第14話 はしり梅雨
しとしとと雨が降る朝。
軒先から落ちる雨粒が、庭に置いてあるバケツをポンポンと耳障りの良い音を鳴らしている。
「よく降るねぇ」
居間の畳に寝そべり、本を読んでいたさち子は縁側のガラス戸越しに空を見上げた。
灰色の雲に覆われ、雨に濡れた庭の木は、葉の色を深い緑に変えている。
「にゃんたー・・・あ、何で逃げるのよー」
ごろんと転がってにゃんたに手を伸ばすと、ひょいと軽やかに立ち上がり避けられてしまった。
そういえば、二人は何をしているのだろう。
雅美もまりも、朝食を終えたらすぐに部屋に戻ってしまった。
「よしっ」
小さく気合いを込めた掛け声と共に立ち上がり、二人の様子を見に行くことにした。
「あ、何か差し入れ持っていこ」
テーブルにある菓子器を開けると、ざらめがまぶしてある煎餅と、えびのおかきが入っていた。
「これでいっか」
それぞれ二つずつを掴み、居間を後にした。
階段を上ってすぐの雅美の部屋をノックする。
「はい、どうぞ」
「失礼しますー」
「あら、どうしました?」
机に向かってこちらに背中を向けていた雅美は、眼鏡を外して不思議そうにこちらを振り向いた。
「いやぁ、皆さん何してらっしゃるのかなぁって。あ、これ良かったら。って下の部屋にあったやつですけど」
「まぁ、うふふふっ。ありがとう。小腹が空いていたから助かるわ。今ね、これを書いていたんですよ」
そう言って見せてくれたのは、少し黄ばんだノートだ。
昔から使っているもののようだ。
湿気を吸ったせいか、すこし厚みが増し、紙にうねりも出ている。
「見てもいいんですか?」
「どうぞ。面白いものでも無いけれどね」
ガサッという音と共にページを捲ると、細かく丁寧な字がびっしりと書かれていた。
レシピノートだ。
「うわぁ、凄い!へぇ・・・これ雅美さんが?」
「いいえ。それは亡くなった母から貰い受けた物。ここでのお料理を作る時に、時々見ているのよ」
「雅美さんのお料理、本当に美味しいですもんね。はぁあ・・・お母さんのでしたか。良いですね、こういうの。素敵です」
さち子は、そっとノートを閉じて、雅美に返した。
「懐かしい、お母さんのお料理の味ってあるでしょう?当たり前のように食べていたのに、いざ亡くなってもう二度と食べられないってなると、とても恋しくなるのよね」
「お母さんの味かぁ・・・」
「このレシピ通りに作っても、全く同じにならなくて不思議に思うことがあったんだけど、当たり前よね。お母さんたちって忙しいから、いつもレシピ見てるわけじゃないのよね。その時の感覚で調味料の分量を変えちゃうんだもの」
クスクスと笑う雅美は、懐かしそうにノートを手に取り、表紙をそっと撫でた。
「だけど、この文字を見ていると、母が傍に居る気がして。だからこうして、いつでも目に留まる所に置いてあるのよ」
ノートを机の端に置くと、さち子が持ってきたお煎餅の袋を開けた。
「さち子さんは、ずっとここで暮らしていくの?」
煎餅を頬張るさち子に、雅美が尋ねる。
「んー。わかりません。なーんにも決めてないんですよね。行き当たりばったりな人生も楽しいかなーって、軽い気持ちで生きてるんで」
「へぇ。良いわね、そういうの」
「だから。飽きたら引っ越しちゃいます。わかんないですけどね。ははっ。まぁでも、すごーく気に入ってるんで、そんな予定は無いですけどね」
ざらめ煎餅をひとかじりした時、部屋の襖がノックされた。
「えーっと、お集まりですか?」
襖を少しだけ開けて申し訳なさそうに、まりが言った。
「いえ、まぁ。お集まりですけど、何も大したことはしてないですよ。暇だったんで、私が雅美さんの部屋に押し掛けただけです」
「そうでしたか・・・あの、さち子さん。お願いしたいことがあるんですけど、私の部屋に来て頂けませんか?」
「えぇ、いいですよ。行くつもりだったので。雅美さん、お邪魔しました。大切なノート、見せてくれてありがとうございます」
よいしょと立ち上がり、頭を下げてから雅美の部屋を後にした。
「あれなんですけど・・・」
「窓ですか?」
部屋に入るとすぐ、まりが窓の方を指差した。
「いえ、カーテンです」
窓には、白いカーテンが掛かっていた。
「これに刺繍してもらえませんか?」
まりは、シンプルなカーテンの端を掴んでヒラヒラとしてみせる。
「刺繍ですか・・・良いですけど、柄は?」
「・・・はん」
「え?」
言いにくそうに小声でぼそぼそと喋るので、よく聞こえない。
「・・・ごはん」
「ごはん?!」
突拍子もない単語に声が裏返った。
「いや、えっ、ごは・・・」
「無理ですよね?!わかってます、白ですもんね。買う色間違えましたよ、白に白の刺繍じゃあ意味わからないですよねっ」
まりは顔を赤くして、恥ずかしそうに髪を掻きむしっている。
「ご、ごはん以外で何かないですか?ほら、もうすこーしでも色のあるやつ・・・」
「じゃ・・・じゃあ。卵焼き」
卵焼きのカーテン。
なんて個性的なんだろうか。
さち子は大笑いしてしまった。
「卵焼きをの刺繍ねぇ・・・」
階段を降りた所で、抱えているカーテンを見て呟く。
部屋を後にする際、まりはさち子が渡した煎餅を握り締めながら、「宜しくお願いします」と頭を何度も下げていた。
「まぁ、出来上がりが楽しみではあるな」
これはこれで楽しい気もする。
「にゃんたー。あれ?あ!足汚れてるっ」
にゃんたの足跡が、縁側からさち子の前まで付いていた。
「勝手に出歩いちゃ駄目って・・・あー、また玄関ちゃんと閉まってなかった。にゃんた、おいで」
カーテンを汚さないように棚の上に乗せてから、にゃんた用にしてあるタオルで足を拭いてやった。
どうやら雨が止んだのを良いことに、散歩に出ていたらしい。
「あれ?これどうした?」
首に青いストライプのスカーフを着けている。
「どこかで貰った?」
さち子の質問にも、にゃんたは丸い目をぱっちりとさせているだけだった。
午後3時。
先程まで止んでいた雨が、またぽつりぽつりと土を濡らし、いよいよ本降りとなった。
「おやつにしましょうか」
居間に降りてきた雅美は、台所へと入っていった。
ちょうど首が凝って来たところだ。
「おやつは何かなぁっ」
さちこは針を裁縫箱に戻し、製作途中のカーテンは紙袋に入れておいた。
声に気が付いたのか、まりも部屋から出てきた。
「はーい、どうぞー。今日のおやつは・・・」
「わーっ、ゼリー!」
余程好きなのか、まりが歓喜の声をあげた。
「へぇー、良いですねぇ!美味しそう」
「オレンジジュースで作った簡単な物ですけどね。じめじめして暑いし、涼しくて良いかと思って、しっかり冷やしておきましたよ」
雅美がゼリーとスプーンをを並べている間、さち子は3人分のアイスコーヒーを用意した。
「よし。ではー・・・」
さち子の言葉を合図に、3人揃って「いただきます!」と手を合わせる。
にゃんたは、さち子の隣で猫用のおやつにがっついていた。
「まりさん。カーテン、順調ですから楽しみにしててくださいね」
「わぁっ、嬉しいです!すみません、無理言って・・・お返しに絵でも描きますよ」
オレンジゼリーを食べながら、まりが言う。
「絵が好きなんですか?」
「んー、まぁ食べる方が好きですけどね。絵も好きですよ。食べ歩きしながら、スケッチしたりしてたんで」
「そうなんですか、素敵ですね。そういうの。じゃあ絵をお願いします」
さち子がそう言うと、ふたりの様子を見ていた雅美が「楽しそうで良いわねぇ」と微笑んだ。
雨で外に出られないこの時期。
家の中での楽しみがあるというのは、なんと幸せなことだろうか。
優しくしっとりと降る雨も
土を跳ねさせるほどの雨の日も。
特別な事なんて無くても良い。
毎日1つ、少しでも楽しいと思える事があれば。
「本当、最近よく笑うようになったなぁ」
さち子は、ポツリと呟いたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます