わうことはできなかった。


 どういう訳か、四ノ宮鈴がそこにいたからだ。


(うげ……マジかよ……)

 ここまで来て引き返すのも面倒なので素知らぬふりをして通り抜けようとする。

「ねぇ、あなたは今幸せ?」

 いきなりそう尋ねてきた。

 真は思わず肩を大きく揺らした。

「もう一度聞くわ。あなたは幸せ?」

 どうやら真に聞いているらしい。驚きつつも考え返事をする。

「──そりゃ、まぁ、うん」

 最後に「多分」と小さく付け加え、口を閉ざした。

 返事を聞いた四ノ宮は何も言わずにその横を通り抜ける。その瞳はどこか遠くを見ている様で、一瞬たりとも合うことはなかった。

「……それなら、大切にしなさい。失うときは一瞬だから」

 そう言うと鈴はその場を後にする。

 気が付けば彼女の足音は聞こえなくなっていた。

「……なんだったんだ、今の」

 早まった鼓動を整えながら真は再度職員室へと向かう。

 その言葉の真意を真はのちに知ることになるとは、この時は微塵も思っていなかった。



「失礼します」

 少しだけ声を潜めながら、真は職員室へと入る。

 先生たちも丁度昼ご飯を食べており、職員室は食べ物の匂いで充満していた。

 一瞬視線が集中するも、即座に各々の時間に戻っていく。

 無造作に置かれた段ボールや束ねてある書類の束の間を通り抜け、真は目的の席へと向かう。

 先生の机というものはその人の性格が大きく反映されると思う。几帳面な性格の先生の机は綺麗に整理整頓されているが、逆に大雑把な性格の先生の机は所狭しと物が敷き詰められているものだ。

 真はその中でも一際物が散乱している机へと向かった。

「食事中失礼します」

「お、やっと来たか」

 椅子の上で胡坐をかきながらかつ丼を頬張る姿を見て真は呆れつつもこう訊いた。

「それで、何の用ですか?」

「いやー、まぁこれといって用はないんだけど」

「それなら家に来た際でよくないですか?」

 まぁーねー、とどこか面倒そうに頭を掻く先生に教室にいる時の威圧感はない。

 というよりは、どちらかというとこっちのほうがいつも通りだった。

「なんにもないなら帰ってもいいですか?」

「……今度、武道室が使えなくなるんだよね。丁度改修工事があるらしくて」

「まぁ、随分年季が入ってますからね」

 学校から少し離れた位置に剣道場と弓道場がある。どちらも建てられてからかなりの年数が経っているため、至るところにガタがきている。

 いきなりそんな話をしたことに驚きつつも、真は先生が言いたいことが理解できた。

「……申し訳ないですけど、俺は戻るつもりはないです」

「そっか……」


 真は一年の頃は剣道部に入っていた。幼い頃からやっていたため実力は確かで、入ってすぐに団体戦のメンバーに選ばれた。決して強いとは言えない部だったが、その年は団体戦で初めて県大会の決勝まで勝ち上がることができた。そしてその立役者が真だった。 

 だが、部の雰囲気はあまりよくはなかった。一年で試合に出ることを妬む控えの先輩や、一人先輩に混じって練習していることに嫌味を言う同級生と、真にとってそこは息の詰まる場所でしかなかった。


 そして三学期を前にして真は部活を辞めた。


 そのことを圭さんが負い目を感じていて、時折戻ってこないか尋ねるが、それでももう一度入り直す気にはならなかった。

「ま、気が変わったら言いなよ」

「はい」

 形だけの返事をすると、先生は話を変えた。

「そういやさ、あいつはどうしてんの?」

「そうですね……。帰ってはきてると思います。朝には洗濯物が置いてあるし、冷蔵庫の料理はちゃんと減ってますし」

 先生が呼ぶあいつとは真の父親のことだった。

 警察官である父は帰りが不定期で、数日顔を合わせないこともよくあった。

 そんな父に代わって家事をするのが真の役目だった。

「あいつ、あー見えて忙しいからなー」

「最近はまたなにかあったみたいですね。詳しいことは知らないですが」

「ま、近いうちに遊びに行くから。そん時は美味しい物用意しといてね」

「なんなら作ってもらってもいいんですよ?」

「私は食べるの専門だから」

 だから結婚できないんだろうな、などと思うが口が裂けても言えなかった。

 この人、父と同い年なのに未だ独身で、彼氏がいたという話も聞いたことがない。その理由は一緒にいれば大体の察しがつくが、本当の所は知らなかった。

 それじゃ、というと真は職員室を後にする。

 さっきと同じ道を通り、教室に戻ると寝ている四ノ宮さんの姿があった。

 起こさないように慎重に通り抜け、健治と黒斗の座る場所に戻る。


『あなたは、幸せ?』


 午後の授業中もその言葉が何度も頭の中で木霊する。

 間違いなく幸せだし、少なくとも不幸ではない。

 なのにどうしてか、確信を持って言うことができなかった。



 授業が終わると、真は健治と黒斗に別れを告げてそそくさと学校を後にする。

 急いで向かったのは駅の近くにある複合型の商業施設だった。ここに来れば大体の物が手に入ると銘打っているだけあって、中には多種多様のお店が軒を連ねている。

 真の行先は一階奥にあるスーパーマーケットだった。今日は月に一度の特売の日で、学校終わってすぐ向かわないと売り切れてしまうのだ。この時間は同じ商品を目当てに売り場に主婦がごった返す。

 家事全般を担当する真にとって、食費を浮かすのも仕事だと思っているし、この特売は外すことのできないイベントであった。

 夕方のスーパーに制服姿の高校生はそれなりに目立つが、愛想も良く礼儀正しいため主婦の間での評判が良いためそこまでは浮いていない。現に顔見知りの人から話しかけられたり、真を知る店員がこっそり特売の品を渡してくれたりする。

「いや~、今回も手に入って良かった~」

 パンパンに膨らんだ袋を両手に提げ、やや頬を緩ませながら建物の中を歩く。

「それにしても毎度有り難いよな……。今度ちゃんとお礼しないと」

 でもこういう時どうしたらいいんだ、などと考えていると敷地の一角に見知った顔があった。

 気づかれないように近づくとそこは本屋で、真剣な表情で本を見つめている姿がある。

 そっと後ろからのぞき込むとようやく気付いたのか、慌てた様子で振り向き真の顔を見て息を吐いた。

「なんだ、お前だったか」

「健治が本屋にいるなんて珍しいな」

「そういうお前は、買い出しか。目当ての物は手に入ったのか?」

 眼鏡を上げると真にそう尋ねる。

「今日は豊作だったわ。これで大分楽になりそう」

「そうか。それは良かったな」

 どうしてか健治の様子がおかしかった。そわそわしているというか、落ち着かないというか、どことなく居づらそうにしている。

 真は理由を考え、健治が手にしている厚めの本を見て大体の事を察した。

 そのうえで、意地悪く笑い、こう尋ねた。

「それで、和ちゃんへの本は見つかったのかな?」

「────ッ⁉べ、別にこれはそういうわけではない!」

 健治の顔が真っ赤に変わる。顔だけではなく耳まで真っ赤だった。

 どうやら図星だったらしい。

「まー、妥当だとは思うけどな~。あの子めっちゃ本好きだし」

「だから!そうではないと!」

「分かった。分かったから落ち着けって」

 目の前で大声で叫ばれ、クラクラしながらも健治を見つめる。

(ほんっとに好きなんだな~……)

 和ちゃんとは、同じ学校に通う女の子で、本名は閨崎和。年は同じ、クラスは隣、健治と同じ図書委員会に属している。

 真の通う学校には生徒はどこかしらの委員会に属さないといけない決まりがあり、図書委員会は放課後の時間を取られたくないために入る人が殆どなのだが、本が好きで委員会に所属するという変わった人物で、口数も少なく、大人しい性格という典型的な文学少女だった。

 亜麻色の髪に整った顔立ちをしているため可愛い部類に属するが、顔や手足などの見える所に酷い火傷の跡があるため、クラスどころか学校でも煙たがられている。そのせいで図書室の利用数が下がっていると噂される程だった。

 健治と和の出会いは比較的良いものではなく、きっかけは一年の頃彼女に対しての虐めがクラス内であったことだった。そんな彼女の味方をしたのが真で、真に付き合う形で健治も親しくなり、クラスの大半がその虐めに加担する中、唯一三人側についた黒斗と計四人で一年の頃はよく行動していた。真、健治、黒斗と性格の異なる三人が不思議と仲が良いのはそんなことがあったからであり、黒斗と仲良くなったきっかけでもあった。

 その後ひとまずは虐めは収まり、この一件の後で健治は生徒会と掛け持ちで図書委員に所属することになった。

 健治が和に恋心を寄せていることを真と黒斗は知っており、密かに応援していた。

 なにより、幼なじみである健治の本気の恋を応援しない理由はなかった。

「でもさ、あの子大概の本読んでるんじゃないの?」

 真がそう尋ねると、健治は一つ咳払いをする。

「彼女の家はあまり裕福ではないから、最近出た四六判は読めないそうだ」

「四六判?」

「こういう厚い本のことだ」

 手に持つ本を示され、真は「なるほどな」と答える。

 健治の言う通り、和の家はあまり裕福ではないらしく、身なりもお世辞にも綺麗とは言えなかった。それに一度も流行りの物を持っている所を見たことがなかった。

 黒斗の調べ曰く、彼女の家は元は教会で、数年前に起きた火事で全焼したらしい。その際両親は他界、彼女は一命を取り留めるも全身に火傷を負ったのだという。現在は焼け落ちた教会の近くにある小さな家で一人で暮らしているらしい。親類からの支援でどうにか生活できていると本人が言っていたが、恐らく火傷が原因で引き取ってもらえなかったんじゃないか、というのが黒斗の推測だった。

「じゃあそれをあげるのか?」

「…………そういうことだ。…………月末が誕生日だからな」

「……なるほど」

 今から準備している辺り相当に気合いが入っているようだ。

 なんとなく野暮な気がしてからかうのを辞める。

「それで、いい感じの見つかったのか?」

「いや、まだだ。こういう時どれを選んでいいのか分からなくてな」

「黒斗に相談したら?」

「あいつに相談したら弄り倒されるに決まってる」

「ま、それもそうか」

 狭い本棚を歩き回る健治についていく。途中何度か本を手に取ったが正直違いや良さは分からない。なにより目にする本はどれも初めて見るものばかりだった。

 二人は本屋を一周すると店の外に出た。

「まだ時間もあるし、焦って決めなくてもいいんじゃね?」

「……それもそうだな。とりあえず今日は帰るか」

「おう」

 二人は外に出ると一旦解散し、各々の自転車を取りに行き合流した。

 夕暮れ時だからか街灯は点けど外はまだ明るかった。行き交う人の邪魔にならないよう自転車を手で押しながら帰路へと着く。


「そういやさ、例の場所ってこの近くだっけ?」

 歩きながら、ふと真がそう言う。

「例の場所?今日の昼に黒斗が話していた場所のことか?」

「そうそう。確かそうだった気がするなーって」

 黒斗の話していた内容とは生徒の間で噂される都市伝説の一つで、最近起きた交通事故の現場に妙な人影があり、更に数人の行方不明者が出ている、というものだった。そういった類が大好物の黒斗が独自にそれらを調べ上げ、その内容を昼休みに熱烈に語っていたため、二人の記憶に残っていたのだった。

 そこで健治は察したのか逡巡するとため息をついた。

「とりあえず、買ったそれを家に置いて来い」

「マジ⁉いいのか⁉」

「まだ時間はあるからな」

 遠目で道沿いの飲食店の時計を確認する。六時前、軽く見に行くだけなら問題ないだろう。

「じゃあ健治はここで待ってろ!すぐ戻るから!」

「あ、おい!」

 呼び止める暇もなく真はあっという間にその場を後にする。

「しかし、真が興味を示すとはな」

 一人残された健治はそう呟くと近くに自転車を止め、傍のベンチに腰かけた。

 携帯を持っていない健治はぼんやりと歩く人々を眺め、それに飽きると持参していた小説を読んで時間を潰した。

 二十分くらいで真は戻ってきた。額に汗を滲ませ、背負う細長い入れ物の位置を何度も直している。

 その大きさで健治は中に入っている物の検討がついた。

「すまん!遅くなった!」

「それはいいが、それはいるのか?」

 息を弾ませる真は、何を聞かれているのか分からなかったのか一瞬戸惑うも、すぐに背負うそれのことだと気づき手に取り差し出す。

「なんかあった時はこれでどうにかできるかなって」

「いや、見に行くだけだからな?」

「分かってるよ!」

 楽しそうに笑う真を見て健治は呆れつつも珍しいな、と内心思う。

 真は比較的冷めた性格だ。いつもどこか退屈そうにしているこいつが、こうしてワクワクしている姿は付き合いの長い健治にとっても珍しいものだった。

(ま、たまにはいいか……)

 口角が少し上がっていることに気づかないまま、健治は急かす真の後を追ったのだった。



 黒斗の言う例の場所は住宅街の一角にある小さな公園だった。

 植木でできた壁や生える雑草は無造作に伸び、申し訳程度に置かれたブランコとベンチは金属部分が錆びついており、木の部分はほとんど腐っていた。

 周囲を家に囲まれているからか日当たりがあまりよくなく、常に日陰になっている所には苔が生い茂っており、全体的に暗い。

 そんな中に明らかに浮いている箇所があった。花束やお菓子の詰め合わせ、新品の子供用のおもちゃなどが山のように積み上がっている。

「間違いない、ここだ」

「見た限り、変な所はないな」

 路上脇に自転車を止め、二人は周囲を観察する。

「でもなんか、静かすぎね?」

「行方不明者が出てるらしいからな。用がないのに出歩こうとは思わないだろう」

「それもそうか」

 大して広くないので十分も掛からずに見終わった。

 二人はベンチに腰掛けると、置かれた供え物をぼんやりと眺める。

「これ、行方不明者なんかでなくないか?」

「同感だ。見た限り怪しい所はないからな」

「だよな。それにしてもここ暗いな」

 真は眉間に皺を寄せて周囲の建物を凝視する。

「街灯もついてないし、周りの家の灯りも全然ついてないのって変じゃね?」

「確かにな。不気味というか、雰囲気がよく出ている」

「それ洒落になってねぇから」

 真がぎこちなく笑う。

 二人はどこか急く様子で立ち上がった。

「帰るか」

「だな」

 一刻も早くその場を後にしようと公園を出た瞬間、


 唐突に夜が訪れた。


「────は?」

 あまりに急なことで二人の動きがピタリと止まる。

 数秒経って我に返ったのかゆっくりと口を開いた。

「どうなって、んだ……?」

「自分に聞かれても分からん」

「なんかさ、やばい気がしない?」

「何がだ?」

「分かんない。分かんないんだけど、なんかが!」

「それでは全く理解できない」

 不毛な言い争いをしながらも二人は辺りを見渡す。


 最初に思ったのは色の単調さだった。白と黒。それも陰影のないのっぺりとしたもので、並ぶ建物は平面に映る。

(なんで道の上にいるんだ……)

 気が付けば二人は公園の出口ではなく路上の真ん中にいた。

 車はおろか人一人いないため、気づくのが僅かに遅れたのだ。

 左右に伸びる道に果てはなく、一瞬映画のセットかと思うほどに変化がない。

 均一に並ぶ街灯もずらりと並ぶビル群も白だからか、いよいよ距離感が曖昧になる。

 音はない。服が擦れる音が変に大きく聞こえる。

 その時健治の表情が変化する。何かを見つけたような、そんな驚きに満ちた表情だった。

 真は咄嗟に健治の口を塞いだ。

「静かに。囲まれてる」

 小さく、できるだけ簡潔に健治に伝えると、二人はその姿勢のまま目だけを動かし辺りを見渡す。

 それは黒の体に、二つの白い眼があった。ブヨブヨと動く体は液体のようで、どこかゲームに出てくるスライムを連想させる容姿だった。手足は無く、目以外の部位も見当たらない。

 数は二十くらいだろうか。並ぶ建物の上や壁、隙間や路上にそれがいる。色合いが保護色の役割を果たしているため正確な数を把握できない。

(どうする……?)

 真はそっと肩にかける入れ物を脇にずらした。中に入れてある竹刀をすぐに取り出せるようにするためだ。万が一の時のために用意したものだったが、まさか使うとは思わなかった。

 ちらりと健治を見やる。見るからに緊張している。この状況で気が動転してないだけ有り難いが、それでも戦力にはならないだろう。

(せめて健治だけでも逃がさないと──)


 突然、囲むそれの一つが二人めがけて飛び掛かってきた。

 真は慌てて健治を突き飛ばし、自身もまた転がってどうにか躱す。

 遅れて轟音と共に衝撃が肌を叩いた。それだけでいかに危険なものか判断できた。

(……まずは、様子を見て──)

 それが眼前に迫っても、真は一切動揺していなかった。それどころか思考は冴え、選択肢の選択と排除の速度が一気に早くなる。

(この距離を一瞬で詰めるってことは、背を向けて逃げるのは危険、か……。それに出口が分からないし、これの弱点も分からない……) 

 ゆるりと竹刀を構える。

 中段の構え。久々にとったそれは思った以上にすんなりと体が反応した。

 それの表面が一瞬泡立つ。次の瞬間、数本の触手が真へと迫った。

 真はどうにかそれを躱すとそのうちの一つの表面を叩き落とす。

 タコのような手ごたえが掌に伝わる。竹刀が表面に引っかかった。

(実体はあるけど、物理攻撃は効いてないな)

 即座にそう判断すると一度距離を取り、警戒しながら突き飛ばした健治のもとに向かう。

「大丈夫か、健治!」

 突き飛ばされた格好のまま健治は体を起こした。

「あ、あぁ、なんとか。お前こそ大丈夫か?」

「問題ねぇ。掠っただけだ」

 手の甲で頬を拭うとべっとりと血の跡がついた。

 思ったよりも深く切ったのか血は止まらず、それを見た健治の顔色が一気に青ざめた。

(ヤバいな……)

 僅かに震える健治の姿を見て真は内心そう呟く。こうなってしまったら下手に動くことも叶わないだろうし、一人先に行かせることもできない。

 戦う選択肢はあるが、それでも望みは殆どないと言っていい。あれに竹刀での攻撃は効いていない。こんな状況では役に立たない棒切れと一緒だ。

 絶体絶命。

 襲われるは時間の問題だった。


 だが、次の瞬間だった。


「伏せて」


 どこからか声がした。真は咄嗟に竹刀を手放すと慌てて健治の上体を押し倒し、自分もまたできるだけ姿勢を低くしようと身を縮める。

 直後にそれはきた。

 一瞬、カメラのフラッシュのような閃光が瞬いたかと思うと、遅れて何かが爆発したかのような轟音が鳴り響いた。眼前を通り抜ける電車よりも、間近に見る花火よりも大きな音は二人の体を容赦なく貫く。

「な、なにが……⁉」

 目と耳をやられ、吹き荒れる風に耐えながらもどうにか瞼を開く。するとぼやけた視界にひらりと何かが舞い降りた。

 それは花びらだった。

 独特な形のピンク色をしたそれが風に流されることなくヒラヒラと辺りに舞っている。

「大丈夫かい?」

 頭の真上からそう尋ねる声が聞こえた。

 真は強張った体をどうにか起こす。

「良かった。二人とも生きてるね。そこの彼は気絶しているようだけど」

 男とも、女とも、子供とも、老人とも取れる不思議な声だった。なにより話し方に癖がなく、口調に特徴がなかった。コンピューターの声とは違い人独特のアクセントはあるが、人が話しているにはあまりに綺麗すぎるように聞こえた。

 顔つきにも特徴が無く、国籍はおろか性別さえ曖昧だった。花屋に入った時に匂う、独特の香りが鼻孔に充満する。

 はっとして真は慌てて健治を見ると確かに気を失っていた。あの状態であれほどの轟音を体感したのだから無理はない。

「全く、君も随分荒っぽいね。彼ら、まだ襲われてなかったのに」

「……」

 すぐ傍に立つ、真っすぐ前を見据える人物を見て真は思わずこう呟いた。

「ゆい、さん……?」

 そう呼ばれた女性、徳元結衣は一瞬訝しそうにこちらを睨んだが、二人の着ている制服を見て露骨に嫌そうな顔をすると視線を外す。

 彼女の服装は真の知る弓道着とよく似ていた。

 違う点は控えめにあしらわれた花と色調だけで、他もこれといった特徴はない。頭の上で髪を結ぶ髪飾りも同じ花を模してあるものだった

 構える弓もまた真の知っている弓と同じだったが、彼女の背丈にあった弓にも同じ花があしらわれている。

「なんで、こんなところに……」

 結衣は答えることなく弓を構え弦を絞る。すると何もない所から光る矢が現れた。

 唖然と見つめる真を他所に結衣はゆっくりと目を瞑った。以前見た、矢を放つ際に行う所作の一つだった。

 そのまま矢から手を離す。放たれた矢は直後に分裂し、気が付いた時には先ほどと同じような光と音を放っていた。思わず手で顔を覆うほどの突風の中でも、彼女は不動のままだった。

 色々と聞きたいことがあるのに、真は何も聞けないでいた。凛と佇む彼女にはそれを許さない鋭さがあるように映った。隣に立つその人も表情を変えることなくただその様子を見つめている。

 そうしているうちに元の公園に戻っていた。結衣は嘆息を一つすると「何の用?」とだけ言う。

 すると公園の入り口に誰かが現れた。

 その白い髪と瞳は一目で誰かすぐに分かった。

「四ノ宮、さん……?」

 そう尋ね、そこで自分が公園の敷地内にいることに気付き、慌てて腰を上げ手に付いた砂利を払った。

 四ノ宮はその様子を一瞥すると、何も言わずに姿を消した。

「ちょ、待って!」

 後を追うがそこには誰もいなかった。

 困惑したまま振り返ると、何事もなかったかのように健治の自転車とその持ち主を担ぐ結衣の姿があった。

「え、ちょ、ちょっと待って!待ってください!」

 事態があまりに急すぎて軽くパニックになりながらも、真はひとまず結衣を制止した。

 表情の変わらない結衣だが明らかに機嫌が悪そうだった。

「健治をどこに運ぶ気ですか!というかそもそもあれはなんだったんですか!第一なんでここにあなたが──」

「うるさい」

 一言、そう告げると結衣は真の横を通り抜ける。

 呆気に取られる真を見て傍にいた人物がこう告げた。

「ここじゃ話しにくいからついてきて、だってさ」

「は、はぁ……。でも、どこに?」

「いいからいいから」

 ポンポンと肩を叩くと、その人物も結衣の後を追う。

 何が何だか分からなかったが、ひとまずはついていこうとするも、公園の端に放置された二人の鞄を見つけ、なんだかやるせない気持ちになりながらそれを手に取り自転車に跨る。

 特に何の変哲もない夜道が、いつも以上に暗く見えた。



 

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