July 9
そう言って看護師はニッコリと微笑んだ。
それはとっても素敵な笑顔。
確かに彼女は太っているし、顔だって美人ってわけじゃないのに、その笑顔は心魅かれるものだった。
それはきっと、彼女が心の底から、ぼくの回復を望んでくれていたからだろう。
人の魅力ってそうやって、内面から滲み出てくるものなのかもしれない。
そう感じて、ぼくは改めて彼女の名札を見た。
大きなおっぱいの上で揺れているそのネームプレートには、『安倍典子』と書かれてあった。
「安倍さん… あの…」
「ん? なに?」
「こないだは… ごめんなさい」
「なにが?」
「『うざい』とか『ムカつく』とか言ってしまって…」
「ああ… いいのよ、もう。でも嬉しいな」
「え?」
「甲斐くんがそんな風に謝ってくれて」
「いや…」
「わたし、嫌われてるかと思ってたから」
「そんな事、ないです」
「こないだはわたしも余計な事言っちゃって。ごめんね」
そう言って安倍さんは微笑む。
よかった。
ずっと気になっていた事が、ひとつ解決して。
「はい、お薬。ちゃんと飲んでね」
見慣れた結核の薬を、水といっしょに差し出しながら、安倍さんは言った。
「そう言えば、面会謝絶の間に、高校生のショートヘアの女の子が、お見舞いに来たわよ。」
酒井の事か。
せっかく来てくれたのに、悪い事しちゃったな。
もう何日会ってないだろう。
あいつともなんだかギクシャクしたままだから、なんとかしないとな。
そんな事を考えながらぼくは、安倍さんの目の前で薬を飲む。
安心した様に、彼女は話を続けた。
「その子には、『面会できる様になったら連絡させる』って言っといたから、面会謝絶が解けたら、メッセでもしてね」
今回の肺炎は峠は越えたものの、面会が許されるまでに回復するのには、それからさらに一週間くらいを要した。
学校はもうすぐ夏休みに入る。
肺炎で寝込んでいる間に、わがテニス部はインターハイ県大会に突入している。
『地区予選団体戦の準々決勝は、2-3で敗退した』と、意識が混濁している間に、部長からメッセが届いていた。
うちのテニス部は県内屈指のレベルなのに…
かなり不本意な成績で終わったな。
それでも個人戦では、部長をはじめ数人の実力者は地区予選を勝ち抜き、県大会でも順調に勝ち進んでいるそうだ。
一回戦こそレギュラー落ちしたものの、酒井は次の試合には復帰できたそうだ。彼女自身はなにも言って来なかったけど、篠倉がメッセでそう報告してくれていた。
負けず嫌いの彼女の事だから、あれから猛練習して、レギュラーの座を取り戻したんだろな。
団体戦準々決勝で有力選手と当たって、タイブレークまでもつれ込んだものの、負けてしまったらしい。
酒井が勝っていれば、準決勝に進めていただけに、残念。
ぼくの面倒なんて見てなきゃ、勝てたかもしれない。
足を引っ張った様で、なんだか悪いことしたな。
他にも、クラスの友達からのお見舞いメール、まさるからのご機嫌伺いのメールなんかが、この二週間ほどで結構溜まっていた。
やっぱりぼくはひとりじゃないんだ。
みんなとはこうして繋がっていて、ピンチになると、励ましてくれるヤツもいるんだ。
そう思うと、少しは生きる希望も湧いてくる。
肺炎は確かに苦しくて辛かったが、生死を
面会謝絶が解けるまでの一週間、ぼくはかなり心穏やかに過ごす事ができた。
萩野あさみさんの事も、以前程執着がなくなり、考える事も減ってきた。
夏休みになると、彼女も学校に登校しなくなるだろう。
そうすると、8時10分のバスにも乗らないだろう。
この、糸の様に細い彼女との絆も、もうすぐ切れてしまう。
彼女の家や電話番号はまさるから聞いたけど、もう覚えてないし、例えわかったとしても、いきなり押し掛けたり電話したりできないし、そんなストーカーまがいな事はしたくない。
やっぱり彼女はまさるの言うとおり、ぼくが心の中で勝手に理想化した女神様で、本当の彼女はぼくの生活とは離れた場所にいて、決して交わる事がない存在なんだ。
そう考えると、なんとなくあきらめもつく。
萩野あさみの事は、もう考えない様にしよう。
彼女は、ぼくの甘い恋の最初のページを、美しく飾ってくれた。
それだけで充分だ。
感謝してる。
これ以上あさみさんの事を追いかけて、決定的に嫌われるのは辛い。
彼女の事は清らかな記憶のままで、一生大事にしまっておきたい。
そう思うと、なんとなく心も軽くなる。
久し振りに感じる、魂の平穏。
それは、その後に起こった夏の嵐の様な出来事までの、束の間の晴れ間みたいなものだった。
つづく
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