おとな救命

王子

おとな救命

 出勤した私を待っていたのは、デスクにぞうに放り投げられた出荷日報達だった。

 上下も裏表もバラバラ、工場の油染みが浮き、表面がザラザラとホコリっぽい正方形がデスクに広げられている様は、いつだって私をいらつかせた。

 肩掛けカバンを下ろすのもさておき、散らばった日報をそろえて輪ゴムで留めクリアファイルにしまった。デスクを拭いたティッシュは黒く汚れ、より不快にさせられた。

 何月何日、生産工程A、8本、仙台工場出荷。何月何日、生産工程F、6本、北海道工場出荷。日報を延々と表計算ソフトに入力することが毎月のルーチンワークだった。そうして積み重ねた情報が、月末には請負うけおい職場あての請求書へと変わる。

 請負職場は以前から人手不足で、生産管理の担当者が自らラインに立っても工員達は連日の残業をなくされていた。日報は月末が迫ってようやく私のデスクを汚した。

 慢性的な忙しさは承知していたが、担当者は請求書発行の締め切りを知らないはずはなく、事務方である私をないがしろにしていることは明らかだった。日報がいくら遅くなろうが出してしまいさえすれば、あとは事務員の責任というわけだ。

 まるまる一か月分の山となった日報を、こびり付いた油汚れを削ぎ落とすように入力しているとき。電卓を忙しなく音高く叩くとき。乱雑な手書きで読めない日報を片手に担当者へ確認の電話をするとき。私は救急救命士を想像する。

 現場に到着すると、一刻のゆうも許さない惨状が目の前に広がり、清潔なガーゼやらタオルやらで止血しながら怪我人をたんに乗せ、救急車に運び入れる。

 意識、呼吸、心音、脈拍、血圧を、一秒たりとも見逃すまいと、神経を集中させる。一つでも間違えば、この重傷者はきっと私のせいで死んでしまう。一刻を争っていても、確認作業は蔑ろにできない。

 搬送の受け入れを要請すれば「空床無し」といっしゅうされ、また別の病院に電話をかける。ようやく搬送先が決まっても、それはスタート地点に立ったに過ぎない。

 他の車を押しのけるサイレンを聞きながら、気道確保、心臓マッサージ、静脈路確保、ブドウ糖溶液投与。次々に処置をほどこしていく。

 結果的に、怪我人の命が助かっても助からなくても「精一杯手を尽くしていただいてありがとうございます」とさんが送られるだろう。

 請求書は一円の違いも許されない。事務員の評価、会社の信用を一円がになっている。他人が判読できない文字なんて命取りになるはずなのに、彼らはお構いなしにミミズをわせる。難解な暗号の解読が終わっても、果てしない入力作業が待っている。

 請求書が仕上がっても感謝されることは無い。あるのは小数点処理を間違えたために不足した一円へのお叱りだけだ。

 過酷な時間との戦いの中、全力を尽くして職務を遂行すいこうする。そこには何の違いもありはしないのに、人命を落としても感謝される救急隊員と、一円を見逃しただけで嫌味を吐かれる事務員、その境界線は一体何なのだろう。

 こんな問いには意味が無い。答えは「事務員であるかどうか」で片付けられる。

 請求書の中央にちんした金額が、私の手を経由することは無い。やがて、約束やくそくがたに姿を変えて流れ着く。私が生み出したお金ではないから当然だ。遠慮えんりょな字を書こうが、日報に染みを付けようが、日報をキーボードの上に放り投げようが、実際にお金を生んでいるのは彼らであって、その事実は否定しようがない。

 だからだろう、担当者はどこまでも強気だった。

 この伝票だって、私が散々催促さいそくしてようやく持ってきたのだった。

 担当者は「そんなにもしつこく言うなら、全部お前がやれんのか」と声をあららげた。そして私の退勤後に、その怒りのざんをデスクにまき散らしていったわけだ。


 ひともんちゃくあったのは、請求書を発送して数日経ってからだった。

「ちょっと」と私に声をかけた社長は渋い顔をしていた。

「メール見た? 領収書に印紙が貼ってなかったってクレームが来てるんだけど」

 こちらが発行した請求書をもとに、請負職場の事務員から送金案内書が送られてくる。請求分の手形を発行するから、折り返し領収書をくれ、という指示書だ。

 私は、その金額を領収書に忠実かつ慎重に記入し、金額に応じた収入印紙をちょうして、簡易書留かきとめ分の切手を貼った手形送付用の封筒まで同封して発送する。

「社長、それは先方せんぽうかん違いだと思います」

 自信があった。完成した領収書はスキャンして画像データを残している。

 以前に印紙を貼り忘れたとき(このときは単純に私が貼り忘れたのだ)、もし先方の事務員が私のように領収書をていちょうに扱わなかったら……例えば、封筒にカッターの刃を深く入れすぎて中身までスッパリと切ってしまったら。封筒にコーヒーをこぼしたら。

 私にけいされ、うやうやしく取り扱われた領収書が、いい加減で愛想あいそうな事務員の手により封筒から引き抜かれたところで、電話が鳴る。これが運の尽きだった。うず高く積まれた書類の頂上にその身を置かれてしまう。大金と引き換えられた尊厳そんげんは踏みにじられ、やがて行方ゆくえ知れずになってしまう。

 そして恐るべきことに、事務員は悪びれもせずに、こう言い放つのだ。

「領収書が届いていません」

 私には、私と領収書の尊厳を守る義務があると気付いたのだ。

 だから今回の件だって解決法は至ってシンプルだ。画像データを添えて「再度ご確認ください」と返信すればいい。

 領収書の控えがあることを告げると、社長はうなった。

「君のミスじゃないのは分かった。ただね、それを送りつけたところで先方は納得してくれないだろうから。悪いけど、印紙の再送付やっておいてもらえる?」

 貼ったのは千円もする印紙だ。切手より少し大きいだけの薄っぺらいへんのくせに。

「いいんですか? 千円の印紙ですけど」

 金額はどうでもいいとして、印紙を送り直すのは貼り忘れを認めるのも同然だ。

 考え直してくれるのではないかと期待したが、社長は「今回よろしく」と笑っただけだった。本来の意味を奪われて、見かけを小さくするために軽々しくあてがわれた「」が、哀れに思えて仕方がなかった。


 有休をとった。

 理不尽に怒鳴られ、「印紙を貼付し忘れてしまい申し訳ありませんでした」とメモを書かされ、まともに仕事ができるとは思えなかった。事務室内のパソコンも電気ポットも来客用のイスも、手当たり次第になぎ倒せる気分だった。

 カバンに入れた文庫本がそろそろ読み終わるので、ショッピングモールの書店に来ていた。平日の日中なのに、まずまずの客入りだった。BGMにクラシックが流れる文庫小説の売り場でも、棚を眺める客が数人いた。

「お姉さん、ニートなの?」

 背後から突然に声をかけられて、体がこわばった。振り向くと、私の肩ほどの高さにつやつやした頭があって、男の子が立っていた。小学生だろうと思う。

「お姉さん働いてないの?」

 しつけな質問だが、子供に憤慨ふんがいするのも大人げない。

「働いてる。今日は休みってだけ」

 男の子は「ふーん」と言って、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。少しの間探って引き抜いた手には、小さくて黒い四角形が乗っていた。

「はい、あげる」

 差し出された四角形を指先でつまみ上げると、チロルチョコだった。

「お姉さん、元気無さそうだから。それに今日はバレンタインだし」

 そういえば、そんなイベントもあるんだった。もう、何年もチョコのやり取りなんてしていないから忘れていた。

 チロルチョコは微妙に柔らかかった。無意識に指先でやっていると、

「溶けかけのチョコだって、おいしければいいでしょ」

 と、不満げに言われてしまった。

「そうだね、ありがとう」

 包みを開けて、指でつまもうとして、やめた。包みから直接口に放り込む。

「あ。行儀ぎょうぎ悪い」

「おいしければいいでしょ」

 男の子は目を丸くして、私の目をじっと見た。

 きれいな目だと思った。その純真じゅんしんな目でショッピングモール内をつぶさに見て回り、怪我人を見付けてはチョコを分け与える救急隊員。それが彼の仕事なのかもしれない。

 ふと私がほおゆるめると、男の子もつられて笑った。

「じゃあね」

 男の子は手を上げて、背を向けて走り出した。あっという間に背中は遠のいていく。

「本屋で走っちゃダメでしょ」と、息を切らして追いかける気にはなれなかった。

 彼は、チョコを求めて待っている要救命者を探しに行くのだ。

 チョコを受け取った誰もが、彼に敬意を払って感謝を述べるだろう。

 そして彼はきっと、胸を張ってこう言う。

「これが僕の仕事だから」


 出勤した私を待っていたのは、デスクの上でこぢんまりとした一通の茶封筒だった。

 新しい文庫本が入った肩掛けカバンを引き出しにしまい、差出人を見ると請負職場の事務員からだった。いつもそうするように、慎重にカッターの刃を差し込んで封を切る。

 中をのぞくと、小さなメモ紙が入っていた。

「印紙が見付かったのでお返しします。封筒の中で張り付いていました」

 封筒の底には千円の収入印紙があった。姿勢を正した四桁の数字と、真に整った桜。

 メモの無愛想な走り書きは「きちんとのり付けしていなかったあなたにも落ち度があるから謝るつもりはない」とでも言いたげだった。いい大人が二人そろって、こんな単純なことに八十二円の送料を使っているなんて。なんだかしく思えた。

 始業チャイムが鳴り、今日も仕事が始まる。働かずに済むならそれが最高だけれど、労働を課されていない子供にも戻れないのに、駄々だだをこねるわけにもいかないだろう。

 コンビニで買ったチロルチョコを行儀悪く口に放ると、彼の自信に満ちた手が背中に触れた気がした。

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