August 3

 8月25日。

長かった様で短かった3ヶ月間の入院生活。思えばその間に、いろんな事があった。

初めて恋した人との出会いと、あっことの付き合い。看護師の安倍さんやテニス部の騒動。

あと、iPhoneを使う様にもなったな。


そんな入院生活も今日でおしまい。

明日からは普通の高校生に戻る。


ちょっと感傷めいた気持ちになりながら、ぼくは病室に残っていた私物の整理をした。

退院の日は両親とも仕事で来れないので、だいたいのものは、先週の日曜日に来て運び出していた。その時入院費の会計や、看護師さんや先生への挨拶なんかはすませていたので、今日は数日分の荷物をキャリーバッグひとつにまとめて、病院を出るだけだ。


荷造りをすませたぼくは、時計を見た。

まだ9時か。

10時にあっこが来る事になっていたので、それまではやる事がない。

あっこをバス停に迎えがてら、散歩でもしようと思い立ち、ぼくは外出着に着替えた。



 8月の田舎道は陽炎が立ちのぼり、はるか彼方には逃げ水が浮かんでる。

植物はみな、葉っぱを空に向けて伸ばし、緑の色をさらに濃くしている。

左右に青々と広がる田んぼは、稲が穂を出し実りを蓄えはじめていて、浅く張られた水の上ではアメンボがすいすいと泳ぎ、時折カエルが跳ねている。

入院したての頃は、まだ背の低い苗の様な田んぼだったのに、気がつけばこんなに成長している。

ある種の感慨にけりながら、ぼくは田舎道を歩いた。


額や背中に流れる汗が、心地いい。

退院できる嬉しさと、もうマスクをしなくてもいい解放感で、足どりも軽くなる。

条件反射の様に、ぼくの足は『中谷2丁目』のバス停に向かっていた。



実は、夏休みに入ってからも何度か、ぼくはこのバス停に来た事がある。

夏休み中は学校にはほとんど行かないだろうから、彼女も8時10分のバスに乗らないだろうと思いつつ、それでも『もしかしたら、萩野さんに会えるかもしれない』という、何百分の一かの確率に期待して、ぼくは足を運んでいた。

8時10分だけでなく、時間を変えて何度も寄ってもみたが、やはり彼女に出会う事はなかった。


「これで・・・ いいんだ」


真夏の日射しが照りつけるだけの、誰もいない『中谷2丁目』バス停にたどり着き、ぼくはつぶやいた。


背もたれの広告の色が剥げかけた、オンボロのベンチ。

バス停の標識は少し傾いていて、ところどころ、錆が浮いている。

バスを待つ人々に踏み固められて、平らになって草が生えてない、道路脇の待合スペース。


なにもかもが懐かしい。

ベンチに腰を降ろし、まわりを見渡し、ぼくは目を閉じる。

萩野さんがそこに佇んでいる姿が、思い浮かぶ。


眩しいほどに真っ白な、夏服の制服姿。

ミニのプリーツスカートがそよ風になびき、サラサラの長い髪がそよぐ。

友達と話すときの、明るい微笑み。

小鳥が歌う様な、綺麗な声。

バスが到着する寸前、スマホを取り出し、時間を確認するしぐさ。

バスのステップを昇っていくときの、軽やかにひらひらと踊るプリーツスカートと、そこから伸びた綺麗な脚。


ほんとに素敵な人だった。

あんな人にはもう、巡り会えないかもしれないし、こんなにドキドキした新鮮な気持ちには、もう二度となれないかもしれない。


だけど、『萩野あさみ』という女の子は、『結核入院』というぼくの非日常の生活の中で出会った、非日常の存在。

確かに素敵な女の子で、ぼくの初恋だったけど、彼女がいなくてもぼくの生活は変わらない。

それよりも今は、ぼくに常に寄り添っていてくれるあっこを、大事にしてやりたい。


ただひとつの心残りは、そんな萩野さんに・・・

嫌われてしまったらしい事。


彼女に対して、悪い事をした覚えはないのに、どうしてだろう。

まさか… 盗撮や、その画像をオカズにした事が、バレてる・・・ なんてわけはないだろうし。


ぼくの存在自体が、彼女にとってキモいものだったのだろうか?


毎朝毎朝、マスク姿でバス停に立っていて、彼女の事をチラチラと盗み見している、ふつうの高校生とは思えない正体不明の男・・・ って、どう見ても気持ち悪いに決まってるか。


なんだか、悔しい。

こうして、もう二度と会えないと思うと、いろいろ後悔も湧いてくる。


一度だけでも目を合わせてみたかった。

そして、話をしてみたかった。

そんな事もできないまま、中途半端で、嫌われたまま終わる、初恋。

もっと、どうにかできなかったんだろうか。


・・・なんだか凹む。


いや!


もう、彼女の事を考えるのはよそう。

萩野さんへの想いはもう、断ち切らなきゃ。


「さよなら・・・ 萩野あさみ、さん…」


声に出して言ってみる。

そうする事で、この決心が確実なものになるだろう。


「え…?!」


その時、ぼくの後ろで人の気配がして、声が聞こえてきた。

女の人の声だ。


「?」


振り向いたぼくは、思わずベンチから転げ落ちそうになるくらいびっくりして、目を丸くして声の主を見た。


そこには彼女…

萩野あさみさんが立っていたからだ!


つづく

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