第27話
澄埜ちゃんが根古畑にやってきたのは、僕が中学二年生になった春だった。
彼女は根古畑学園の新入学生で、当時は根古畑じゅうで話題になった。
高校進学の際に自分で各地の高校を調べ、こんな僻地の、こんなボロボロの寮に住むことを選んだ彼女を、当初、根古畑の人々は理解出来なかった。
規理乃ちゃんがここへ来たときと同じように、警戒と好奇心が入り混じった目で、やや遠巻きに見ている気配があった。
噂に聞くだけでなく、僕もタケル君達と実際に見に行ったりした。
見知った人ばかりの世界で暮らしていたから、彼女の姿は遠目からでもすぐに見つけることが出来た。
暖かな、春の陽射しのような人。
そんな印象を持ったのは、その時のことだったろうか。
それとも、もっと後になってからのことだっただろうか。
澄埜ちゃんと初めて会話したのは、五月に入ったばかりのゴールデンウィークのさなかだった。
僕とタケル君が棚田で田植えをしていると、通りかかった澄埜ちゃんが声を掛けてきた。
人懐っこくて柔らかな笑顔。
『ね、それ、私にも手伝わせて』
裸足になってズボンの裾を折り、汚れることなど厭わずに泥の中に入る。
『冷たーい!』
綺麗なお姉さんが、子供みたいにはしゃぐ姿を、僕らは戸惑いながら眺めていた。
白い肌にこびり付いた泥でさえ、彼女を飾る小道具であるかのように、澄埜ちゃんは自然の中で、草木や、陽射しや、風の中で、きっと誰よりも輝いていた。
僕が、彼女に憧れのような感情を抱くまで、さして時間はかからなかった。
田の畔に咲くホトケノザの花だったか、それとも山縁の道端に咲いたアケビの花だったろうか、僕が何かの花の名前を口にした時から、僕と澄埜ちゃんの距離は急速に縮まった。
彼女は誰より花が好きで、植物が好きで、『将来は植物学者になるの』なんて、冗談なのか本気なのか判らない口調で言っていた。
『まずは、根古畑植物図鑑を作るので、良太君を助手に任命します』。
そう言われたのは、梅雨に入って間もない頃だったと思う。
それからは、根古畑のあちこちに彼女を案内した。
大切な場所は、更に大切な場所になった。
楽しい思い出の場所は、より楽しい思い出を刻み込んだ。
澄埜ちゃんは、時おりお姉さん風を吹かしながら、険しい山道を歩いたりしていたときには、ほんの少しだけ甘えてくれたりした。
梅雨が明けて、強い夏の陽射しが集落の軒先に深い影を描く頃には、僕はもう、憧れではない感情を身に宿し、その強さに戸惑っていた。
僕は、澄埜ちゃんが好きだった。
「姉は、あなたと親しかったの?」
規理乃ちゃんの問い掛けは、僕の胸を苦しくさせた。
「たぶん」
きっと、誰よりも。
「どうして、ここまで?」
僕の地形図を見ながらの言葉。
道の無いところにまで張り巡らされた赤い線。
乱れて、
「どうしても」
「どうしても?」
「どうしても見つけたかった」
「……辛かったの?」
「うん」
きっと、君と同じように。
澄埜ちゃんと話すようになってから一年と少し。
中学三年生の夏、僕は、いなくなった澄埜ちゃんを狂ったように捜した。
大好きな緑を疎ましく思うほど、草を掻き分け、木々の枝を折り、やがては辿り着くと信じた。
緑が色褪せる秋も、人恋しくなる冬も。
そして高校に進学して、あの人と同じ学び舎に通うようになっても、どこかにその面影を捜し求めて、月日だけが流れた。
無為とも思える時を経て、無力感に苛まれて、もうすぐ高校二年生の夏を迎えようとしている。
あの人がいなくなってしまった時と、僕は同じ歳になる。
追い付きたいと思っていたのに、こんな形で追い付きたくなんてなかった。
静かな教室で、規理乃ちゃんは声を漏らすことなく強く唇を噛んで、ただ、涙を流していた。
僕も、規理乃ちゃんが探していた、澄埜ちゃんの痕跡の一つなんだ。
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