July 8


 “ドッ、ドッ、ドッ、ドッ”


これ以上速くなったら壊れてしまうんじゃないかってくらい、心臓がものすごい速さで激しく脈打っている。

意識が肉体から分離して、自分と外界の感覚がズレてしまっているみたいだ。

朦朧もうろうとした二重の意識のまわりに大きな虚無ができていて、そのはるか向こうに、矮小化してしまった現実世界が、断片化して存在している感じ。

そもそも、熱で意識が混沌としていて、ちゃんと筋道立ててものを考えられない。

過去の残像や願望が、ふわふわと遊離して、いやらしい夢になって、何回も何回もリフレインしてくる。

今が眠っている状態なのか起きているのかさえ、よくわからない。

胸に大きな重しを載せられたみたいで、痛くて苦しい。


そうやって、永遠かと感じるくらい長い間を、熱と呼吸困難と胸痛に苛まれながら、ぼくは虚無空間を漂っていた。

全身が鉛の様に重く、指一本動かすのも億劫で、もう・・・


『脈拍150超えてます』

『体温も41度です』

『栄養注射打ちましょうか』


そんな会話が、虚無空間の向こう側から、エコーの様に小さく響いてくる。


このまま、ぼくは死ぬのかな?

まあ… それでもいいか。


テニスのレギュラーにもなれなかったし、退院しても学校は留年するし、そうしたら友達とも離れていく。

ぼくの人生、もうメチャクチャだ。

これだったら、生きてたってムダな事だ。

初恋の人の、萩野あさみにも嫌われた。

どうせぼくの事を好きになってくれる人なんて、いないに決まってる。

クラスメイトも部活のやつらも、面会にさえ来てくれない。

酒井すら来なくなった。

こんな、だれからも好かれてないヤツなんて、死んだ方がいいのかもしれない・・・


ドロドロとした黒い意識が、頭のなかをグルグル渦巻いて、ぼくから命を引きはがそうとしている。

でも…


やり残した事もある。

テニスだって、試合のコートに立ちたかった。

あさみさんとだって。

ひと言でいいから、話をしてみたかった。

キスだってしてみたいし、それ以上の事だって…

経験してみたい。


童貞しらないまま死ぬなんて、やっぱりイヤだ!


そんな思いが通じたのか、それとも、本当はたいした病気でもなかったのか、何日か経つと次第に病状も治まってきて、意識もはっきりしはじめた。

そしてある朝、久し振りに気持ちよく目覚める事ができた。




「あ。甲斐くん、目が醒めた?」

例の巨体の看護師が隣に座っていて、目を開けたぼくに気づいて声をかけると、カーテンを引いて窓を開けてくれた。


まぶしい。


久し振りに見る気がする、初夏の太陽。

爽やかな風と光が、よどんだ病室に流れ込んできて、ドロドロした空気と意識を洗い流していく。


「今は…」


時間の感覚がなくなっていたぼくは、看護師に訊いた。


「7月13日。もうお昼よ。

甲斐くん4日くらい意識が混濁してたもんね。結核で肺が弱って抵抗力が落ちていた所に、雨に濡れたりして肺炎を併発しちゃって、かなり危ない状態だったのよ。でも、治ってよかったわね」


そう説明しながら、看護師はぼくに微笑みかける。


「看護師さん、ずっと看病してくれてたんですか?」

「当たりまえじゃない。結構目が離せなかったのよ」

「そんなにぼく、悪かったんですか?」

「そう… ね。甲斐くんはまだ若くて体力があったから、こうやって回復できたけど、お年寄りだったらわかんなかったわね」


そう言って看護師は窓の外を見た。心なしか瞳がかげっている。


「わたしが担当していた結核の患者さんで、やっぱり肺炎にかかったおじいちゃんがいたのよ」


だれに話すわけでもなく、看護師は自分を責める様にため息をついた。


「もう少し早く、わたしが気づいてあげられれば、治ったかもしれないって思うと、なんだか辛くってね」

「その人、亡くなったんですか?」


彼女はコクンと頷く。


「…やっぱり、人が死ぬのを見るのは、仕事とは言え、辛いものよ」

「…」

「わたしね、ここに勤める前は、市内の救急病院で働いていたのよ」

「救急病院?」

「工事現場の事故や交通事故とかに遭って、手足がちぎれたり内蔵が潰されたりして、血の海で悶え苦しんでいる様な患者さんが、しょっちゅう運ばれてきたわ。

手術してる途中で亡くなるなんて、よくある事だった。

わたし、その責任の重さとプレッシャ-でストレスが溜まりまくって、こんなに太っちゃったのよね」

「それで、救急病院は辞めたんですか?」

「まあね。『寿退社』ってのが表向きの理由だけど、命の瀬戸際の現場で働くのに、心が疲れちゃったってのが、本音なのかもね。

あ。こんな事患者さんに言うなんて。わたしって看護師失格かなぁ」

「そんな事ないと思います」

「ありがと」


ぼくの気休めのセリフを、彼女は『ふふ』と笑って受け止める。


「結婚後しばらくして、人が死にそうにないこのサナトリウムに復職したんだけど、どこの病院でもやっぱり、命の重さって、変わらないものね」

「…」

「だからよかった。甲斐くんが死ななくて!」


つづく

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