第15話 さちことにゃんた
「あー、もう。にゃんた乗っちゃ駄目だってば」
夏らしい入道雲が、つばめ荘のそばにやって来た昼下がり。
縁側に座り、まりに頼まれたカーテンに刺繍をしていると、広げたカーテンの端ににゃんたが乗ってきた。
「ほら。こっちこっち」
おもちゃで釣ってみるも、てこでも動く気は無いらしい。
「どきなさいーっ。にゃんた、太ったんじゃない?」
手で押しやろうとするも、澄まし顔でさち子を眺めている。
丁度その時、階段を掛け降りてくる足音が聞こえた。
「ちょっと出掛けてきますね・・・って。あっ、それ作ってくださってるんですね」
まりは、さち子の手元を覗き込んで嬉しそうに言った。
「でも、にゃんたが乗っちゃって。ほんと、すみません。部屋でやろうかな」
ふてぶてしく座り込むにゃんたから、カーテンを奪おうと立ち上がると、まりが「いやいやいや!」と慌てて制した。
「大丈夫ですよ。にゃんたの足跡もそれはそれで可愛いですから!」
そうして、まりは「海に行きます」と、小さな手提げ鞄ひとつを持って出掛けていった。
卵焼きの刺繍といっても、黄色い刺繍ばかりでは面白くないので、桜えびを混ぜたものだったり、海苔を巻いた卵焼きの刺繍にしたりしようと思っている。
色を変えながら刺繍をするのは、ほんの少しワクワクする。
新しい糸を使って縫っていくとき、糸の束の時とは違う色合いや雰囲気を感じられるのが楽しい。
手芸屋の
綺麗な色や、グラデーションの糸を見ていると、次は何を作ろう?と心が踊るのだ。
「あら、さち子さん。ほーら、にゃんたのスカーフ乾いたわよー。じっとしているのよ、付けてあげますからね」
にゃんたはタタタッと雅美に駆け寄り、お座りをして胸を張ってみせる。
まるで「さぁ、早く早く!」とアピールしているかのようだ。
「これ、夏らしくて可愛いわよねぇ。本当にどなたに頂いたの?お礼しなきゃ駄目よ」
「会う人みんなに聞いたらわかるんじゃないですかね。小さい町ですし。にゃんたが警戒せずに近寄るなんて限られてそうですし」
「この子、そもそも警戒なんてするのかしら」
雅美がツンツンと腕の辺りをつつくと、にゃんたは「もっともっと」と言わんばかりに、しなやかな体を雅美の膝に擦り付けた。
「こんにちはー!百合子ですー。開いてるから入っちゃいますよー!」
「あらあら」
雅美は慌てて立ち上がり、さち子は大きく広げたカーテンを手繰り寄せて抱き抱え、タンスの上に乗せる。
まぁ高いところにおいても、にゃんたには敵わないのだが。
「勝手におじゃましまーす。おおっと!あ、ごめんなさいね、いま大丈夫だった?はい、これお土産」
ちょうど玄関に出ていこうとした雅美と鉢合わせした百合子が、手に持っていたビニール袋を差し出した。
「厚揚げと絹豆腐。おぼろ豆腐も入れといたよ。サービス!」
「まぁ、こんなに?」
雅美は、手にした袋を覗き込む。
それを見て、ゆり子は「いいの、いいの。気にしないで」と手をひらひらとさせたものだから、雅美は上機嫌で台所へと入っていった。
「ゆりちゃん、お店休み?」
向かいの座布団に腰を下ろした百合子は、足を伸ばして「ふー!暑かった」と、思い切りくつろぐ。
「そう、それが違うのよ!滝じぃの事よ」
突然の大きな声に、さち子の隣に居たにゃんたの体がビクッと跳ねた。
「滝じぃ、怪我したのよ!」
「まぁ!!怪我?!」
さち子が言うより先に、台所でお茶を淹れていた雅美が飛び出してきた。
「な、なんで?大丈夫なの?」
「うん、大丈夫みたい。入院もしてないんだけどね。あの店、結構高い所にも商品重ねてるじゃない?上の物を取ろうとして、踏み台から落っこちて尻餅よ。腰が痛いって嘆いてたわ。お医者さんに出された薬と、湿布貼るの手伝ってきたのよ」
とりあえず大丈夫との話に、さち子と雅美は胸を撫で下ろした。
「後で様子見に行って来ようかしら」
「あ。じゃあ私は明日行きます。日替わりで毎日誰かが様子見に行けば安心じゃないですか?」
「さち子ナイスアイデア!良いねそれ。私は店が休みの日に行くわ。ねっ」
にゃーぁ
私たちの会話に賛同するかのように、縁側で日向ぼっこをしていたにゃんたが、大きなあくびをしながらこちらを見ていた。
「あー。この時間になると、雲がオレンジ色になってきて綺麗ねぇ。にゃんたも良い家に拾われたねぇ」
ガラス戸を開け放った居間からは、さっきまで水色だった空に、オレンジに染まる棚引く雲が見える。
「んー、我ながら美味しい」
百合子は、おぼろ豆腐を食べながら噛み締めるように言う。
少し温めたおぼろ豆腐に、刻んだネギとポン酢をかけただけのシンプルなもの。
熱を加えることで、大豆の甘みと香りが増した豆腐は、ふるふるとなめらかで堪らない。
「ゆりちゃんの豆腐は世界一だわ」
「当たり前でしょ!」
さち子と百合子が大笑いしていると、立て付けの悪い玄関のドアがガタガタと家中に鳴り響いた。
「ただいまですー」
「母さーん」
「あ!健太郎だっ」
まりに続いて大きな声で母を呼ぶ健太郎の声に、百合子は慌てて空になった食器を片付けようと立ち上がった。
「あぁ、置いててちょうだい。健太郎君、上がってらっしゃい」
雅美はそう言うと、玄関へと続く廊下へ出て手招きした。
「あれ!パパまで来てたの!?」
百合子の旦那が「おじゃまします。初めまして、夫の明史です」と会釈をしながら居間へと入る。
「母さん何食ってたの?ずるいなぁ」
「うちの豆腐よ!」
健太郎はもう食べ飽きたのだろう。
「あぁ」とだけ言うと、足元へ寄ってきたにゃんたを撫でまわした。
「百合子が遅いから探しに来たんだよ。健太郎が多分ここだって言うから。全く、いつも突然居なくなる」
「まぁまぁ。良かったらご家族皆さんで夕飯いかがですか?冷しゃぶでもしようかと思うのですが」
「えっ。でもご迷惑じゃ・・・」
「良いじゃなーい!そうしましょ!夕飯作らなくていいの助かるわぁ」
「父さん、俺も冷しゃぶ食べたい」
少し呆れている旦那をよそに、百合子は雅美を手伝うと台所へ入ってしまった。
午後6時。
少し早めの夕飯を、賑やかな百合子の家族と共にしている。
・・・賑やかなのは、主に百合子なのだが。
庭の草むらの虫だろうか。
ギー ギー
と、あちらこちらで鳴いている。
しゃきしゃきのレタスや、トマトを散りばめた上に盛られた冷しゃぶに、お手製のゴマだれをかける。
暑い日にもさっぱりと食べられ、お腹も満足する。
「まりさんは、海で何してきたんですか?」
さち子が尋ねると、まりはタンスの側に置いていた鞄から小さなスケッチブックを取り出した。
「うわっ。絵ですか!すごーい。雅美さんも見てくださいよ」
「まぁ。まりさん、こんな才能があったなんて」
「へぇ!器用ねぇー」
百合子も覗き込みながら感心している。
まりは恥ずかしくなったのか、パタリと綴じて鞄に戻した。
「食べ歩きであちこち行ってますから、写真代わりに描いてたんです。写真だと現像を忘れちゃったりするんですよね。ここの海、綺麗だから思わず描いちゃいました」
そんな話をしていると、にゃんたが自分のご飯を食べるため、百合子の旦那の側を足早に通りすぎた。
「お。お前そのスカーフ気に入ってるんだなぁ」
百合子の旦那が、ごはんにがっつくにゃんたの背中に向かって言ったのだ。
「え?明史さん、知ってるんですか?」
さち子が思わずそう言うと、慌てて「いえいえ」と首を振る。
「そこの通りで、知らない女性が着けてやってるのを見たんです。最初は飼い主かと思ったんですが、その人しばらくこの家を見てから駅の方へと歩いて行きましたよ」
この小さな町で
しかも店を営んでいて、顔も広い百合子の旦那さんが知らない人とは、ここの住人じゃ無いのだろうか?
「誰なのかな」
さち子の問いにも、誰もが「さぁ?」と首を傾げる。
それに、なぜこの家を見ていたのだろうか。
「・・・まぁ、いっか」
それからさち子たちはそれ以上、にゃんたのスカーフの謎には触れないまま、夕食を楽しんだのだった。
雅美は真っ先に食事を終えると「さて」と立ち上がった。
「滝じぃさんの様子を見てくるついでに、夕飯もお裾分けしてきますね。百合子さんたちは、ゆっくりしていってくださいね」
台所に入り準備をした雅美は、かごバッグに夕飯を入れ、滝じぃの所へと出掛けていった。
にゃんたは、タンスの上に置いたカーテンが気になって仕方ないようだ。
じっと見上げては、時折ちらりとこちらの様子を伺う。
「玉子焼き柄のカーテンなんて面白いね、うちも豆腐柄で作ってもらおうか」
「何でカーテンでまで豆腐見なくちゃいけないんだよ。勘弁してよ」
母の提案に、健太郎はうんざりした表情で言った。
にゃんたはまだカーテンに興味津々だ。
「駄目だよ」と首を振ってみせると、タンスに前足を掛け、後ろ足で立ち上がり、カーテンを何とかして覗こうと首を伸ばしていた。
そんなにゃんたの姿に笑いながら、楽しい夏の夜が過ぎていったのだった。
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