August 7
「あっ、ごめんなさい。友達が来たから行かなきゃ! じゃ」
あさみさんとの会話を強引に打ち切り、左右の確認もせず、ぼくは道の向こうに駆け出した。
視界の隅にクルマの影が見えたが、止まらず走る。
このまま跳ねられて、死んでしまえばいい。
そんな想いさえよぎる程、惨めな気分。
だけど、向こうからやってきたのは、ノロノロと走る駅行きのバスだった。
萩野さんはこのバスに乗るんだろな。
あの、お洒落でちょっとエロいカッコは、どう見てもデートだよな。
彼女がぼくを好きだなんて、そんなのありえない。
くだらない妄想で、現実の幸せを壊すのはやめよう。
ぼくはあっこが好きだ。
そりゃ萩野あさみさんは、『初恋の人』という、女神にも等しい特別な存在だけど、あっこに対する気持ちだって、それに負けない。
彼女を抱きしめてると心が安らぐし、その反面、ドキドキして気持ちもからだも昂ぶってくる。
あっこは身も心も全部ぼくに晒してくれて、そんなあっこをぼくは好きになった。
だけど、あさみさんは違う。
バス停でちょっと立ち話ししたくらいで、あさみさんのすべてが理解できるわけがない。
つきあってるうちに、違和感を感じたり、彼女の中のドロドロしたものも見てしまうかもしれない。
『初恋の人』だって事で、ふつう以上にあさみさんに対する期待値が高くなってる分、彼女のイヤな部分を見てしまうと、一気に気持ちが冷める事だって、ありえるかもしれない。
あさみさんの清楚で清らかな香りは、魅力的で心地よかったけど、あっこの酸っぱい汗臭い匂いに、なぜか心を惹きつけられる。
今まで何度も同じ答えを出してきたが、今のぼくにとっては、あっこの汗の臭いこそが現実なんだ。
「先輩。今話してた女の人、だれですか?」
「ああ。ちょっと…」
あっこのそばに駆け寄った時、後ろの方でバスが到着し、ドアが開く気配がしてきた。
振り向きたいのをぐっと我慢して、ぼくは無理矢理、あっこに向かって笑顔を作りながら、言い訳した。
「迎えに来る途中、失くしものして… 探してたらあの人が来て、いっしょに探してくれたんだよ」
「失くしもの? で、見つかったんですか?」
「いや… 見つからなかったけど… もういいんだ」
「いいんですか? いっしょに探しましょうか?」
「うん… もういいよ。どうせ、たいしたものじゃなかったし」
背中でブザーが鳴り、バスの発車のエンジン音が、いちだんと大きく響いてくる。
『行ってしまう』
漠然と思いながら、なんだか可笑しくなってきた。
そう言えば、ぼくが初めて萩野さんを見たのは、このバス停で、彼女がぼくの方を振り向いた時だったな。
『来たわ!』
そのひと言で、ぼくは一瞬にして、初めての恋に落ちた。
そして今、彼女はバスで行ってしまう。
それは、ぼくのバスストップ・ラブに、ぴったりなエンディングかもしれない。
「ふ…」
つい、笑みが口をついて出る。
「どうしたんです? 先輩」
「えっ? べっ、別にどうもしないけど…」
「ふうん…」
あっこは少し黙ったが、急にぼくの顔を見上げて、やっかむ様に言った。
「今の女の人… めっちゃ綺麗でしたね」
「え?」
「遠くからだったけど、すらっと細くて髪が綺麗で色が白くって… 雰囲気がすっごい華やかで。なんか、あたしと正反対って感じでした」
「そ… そうかな?」
「ちょっと、妬けちゃいました。先輩、ほんとはあんな女の子が好きなんじゃないかな、って思って」
「…」
「あたしなんて、ムチムチしてて色も黒いし、チビッコだし。髪だってクセっ毛のショートで色気ないし… 性格もこんなだから、ずっと先輩に好きでいてもらえるか…」
つづく
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