june 5

「萩野あさみ… さん。か…」


こっそり名前を呼んでみる。

まさるがぼくの断りもなしに勝手に調べて、教えてもらったってのは納得いかないけど、彼女にふさわしい、綺麗な名前だ。

活泉女学院って言えば、名前だけは聞いたことがあるが、隣街の伝統あるミッション系の女子校だ。

まさに、清楚で上品な萩野さんにぴったりの学校じゃないか。まさるのヤツはいい加減なスリーサイズを推測していたけど、身長はぼくの予測とドンピシャだったな。さすが自分。

エレクトーン弾くのが趣味だっていうけど、好きなシンガーの曲とか弾いて楽しんでるんだろうな。

『オフコース』なんて、確か70年代のフォークグループだったと思うけど、曲はほとんど聴いたことがないから、今度You Tubeで検索してみよう。こういう時はiPhoneって便利だな。


だけど、どんなにデータを集めても、そんな『カタログ数値』じゃ、あさみさんの魅力を語る事なんてできない。


 まさるの言うとおり、確かにぼくはあさみさんの事を、半ば神格化し、過度に崇めているのかもしれない。

ヤツからすれば、あさみさんもそこらの女子高生と同じ、『ただの女』にしか見えないんだろう。

けど、ぼくにはそれが耐えられない。

この初恋は一生一度のもので、彼女はぼくの中ではずっと美しいままの存在なのだ。

ただ、それがぼくの主観の中だけの存在であるのも、確かだ。

ぼくは彼女の本当の姿を知らないし、彼女もぼくの事を知らない。

まさるの言う様に、あさみさんに告白とかして、彼女に近づいていくのは、ぼくの初恋を貶める事になる危険を孕んでいる。


『萩野あさみ』という『ただの女』に、ぼくが勝手にかぶせた『理想』という金色のメッキが、ぼくの初恋の正体だとしたら…


彼女の事を深く知る事で、そのメッキがボロボロとハゲ落ち、下から彼女の本当の、ドロドロとした醜い姿が現れてくる事が、ぼくはなによりも怖い。


違う!


あさみさんはただの女なんかじゃないし、ドロドロした姿なんて、ない!

彼女は本当に純粋で、清らかな存在なのだ!



でも、あさみさんの事は忘れた方がいいのかもしれない。

結核で入院している様なぼくには、彼女に恋する資格なんてない。

まして、高嶺の花の彼女とつきあうなんて、そんなおこがましい事はできっこない。

彼女にとってぼくはいつも、マスク姿でバス停に突っ立っているだけの、ぶざまな存在。


いや。


その『存在』さえ、彼女は認識していないかもしれない。

だったら、彼女の事はぼくの青春時代の清らかな初恋の宝物として、心の底にしまっておいた方がいい。

これ以上、むやみに彼女に近づいて、理想の恋を現実で壊すのはよそう。


そうは思ってみても、やっぱり心のどこかで『彼女にもっと自分の事を知ってもらいたい、彼女の事をもっと知りたい』と叫ぶなにかがいる。

そんな理想と現実のはざまの葛藤で、その夜は全然眠れなかった。

『オフコース』の曲の中に、『眠れない夜』というのがあったが、まさにそんな感じ。

美しく澄んだ、そして切ないボーカルの曲を、You Tubeで何度も何度も聴きながら、寝落ちするまでぼくは、萩野あさみさんの事を考えていた。


つづく

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