July 12
『ジャンケンで負けたんです』
はじめてこの病室に来た時、確かに酒井はそう言った。
『先輩結核じゃないですか。だからクラブの誰もここに来たがらなくて、仕方ないからジャンケンで決めてるんです』
そう言って酒井は、仕方なしにお見舞いに来ているかの様に振舞っていた。
いったいどういう事なんだ?
いちばん後ろの方に立っていた酒井を、ぼくは振り返って見た。
彼女は表情を強ばらせ、唇をぎゅっと結んでいる。
「もういいじゃないか、宮沢。それはもう終わった事だろ」
「よくないです。この際だから言わせてもらうけど、酒井さん私情交え過ぎ。
だいたい酒井さん、甲斐くんの事が好きなんじゃない? 隠してるつもりかもしれないけど、もうバレバレ。
入院したのをきっかけに、せっせと通って、ポイント稼ごうって魂胆なんだろうけど、そんなの浅まし過ぎる。そんな理由で練習サボってる様な人に、レギュラーになんかなってほしくな…」
“バシッ!”
激しい衝撃音がロビーに響き渡り、宮沢が頬を手で押さえた。
人混みをかき分けて前に出てきた酒井は、平手打ちを食わせながら、威嚇する様に宮沢を睨んだ。
「痛った~、、、 酒井! おまえ先輩に手ぇ上げるとか、ありえねぇ!」
「うるさい! このおしゃべり女!」
「おまえ、それが先輩に向かって言う言葉か?! ふざけんなよ!」
「くだらない話ししといて、先輩ヅラしないで!」
「なにぃ?」
ふたりはロビーのど真ん中で、睨みあった。
今にも取っ組み合いのケンカを始めそうな勢いだ。
「やめろよふたりとも。ここは病院だぞ」
部長がふたりの間に割って入る。
「酒井、宮沢に謝れ。宮沢も言い過ぎだ。酒井の気持ちも考えろ」
部長はそう言ってふたりをなだめるが、宮沢は木で鼻をくくる様にツンと横を向く。酒井もなにも言わないまま、
「酒井!」
部長の止めるのもきかず、酒井はダッシュでロビーを飛び出していった。
「宮沢先輩。言わせて下さい」
後ろの方にいた篠倉がそう言いながら手を挙げて、人垣を押し分けて前へ出てきた。
「わたしも今のは、先輩が悪いと思います」
酒井をかばう様に、篠倉は面と向かって宮沢に言った。
「こんな大勢の前で、しかも、甲斐先輩の前で… わざわざ言う事じゃないと思います。あんな風に暴露されたら、あっこの立場がなくなるじゃないですか」
篠倉の発言を機に、背後にいた一年女子が、擁護する様にささやきはじめた。
「そうよね~」
「今のはちょっとね~」
「あんな事、好きな人の前でバラされたら、あっこじゃなくても切れるわよね」
「やっぱり宮沢先輩、あっこにレギュラー奪われたからって、逆恨みしてんじゃない?」
「テニスで勝てないからって、こんな仕打ちはないわぁ」
「みっともないわよね~」
たちまち宮沢の顔色が蒼くなった。
その場を取り繕う様に、部長が宮沢に言う。
「もういいだろう宮沢。篠倉の言うとおりだ。この件はもう、前回のミーティングで話し合ったじゃないか。今更蒸し返す必要はないだろう」
「…」
「おまえに手を上げた事はちゃんと謝らせるから、とにかく、おまえも酒井にあやまっとけよ」
「…」
「宮沢!」
頬を押さえたまま膨れっ面をしていた宮沢は、部長の勧告にもしばらくは黙ったままだったが、そっぽを向いたまま、ポツリと言った。
「…すみません」
「ありがとうございます。宮沢先輩。わたし、あっこの事探してきます」
宮沢が謝るのを見届けると、篠倉はそう言ってペコリと頭を下げ、あっこが出ていったロビーのエントランスの方へ駆けていった。
ふたりのケンカのおかげで、すっかり場の雰囲気が盛り下がり、みんなの気持ちがバラバラになって、それぞれが勝手に小声で内緒話をはじめてしまった。
しばらく篠倉の帰りを待っていた部長は、いつまでも戻って来ないふたりにじれて、篠倉にメッセを送った。
『見つからないので、先に帰ってて下さい』
という返事が篠倉から届き、部長は諦めた様に席を立つ。
「すまんな甲斐。今クラブの中がちょっとゴタゴタしててな。まあ、おまえにはなにも責任ないから。
そんな事は気にせず、治療に専念しろよ。じゃあ、俺達もう帰るから」
「は、はい。今日はありがとうございました」
部長を先頭に、みんなはそそくさとロビーを後にする。
「じゃな」
「まあ、気にすんなよ」
「おまえのせいじゃないからさ」
「この結核野郎、モテモテだな」
そんな、慰めとも冷やかしともつかない言葉をかけながら、みんなも部長に続いて出ていく。
結局、篠倉と酒井は、最後まで戻って来なかった。
みんなが引き揚げた後、ぼくも自分の病室に戻った。
夕日が眩しい窓ぎわに立って、オレンジ色に染まりはじめた遠くの入道雲を見ながら、混乱した頭のなかを整理しようとした。
酒井がぼくの事を好き?
そんな事があるのか?
つづく
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