第16話 にゃんたのスカーフ

8月の早朝。


「・・・今日もやってる。はー、凄いわ」


庭から、元気の良いラジオ体操の音楽と掛け声が聞こえてくる。


腰を怪我していた滝じぃも、思いのほかすぐに回復し、ここ数日はまたこうして雅美と体操をしているようだ。


「あんたも眠いよねぇ。仲間だ」


枕元で丸まるにゃんたの頭を撫でると、迷惑そうにうっすらと目を開けた。


「そんな顔しなくてもいいじゃない。いっつも迷惑そうな顔するんだから。・・・よし、私も起きて朝ごはんの用意でもやるか!」


朝食はいつも雅美がやってくれているが、たまには私もやろう。


珍しくやる気を出したさち子は、勢いよく起き上がり布団を畳んだ。


部屋を出ようとすると、待ってましたと言わんばかりに畳んだ布団に飛び乗り、我が物顔で幸せそうに二度寝していた。



6時30分


外はすっかり明るくなり、ジーッと蝉が鳴き始め、庭の木の枝にはヒヨドリがやって来ている。


滝じぃと雅美はラジオ体操を終えて、何やら庭で話し込んでいた。


さち子は台所に立ち、卵を調理台に叩いてボウルに割り、白だしを加えてカチャカチャと菜箸でかき混ぜる。


「・・・お母さんって大変だったんだろうなぁ」


熱した卵焼き用のフライパンに卵を流し込むと、ジュゥウッという音と共に卵が縁から固まっていく。


菜箸でちょちょいと固まりつつある所を触って均等に卵液を流したら、海苔を乗せてくるくるっと巻いて、残りの卵も流して綺麗に長方形になるよう巻いて整えたら完成。


味噌汁は、昆布と鰹節で出汁をとったもの。


実は、あまり料理が得意では無い上に、めんどくさい事が苦手なさち子だが、味噌汁だけは出汁をとって作る。


あとは、冷凍庫を漁って出てきたししゃもを焼いて、朝食の準備は万端だ。



「あら、さち子さん。おはようございます。まっ、朝ごはん。美味しそうじゃないの。滝じぃさんもどうぞ」


縁側を上がった雅美が庭にいた滝じぃに声を掛けると「すまんね。お邪魔します」とさち子に会釈をした。


「まりさんはまだかしら」


雅美がそう言った時、ちょうど階段が軋む音が聞こえてきた。


「おはようございまーす。あー、良い匂い」


「まりさん、おはようございます」


さち子が食事をテーブルに並べる姿を見て、まりが目を丸くした。


「えっ!さち子さんが作ったんですか?」


「そうですよ。たまたま目が覚めたので。味はまぁ、保証しませんが」


「へぇ!ししゃもー!美味しそう。食べましょ食べましょ!滝じぃもおはようございます」


さち子、まり、雅美、そして滝じぃと朝食のテーブルを囲む。


のそのそと2階から降りてきたにゃんたは、さち子たちが食事を楽しむのを横目で見ながら、自分のご飯を食べていた。



「そういえば、さっき庭で何を話し込んでたんですか?」


さち子は、味付き海苔をほかほかのご飯にくるんで口に頬張って尋ねた。


「何か植物を育てようかと思いましてね。お花でも良いし、お野菜なんかも素敵かと思って。せっかくお庭があるんですもの。ねぇ」


滝じぃもそれに答えるように、ししゃもにかじりつきながら深く頷いた。


「へぇ!良いですね!トマトとかプランターでも出来ますし。おネギとか、よく使うからお庭にあると便利そうです」


まりの提案に、雅美は「良いわねぇ」と微笑んだ。


「じゃあ、来年の夏はゴーヤでお願いしたいです」


「あら、さち子さんはゴーヤお好き?」


「えぇ。子供の頃は苦くて駄目だったんですけど。大人になってお酒を飲むようになったら美味しさに気が付きました。もう衝撃的でしたね」


「あー!私もゴーヤ大好きです。そう言うのありますよね。大人になったら食べられるようになるもの」


まりは楽しみで仕方無いのか、目を輝かせて庭を見ている。


「ふふっ。じゃあ、来年はゴーヤで決まりね。私もゴーヤ好きなの。味噌炒めなんか甘いから苦味が少し落ち着いて食べやすくて好きで。今年は何を植えようかしら・・・」


花や野菜が庭にあったら、このつばめ荘もより生き生きとしたものになりそう。


そんな事に胸をときめかせていた。



「はー、ごちそうさまでした。我ながら美味しかった」


「ごちそうさまでした」


さちこに続き、雅美たちも手を揃えた。


「にゃんたどうしたの?さっきからずーっとお外眺めちゃって」


座り込むでもなく、耳をピンと立てたにゃんたは、縁側から動かない。


「何か音でも聞こえるんですかねぇ。人間には聞こえない何かが」


まりは立ち上がり、食器を重ね始める。


「悪いね。私も手伝うよ」


「いやいや、私たちでやりますから。座っててください」


さち子が腰をあげた滝じぃを制すると、雅美も頷いた。


「そうですよ。散らかった台所をお見せするわけにはいきませんからね。お茶でも淹れてきますよ」


クスクス笑う雅美を見て、「そうか。いやはや、すまないね」と再び座布団に座った。



「おばちゃーん」


食器を片付けていると、玄関から男の子の声が聞こえてきた。


「あら、健太郎君だわ。どうぞー、勝手にあがってー」


「はーい。おじゃましまーす」


「健太郎君、ひとりで来たの?」


さち子が、台所に掛けてあるのれんを避けて、部屋に来た健太郎に尋ねた。


「うん。あ、おじいちゃん、おはよう」


「おはよう。夏休みか。楽しいか?」


「うん、まぁまぁね。店の準備とか片付けとか手伝わされてるけど」


健太郎はまだ縁側で外を眺めているにゃんたの隣に座った。


「にゃんたー」


健太郎がぴんと立ったままの耳の付け根辺りをコチョコチョと撫でてやると、にゃんたもちらっと健太郎を見た。


「はい。お茶です。健太郎君、オレンジジュース。お煎餅も、適当に食べて。朝ごはん食べてきた?」


さち子は煎餅の入った菓子器をテーブルの真ん中に置いた。


「うん、食べたよ。ありがとう」


縁側に座ったまま、健太郎とにゃんたは外を眺めている。


「お母さんは?1人で来たのか」


「今日は店があるから。にゃんたに会いに来たんだ」


滝じぃにそう答えると、再びにゃんたと庭にやってきた3羽の雀を目で追っていた。



「にゃんたねぇ、さっきからずーっとそんななのよ。外が気になるのかしらねぇ」


さち子が言うと、健太郎は「ふーん」とにゃんたの背中を撫でる。


「色々あるよなぁ。お前も」


妙に疲れた大人の様な言い方に、さち子は思わず吹き出した。


「そうよねぇ。色々あるわよねぇ」


雅美が健太郎との間ににゃんたを挟むようにして縁側に腰を下ろした。


「良いのよ。色々あって、疲れたって。ゆっくり自分のペースで歩いていけたら。時々立ち止まるのも、振り返るのも。悪いことじゃないわ」


転がっていたにゃんたのおもちゃを手にすると、にゃんたの前で転がして見せた。


お気に入りのチリンチリンと軽やかな鈴の音がするおもちゃに、にゃんたも嬉しそうに飛び付く。


「猫っていいわよねぇ。おばさんも昔、田舎町でお店をやっててねぇ。住み着いた野良猫とよく遊んでたわ」


「へぇ。雅美さん、お店されてたんですか。そりゃあ料理も上手なわけですねぇ」


「お店をされていた方のお料理が毎日食べられるなんて幸せですねっ」


まりがお茶を飲みながら言うと、雅美は目を細めて「ありがとう」と言った。


「小さな喫茶店だったんですけどねぇ。お客様も村の常連さんばかりで、良い人ばかり。田畑に囲まれて、静かでゆっくりと時間が流れていて。自然を全身に感じられる素敵な場所だったわ」


滝じぃもさち子達も、雅美の話に想像を膨らませる。


「あそこは山に囲まれて、緑に溢れていたけど、ここは海がある事が違うくらいで、流れている空気はよく似てるかもしれない」


開け放った縁側からは、夏の陽射しを浴びた木々や草の青い匂いが、風に乗って部屋に入ってくる。


白っぽい水色の空は、眩しいくらいに輝き、大きな雲がゆったりと流れていた。



「にゃんたも、誰かを待っているのかしら」


ふと、雅美がにゃんたの背中を見つめて呟いた。


「誰か?」


健太郎が尋ねるが、雅美は首を降った。


「わからないですけどね。そんな気がしたの」


「会えると良いな」


滝じぃが静かに言った。


「会いたい相手が生きている事ほど、幸せなことはない。私はかみさんを亡くしてるからね、余計にそう思うよ。猫の一生は短いから。会わせてやりたいね」


おもちゃで遊ぶのをやめたにゃんたは、丸まるように座り、また庭を眺めていた。


耳をピンと立てたその姿は、やはり庭よりも向こうの何かを待っているように思えた。



「よし!」


健太郎が突然意を決したように、大きな声を出した。


「俺がお前の待ち人を見つけてやるよ。父さんがにゃんたにスカーフ巻いてる人を見たって言ってたし、その人が関係あるかもしれないだろ?もっと詳しく聞いて、毎日学校の行き帰りとかで探しててやるよ」


立ち上がった健太郎は、残っていたオレンジジュースを飲み干し、「ごちそうさまでした!とりあえず帰るね」と、慌てて家を出ていってしまった。


滝じぃも帰った午後3時。


さち子は居間で1人縫い物をしながら、珈琲を飲んでいた。


にゃんたは、縁側でごろんと気持ち良さそうに横になって寝ている。


「私も一緒に昼寝でもしようかしら」


眼鏡を置いて針山に針を戻した時、まりが階段を掛け降りてきた。


「さち子さん、カーテン良い感じですよ!可愛いです、ありがとうございました」


昨夜完成した卵焼き柄カーテンを付けに部屋に戻っていたまりが、興奮気味に言った。


「あら、そうですか。良かったです、頑張った甲斐がありますよ」


「本当にありがとうございます!何かお礼しなきゃですね」


「じゃー・・・絵描いてくださいよ。この町の海の絵。にゃんたも一緒に描いて欲しいです」


すやすやと昼寝中のにゃんたを指差してそう言うと「了解です!任せてください」と部屋に戻っていった。



夏の昼下がり。


海の見える小さな田舎町の、古民家の縁側。


絶妙に日陰になっている場所で、1匹の猫と40代の女は、お腹を空に向けて眠りに落ちた。


蝉の鳴き声が元気すぎるそこは、時間をも忘れてしまいそうなほどにゆるやかな空気があった。


猫の首には、青いストライプのスカーフが風に揺れている。


にゃんたは体を起こし、後ろ足でスカーフの辺りを何度か掻いたあと、今度はさち子にお尻をつけるようにして再び眠ったのだった。


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