August 4

そこには彼女…

萩野あさみさんが立っていたからだ!


驚きのあまり、ベンチからガタガタッと立ち上がり、思わず彼女を見つめた。

あさみさんも同じく、ビックリした様に目を見開いて、ぼくを見つめている。

ふたり、モロに、目と目が合っている!

彼女は今、目の前にいて、ぼくの存在をはっきりと認識している。

あれだけ『会いたい』と思って、このバス停に通ったのに、会えなかったのが、彼女の事を諦めると心に決めたこのタイミングで、会えてしまうなんて…

運命のいたずらとしかいえない。


いったい、どうすればいいんだ!


涼しげなラベンダー色の花柄が入った、白のキャミソールワンピを着たあさみさんは、薄いピンクのサマーカーディガンを羽織っていて、ヒラヒラとしたワンピースの裾から伸びる素足が、ことさら眩しい。

明らかに『お出かけ』といったオシャレな私服姿は、いつも見ていた制服とのギャップがありすぎて、鮮やかで強烈だった。

制服姿じゃわからなかったけど、襟の開いたワンピースの胸元は、ふっくらとした曲線を描いて盛り上がり、夏の日射しに照らされて余計になまめかしい・・・

って、どこ見てんだ自分!


不審そうな顔をして、彼女はぼくに訊いてきた。


「どうして… わたしの名前を知っているんですか?」

「あ…」


言葉に詰まる。

夢にまで見たあさみさんとの会話だというのに、あまりに突然過ぎて心の準備もできてなくて、頭の中がパニクってる。


「とっ… 友達が、いつもそう呼んでたから… あさみさん、って…」


やっとの思いで、もっともらしい理由を言う事ができたが、次の彼女のアクションに、ぼくは戦慄していた。


ただでさえ、ぼくは彼女から嫌われてる。

なのに、友達との会話にまでこっそり聞き耳を立てていたと知れたら、もっと嫌われるだろう。

まして、まさるが裏で彼女の事を嗅ぎ回っていたと知られたら、これはストーカー認定間違いなしだ。

露骨に嫌悪の表情を浮かべ、避ける様に顔を外らす彼女…

まさるが言った、毛虫でも踏んづけた様な、『イヤなものを見てしまった』という顔。

次の瞬間に見せる、そんな表情のあさみさんを、ぼくは想像した。


もうダメだ。

この場からダッシュで逃げ出したい。

でもそれは、あまりに惨めすぎる。

なんとか踏みとどまっていられる様、ぼくは必死にこらえていた。


ところが、萩野さんはぼくの答えを聞くと、恥ずかしがる様に微笑んだ。


「やだ。わたしたちの会話、まる聞こえだったんですね。どうしよう…」


そう言って彼女はうつむき、なにか言いたそうな様子でもじもじしていたが、ようやく口を開いた。


「あの… 5月頃から、朝、このバス停にいましたよね」

「えっ? ええ、まあ…」

「今日はマスク、してないんですね」

「あ。はい」

「お加減でも悪かったんですか?」

「…」


なぜ?

どうして彼女は、そんな事を訊くんだろう?


「あ… ごめんなさい。わたし、余計な事訊いちゃったかも」


ぼくが戸惑っているのを見て、彼女は軽く口もとに手を当てて、すまなそうに言った。

そのしぐさが可憐で可愛らしくって、ぼくを見る眼差しも、なんだかなごやかで…

それに、なんて綺麗で優しげな声なんだ。

とてもぼくを嫌っている様には思えない。


「い… いや、いいんです。あの、病気で。ずっとこの近くの病院に入院してて… マスクはずせなくて。伝染うつるといけないから。あっ。でも、もう大丈夫です。今日退院なんで」


ぼくの答えもなんか支離滅裂。雲の上を歩いてるみたいに、フワフワしてる。

初恋の萩野さんと会話してる、って現実感が、まるでない。


「え? そうなんですね。おめでとうございます」

「あ、ありがとう…」

「…」

「…」


なにを話していいかわからない。

あさみさんも次の言葉が見つからない様で、黙り込んでしまった。

そもそも、どうしてここで彼女と話しをしてるのかさえ、わからない。


気まずい沈黙が流れる。

『ジージー』と、セミの鳴く声だけがうるさく響いているのに、今さらながら気がついた。

彼女とこうしている間は、他の事がいっさい入ってこなかった。

そう言えば、なんだかとってもいい香りが漂っている。

そうか。

あさみさん、コロンかなにかつけてるんだ。

それはとっても清楚で清々しい香りで、あさみさんによく似合ってる。


「あの…」


意を決したかの様に、萩野さんは口を開いた。


つづく

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