第3話

 時間は夕食後へと跳ぶ。

 夕飯のカレーは牛肉がごろっとしたアレであったことを除けば晋一は概ね満足で(少し辛かったけどそれはそれでおいしい)(晋一は薄肉派)、レタスたっぷりのサラダやオーブンで焼かれたチキンもでてきて、外食するかのような心地であった。家主はどこかのシェフだったのだろうか。

 家主は食べている時以外は忙しなく家事をしていて、連絡先を聞く所ではなかった。そういえば常に家にいるのなら、持っていない可能性もある。それに気付き、晋一は自分の計画の甘さを恨む。

 リビングでぼんやりとテレビを見ていると、一旦部屋へ上がっていった寺本が降りてきた。

 あれ、と思って見ていたのがわかったのか、寺本は晋一を見て眉をひそめた。

「部屋の片付けはもういいのですか?」

「あー、まぁ、寝るところは整えてきたので、もういいかな、と……」

 言葉を濁す晋一に、寺本は納得していない様子だ。

「ゴキブリ駆除装備はいつでも身に着けられるように準備しておくんですよ、いつ出てくるかわかりませんからね。試着したりタグを取ったりしておいてくださいよ。ここ数日見ていませんから、そろそろ出てきてもおかしくないですから。

 北村君には期待していますよ」

 真面目な顔で肩をたたかれ、晋一は困惑する。

「あの……そんなにゴキブリが出るんですか? 燻煙除虫剤とか使用した方が良いのでは……」

 ずいぶんと寺本に脅され、一体どんなにゴキブリが出てくるのかと不安になる。この、実は力持ちであるらしい男が、それほどまでに自分に準備しろ、期待していると言うのだ。

「あいつらはそんな易しいものでは……。

 いえ、北村君を脅したいとか怖がらせたいという訳では無いですし、何にせよ兎に角準備だけは万全にお願いしますよ」

 寺本は準備を念押しした後、冷蔵庫から飲み物を取って部屋へ帰っていった。

 晋一は最終的に事態を飲み込めず、ポカンと後ろ姿を見送った。



「あっ、晋一クン! お風呂の準備でき……どうしたの、そんな呆けた顔で」

 寺本がたった今出て行った扉から家主が入ってきて、テンションの差に対応できない晋一はあとかえとか母音を何度か絞り出してから、正気に戻った。

「ご、ゴキブリってそんなにいっぱい出てくるんですか?」

「え? あいつから何も聞いてないの? いっぱい出てくるよ、一匹見つけると三十万の軍勢って言うじゃん」

「言いませんよ、せいぜい三十匹とかいう例え話で……」

「いや、斥候を見つけると背後には大軍が控えているだろうからな」

 家主も真剣な顔で言い切る。

「あの……ゴキブリの話をしているんですよね?」

「勿論。通常はゴキブ……いや。この話は忘れてくれ。ゴキブリはゴキブリだ。

 それよりお風呂の準備できたよ、入っておいで。今日は初日だし、ゆっくりお風呂に入って早く寝る方が良いと思うぜ」

 はい、タオル。と、ふかふかなタオルを数枚押し付けられた。話を無理矢理切り替えられて、晋一は口を挟めない。

「ボディブラシと剃刀、歯ブラシ以外は基本的に共有だから、好きに使っていいよ。

 お風呂は案内したっけ? 中央廊下の向かい、トイレの隣の扉だよ」

「では、お先にいただいてきます」

「ごゆっくり~」



+--+ +--+ +--+



「上質なシャンプーだった……」

 風呂上がり、髪を乾かしながら晋一は思わず口からそう漏らした。髪の毛がするするしている。乾ききるとさらさらとし、なんとも心地よい。香りがフローラルで少し気恥ずかしいけれども、些細なことだ。

 晋一は寝間着を着ながら、ふわふわと考える。

 初めは面食らったけれども、家主も寺本も悪い人ではないし、ご飯は美味しいし、お風呂も気持ちよかったし、明後日からの大学生活もきっといいものになる気がする。いいものにしたい。勉強も頑張らなくっちゃいけない。明日は大学への通学路を確認して、できれば美味しそうな喫茶店を見つけたり、街を見てまわ

「晋一クン! ごめん! ゴキブリが出た! 急いで準備して!」

 家主が脱衣所に飛び込んできた。

「はやく! 向こうで慶司も準備してるから、ほら急いで!」

「え、いや、寺本さんが準備してるって、それ僕は必要ないんじゃ……」

「は! や! く!」

「は、はいっ」

 家主の必死の様相に、晋一は慌てて家主の後を追って走り出した。

 階段の裏、物置と思しき扉を開ける。昼間に買いそろえたゴキブリ退治グッズ、殺虫剤、蠅叩き、バット、長いゴム手袋、エプロン、ゴム長靴、それに工場の人が使うような顔面の防具を次々に取り出して身に着ける。

「晋一クン、こっちだ!」

 全てを身に着け終わると、家主が別の部屋から大声で呼んできた。

 慌てて駆け込むと、部屋は赤い光で溢れていた。

「遅い!」

 異様な光に理解が追い付かず晋一が呆けていると、怒号が飛んできた。寺本の声だ。

「こ、これは? 一体何が?」

 目が慣れてきて部屋を見回すと、床にはよくわからない魔法陣が描かれており、寺本がゲームに出てくるような杖を床に突き立てて仁王立ちしている。晋一がつぶやいた疑問に返答はない。

「麻耶、代わってください、私は北村君にエンチャントを掛けます」

「わかった」

 3、2、1、と声を合わせ、家主と寺本が交代する。

「さて北村君」

 手が空いた寺本が振り返る。

「これから依頼のゴキブリ退治がはじまります。サイズや色、強度は少々違うかもしれませんが、基本的にゴキブリですから、叩いたり殺虫剤を吹き付けたりして殺してください」

「え、あの、ちょっと意味が分からないんですけど」

「習うより慣れろです。今から装備にエンチャントを掛けます。装備はすべて身に着けていますね? ではそこに立って。少しじっとしていてください」

 言われるままに気を付けの姿勢を取る。

 寺本が何かをブツブツと口の中で発して右手をバババッと振るったと思うと、晋一が身に着けていた装備が光りはじめた。

「うわっ! な、なにが……起きて……」

「動かない!」

「はいっ」

 気を付けの姿勢をとりなおし、じっと待つ。よくわからないが目もぎゅっと閉じた。

「よし、できました」

 五秒か十秒か、そんな時間であったはずが、もう何分も待った気分だ。

「これは……?」

 晋一が目を開けると、ゴム手袋やエプロンが、西洋の甲冑のような見た目になっている。

「手足を動かしてみてください。きつくありませんか? よろしい。

 体の部分には耐久、腕には剛腕、足には俊敏のエンチャントがかけてありますが、もとの素材が貧弱なので、あまり過信せず、慎重に戦闘を行ってください。

 殺虫剤のスプレー缶はそのままですが、ハエ叩きは槌に変わっています。重さはどれも元の素材と同じです。虫殺しのエンチャントをかけてありますから、少し退治しやすいと思います。

 それでは次にゲートのくぐり方の説明を……北村君? 聞いていますか?」

 怒涛の勢いでされる説明に晋一はついていけていない。

「えっ、あっ、あー、えっと、聞いてはいます」

「聞いているだけマシですね。

 今あまり詳しい説明をしている時間がありません。

 兎に角、ゲートをくぐる間は私の服の端をよく握っておいてください。有事ですので仕方ありません、私が何とかします」

 寺本は再びブツブツと口の中で何かを唱えながら手をバババと動かす。ピカッとしたと思うと、寺本の服が、ゲームに出てくる魔法使いのようなものへと変化している。

「二人とも準備できたか! 出来るだけ早く行って早く帰ってきてくれ!」

 急かす家主の声に押されて、寺本はその他の説明を全部諦めたようだった。

「さあ北村君、初陣です。とりあえずゲートの魔法陣に閉じ込めてあるゴキブリを殺してください。陣の中に手を入れないように気を付けて。手だけ向こうに行ってしまうとまずいですからね」

 さぁさぁ、と晋一は背中を押され赤い光を発している部屋の中央へ押し出される。

 床に広がる、細かい文字や記号や直線や円で描かれた、寺本曰く「ゲートの魔法陣」の中に、数匹のゴキブリがカサコソと動き回っている。

「北村君、申し訳ないのですが殺虫剤は使わず、ハエ叩きの槌だけで倒してもらえますか。しばらく換気ができないので」

「は、はい」

 晋一はおずおずと槌を手にする。見た目よりずっと軽い……、そうだ、これは元々はハエ叩きだったんだ。

「家賃二千円引きはこのゴキブリ退治にかかっていますからね。頑張ってください」

 寺本のよくわからないエールを背に、晋一は大きく振りかぶり、手前の縁にいる一匹を目掛け振り下ろす。

 ゴトン! と床が叩きつけられる音がする。

「惜しい、もう少しよく見て振り下ろすんだ、相手はゴキブリだぞ!」

 家主が声を掛けてくる。

「よし、もう一度……」

 晋一は気を取り直して次に狙いを定め、あまり振りかぶらず、槌を叩きつける!

「ナイスヒット! いいぞ、そんな感じだ晋一クン!」

「良いですよ北村君! 奥の方が今まごまごしているようです、陣に入らず向こうに回って!」

 二人から声援を受け、晋一は周りをうろうろしながらゴキブリを叩いていく。

「これで……最後だ!」

 バコン! と最後の一匹を叩き殺す。

 晋一はやれやれと安堵の溜め息を吐き、槌を降ろす。

「いやぁ、よくやったよ晋一クン! これで本番も安心だな」

「え?」

「何を驚いているんですか。チュートリアルはここまでです。筋は悪くないですから、きっとこの先も活躍してくれると信じていますよ」

「え、え、本番って何ですか、まだあるんですか、ふ、二人とももっと説明を」

「私の服の端をよく持っておいてください。あとは、時間がないのでなんとなく雰囲気で察しておいてもらえると助かります。では行きますよ」

 困惑しきりの晋一の背中をまた寺本が押し、二人で魔法陣の中へ入る。

「二人とも、ゴキブリの砂と一緒に転送するから息を止めておいてくれよ。

 そりゃ!」

 家主が掛け声と共に拳を振りかざすと、一瞬床が抜けた感じがして、晋一は目を閉じた。

「いつまで目を瞑っているのですか、北村君」

 すぐ寺本に催促され、目を開ける。抜けたと思った床はちゃんとある、というか、床ではない。

「ここは……え、どこですか……?」

 石のような肌の木が赤い葉を茂らせ、アスファルトとは何か違う舗装がされている地面、乾燥した風。

「ここは、まぁ端的に言うとあの世のうちの片方、地獄です。最近はずいぶん発展しまして、街と呼べる規模にも……いや、そういう説明をしている場合ではなかった。前を見てください」

 道の前方から、茶色く厚みのある何かが近付いてくる。

「ずいぶんと大きい……ご、ゴキブリ? ですね?」

 幅が一メートル、厚みが四、五十センチくらいだろうか。だが確かに見た目はゴキブリだ。

「そうです。先ほどのチュートリアルは日本の通常サイズでしたが、ここではあのサイズです。おおよそ、我々人間と同じサイズ感ですね」

 そこで一旦口を閉じた寺本が、どこから取り出したのか、長い杖を構える。

「さぁ北村君、これがゴキブリ退治です。やりますよ」

「えぇっ、この大きいのを……」

「『家賃二千円引き』ですよ。ほら、槌を構えて」

「いやちょっともう少し大きさを段階的に大きくしてもらうとかそういう」

「殺さなければ帰れませんし、そもそも向こうもこっちを殺す気ですからね。さぁ、がんばりましょう」

 それから寺本はまた「ブツブツ、バババ」を行い、杖の先端を光らす。その光がまっすぐ伸び、巨大なゴキブリを焼く。問答無用の先制攻撃であった。

 焼かれるゴキブリの奥から、他にも居たらしいゴキブリが飛んで空からこちらに向かってくる! 晋一は軽くパニックに陥っており、うぁだのひぇだのと情けない声が出るばかりだ。

「北村君! 殺虫剤の出番ですよ!」

 寺本の声で正気に戻り、慌てて腰から殺虫剤の缶を取り、空へ向かって噴射した。

 薬剤を嫌がり、空を逃げ惑う巨大ゴキブリ。

「いい感じですね。さぁ頑張りましょう!」

 あまり心のこもっていない声で晋一を励ます寺本。

 晋一は思っていたゴキブリ退治と全く異なる現状に胸の内で泣きながら、槌を構えた。

 二千円引きを諦めてでも、このゴキブリ退治は断ろうと誓いながら。




 勿論、断ることはできないのだが。

 全ては無事に退治を終えてからの話である。



完。

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あの世市地獄一丁目三番地 三上 珪 @neoaco

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