第19話
タロウの声で目覚める。
あの声は、雛が来たときのものだ。
昨日は椎名が来てくれたし、今日はリツと雛か。
俺、あるいは良太は結構モテるのでは、などと考えたりもするが、椎名はゴローに連れて来られたわけだし、雛はタロウに会いに来ただけ、とも言える。
リツに関してはどうなんだろう?
あんなことがあったから、何かしら特別な位置に置かれている気はするが。
そのリツはもう帰ったようで、枕元には綺麗に折り畳まれた紙が置かれていた。
置き手紙?
やたらと複雑な折り方がされているので、開くのに手間取る。
『ごちそうさま』
何が!?
思わず布団を跳ね上げ、上体を起こす。
着衣の乱れは……無い。
何だか唇に違和感があるので触れると、リップクリームのようなものが塗りたくられていて、微かにミントっぽい香りがした。
幸い、透明タイプである。
「意外と元気そうじゃない」
部屋に上がってきたちびっ子の雛が俺を見下ろしていた。
何となく癪に障ったので、立ち上がって見下ろしてやる。
「な、何よ」
ここで口惜しそうな顔をするから、コイツはからかわれるのだ。
「で、見舞いに来たのか?」
「タロウに会いに来たついでにね」
タロウは雛からもらった犬だ。
良太がひどく落ち込んでいた時期に、雛の家の飼い犬が生んだ子である。
もらうときに良太が名前を訊ねたら、「りょ、た、タロウよ!」と言ったからタロウにしたが、本当は良太郎と呼んでいたことを俺は知っている。
まあ言わないけど。
そんなこともあって、タロウは雛に対しては、他の人には見せないほどの喜びを表現する。
だから雛が来れば、タロウの声だけでそうと判るのだ。
雛は窓際に立って、今もタロウを見て微笑んでいる。
いつもは笑うと子供みたいに見えるのに、何故かタロウに見せる表情は、笑顔であっても母性を感じさせた。
子供っぽい雛が母親みたいに、母親のようなタロウが子供みたいに、そんな二人の関係は、見ていて心が柔らかくなる。
なのに──
「ついでどころか、他にも目的があるんじゃないのか?」
そんなことを言ってしまう。
べつに今でなくてもいいのに、心のどこかに刺々しいものが居座っている。
タケルは良太に謝ったが、図書室でのマサヤの一件は、意外と俺の中にどす黒いものを生じさせた。
雛の表情から、その母性が掻き消える。
窓から目を離して俺を睨みつけてから、そのくせ、力無く視線を落とした。
我儘で反抗的な子供が、言い返せなくて押し黙るみたいに。
「タケルやマサヤを使った件は失敗だったしな」
「あ、あれは私だって──」
雛は唇を噛んで、その先は言わない。
「瞳にも困ったもんだよな」
代わりに俺が引き継いでやる。
「べ、べつに、困らされてなんかない。ただ意見が違うっていうか……」
「瞳の意見を飲まざるを得ない、ってことだろ」
「でも! あの女が信用できないっていうのは私もタケルも同じ!」
「椎名の噂の出どころはどこだ?」
「それは……自然発生的にっていうか、あいつがあんな態度だから、良く思わない人なんていっぱいいるし……」
「ということは、態度が気に食わない人間がいれば、根も葉もない噂を立てるヤツが根古畑にはいっぱいいる、ってことだな?」
「……」
「守屋」
俺は雛を名字で呼ぶ。
雛の身体がビクリと反応する。
「っ! そんなふうに呼ばないでっ!」
そう呼ばれることを、雛はひどく嫌うのだ。
判った上で、俺は更に続ける。
「守屋、俺の邪魔はするな」
雛は、悲しげに顔を歪める。
「それは……命令、ですか?」
まるでどこかが痛いみたいに、懇願するような、か細い声。
「敬語はやめろ。それに命令じゃなくて頼んでるんだよ」
「だったら、守屋なんて呼ばないで……ください」
「俺の味方をしろとは言わない。表面上は瞳に合わせておけばいい。でも、自分の品位を貶めるようなことの片棒は担ぐな」
「は……い……」
普段の小生意気な姿はどこにも無い。
反抗的なくせに従順で、強がりなくせに臆病で、小さい頃から、みんなの中で一番の泣き虫だった。
俺は雛の頭をポンポンと叩いた。
普段なら、子ども扱いされたように感じて怒るのに、様子を窺うような上目遣いだけを返してきた。
「そんな顔すんな」
「でも……」
「雛」
名前を呼ぶ。
それだけで、怯えたように体を縮こまらせていた雛は、ほんの少し、その小さな口許を綻ばせた。
「雛」
もう一度そう呼んで、頭をポンポン。
「もういいって」
いつも通りではないけれど、我儘な女の子の顔を覗かせる。
べつに主従関係が結ばれているわけじゃない。
こんな歪な関係、いつかは清算しなきゃならないんだ。
椎名が良太に指摘したことは、良太が思っている以上に的確なものなのだから。
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