第18話
天井の木目を見て、あそこは顔みたいだ、とか、あの部分は川の流れだ、なんてことを思いながら、無為に時間が過ぎていく。
身体が怠いわりに、案外と寝られずに困っていると、「りょーたー!」というデカイ声が窓の下から聞こえてきた。
時刻は1時前で、まだ放課後ではない。
「上がるよー!」
椎名とは違って、リツは根古畑に適応し過ぎている。
でも、楠田立夏は、少し厄介な女だった。
初めて出逢ったのは、集落の外れにある、屏風岩と呼ばれる岩壁の上にある公園だ。
屏風岩なんて名称の岩は全国各地にあるが、根古畑のそれは比較的立派なもので、高さ100メートル、幅は300メートルほどもある。
岩壁の上の平坦地は公園として整備されていて、駐車場と芝生の広場になっている。
観光地というには程遠いし、時おり物好きな人がドライブで訪れたりするくらいだが、民家からは離れており、展望が開けて太平洋が望める気持ちの良い場所だ。
夜には満天の星の下、花火をしたりするには絶好の場所でもあった。
岩壁の上にあるから、その先端の手前には事故防止のための柵が設けられている。
初めて出逢ったとき、根古畑中学の制服姿のリツは、その柵の外側にいた。
柵から岩壁の先端までは5メートルほどはあるが、リツは残り1メートル辺りのところに立っていた。
俺は、あんなところに立てば、さぞかし胸のすくような思いだろうな、なんて呑気なことを考えていたけれど、その時は良太だったので、「そんなところで何してるの!?」と慌てて声を掛けた。
リツは驚いたふうもなく、ゆっくりと振り返り、何も映さないような瞳で俺達を見た。
今でこそ可愛らしさと愛嬌満載のリツだけど、その時のリツは、凄艶と言えるほどの美しさを纏っていた。
「あ、志藤先輩、ですか?」
少しだけ、リツの瞳に光が宿った。
「え、僕のこと知ってるの?」
「そりゃあ先輩は有名人ですから」
そう言って、どこか憐れむような笑みを浮かべた。
「あのっ、こっちに来て話さない?」
「嫌です」
リツの噂は聞いていた。
両親が離婚して、母方の実家のある根古畑に住むようになったこと。
なのに、母親はこちらに帰ってきていないということ。
「か、カノープスは見たことある?」
良太は咄嗟にそんなことを言った。
「かのーぷす?」
「えっと、冬になると水平線のちょっと上に見える星で、条件が揃わない限り見ることが難しいから、見れば長生きできるとか言われてて……」
「そっか、長生きできるんだ……」
その時、リツが浮かべた苦笑を、俺は忘れることができない。
「ここは条件がいいから、冬になったら一緒に見に来ようよ!」
南側の展望が開けて太平洋が見える。
本州の南端に近く、光害は殆ど無いし、標高は500mほどある。
東京なら地平線から2度の高さに見えるらしいが、ここからなら3~4度くらいか。
東京よりずっと条件はいいから、見える確率はそれほど低くはない。
「ナンパっすか?」
「ち、違うよ!」
「ふーん、ま、いいや。取り敢えず、もう一人の先輩に逢わせてもらえます?」
「え? でも、彼は毒舌というか、言いたいことを言うヤツみたいだけど」
「言いたいことを言える人と喋ってみたいんで、全然オッケーっす」
「いや、でも、彼に替わると僕は意識が保てないし……」
「あーもう、冬に一緒にここに来る、それは約束しますから」
「絶対に?」
「ええ、立夏は嘘を吐きません」
「じゃあ……ちょっと待ってて」
良太の、俺に委ねようとする意識、曖昧に、混沌としていく感情。
逆に、明確になってくる感覚、断片的だった情報が繋がり、靄が晴れるような意識。
「ったく、何で替わるんだよメンドクセー」
「うわっ、全然違う!」
「楠田立夏」
「はいな!」
「お前のことなんかどうでもいいが、良太を悲しませる要素は排除しておきたい」
「え、あたし、消されるの?」
「だからお前が消えると良太が悲しむって言ってんだろうが」
「あれれ? なんか勘違いしてません? あたし、ここから見る風景が好きなだけだし?」
緑いっぱいの風景に溶け入るような人間の小さな営みと、遠く広がる海と空。
高さが怖くない人間なら、随分と手前にある柵は邪魔でしかないが…。
「お前の立つ位置から右に30度ほど、距離は600メートルくらい」
「は?」
「緑の中に、盛り上がってる部分はあるか?」
「あ、ある! もこもこって。大きな木?」
「スダジイ、樹齢800年ほどだ」
「ほえー」
リツは素直に感心していて、わりと感受性豊かなように見える。
感受性豊かで傷付きやすいタイプと、感受性が麻痺して何事もどうでもいいと思うタイプがいるが、扱いにくいのは後者だ。
「正面やや左寄り、距離は一キロほど、黒っぽい緑が飛び出してないか?」
「あるある」
「スギ、樹齢1200年と言われている」
「えーと、平安時代?」
「そうだな」
「もしかしてあたし、プロポーズされてる?」
「しとらんわっ!」
「でも、さっきの人もカノープス見て一緒に長生きしようとか言ってたし、アンタも大樹のように末永く生きようって」
そういう解釈も可能……か?
「人間なんて、たかだか100年くらい。だったらせいぜい長生きしましょうよってことだろうが」
「なんかやっぱり勘違いされてるっぽいけど、まあいいや」
リツはそう言って、長いスカートが引っ掛からないように気にしながら柵を乗り越えてきた。
「勘違いならそれでいい。お前は──」
「りょーたー!」
暫し出逢った頃に思いを馳せていたら、耳元で呼び掛けられて思考が現在に戻る。
リツが俺の枕元に座っている。
短いスカートで体育座りをしているから、俺が顔を左に向ければ下着が見えてしまう。
「ゴホッ!」
あまりに至近距離だったので咳き込む。
「だいじょぶ? ていうか志藤?」
「あ、ああ」
「ちぇー」
「だから、ちぇって言うな」
「ちぇっ、じゃなくて、ちぇーだって」
「ちぇぇ?」
「違う、ちぇー」
「ちぇー?」
「そうそう」
なんで俺は発音指導を受けているのか……。
「熱は?」
何だかんだ言いながら、リツは心配そうな顔をする。
「たぶん無い。ただ怠いだけだ」
「怠いの怠いの、とんでけー?」
「何で疑問形?」
「だって、ホントにこんなこと言う人いるの?」
「お前は幼い頃、親に言われたことは無いのか?」
「んー、無いなぁ」
無邪気なような、それでいて、割と真面目な顔をして言う。
チクリと、どこかが痛む気がした。
リツのお祖母さんは昔から知っているし、気弱で優しい人だ。
リツの母親は綺麗な人だったが遊び人で、学校卒業と同時に都会へと出て行ったきりだ。
離婚した相手がどんな人かは知らないが、リツを引き取っていないことからして、愛情豊かな人間とは思えない。
「……寂しいとか、悲しいとか、痛みも苦しみも、全部とんでけー」
つい、そんなことを言う。
「あは、何それ」
「確実に効くおまじないだ」
「そか、確実に効くんだ」
「ああ」
リツはニッコリ笑う。
コイツが笑うと、周りがぱーっと明るくなるようで、見る者の気持ちを暖かくする。
ふわっと心が解きほぐされるみたいな、麗らかな春の日差しみたいな……。
時計の音、窓の外のせせらぎ、枕元で俺を覗き込む日向みたいな女の子。
心地よくて、タイミングが悪いと思いつつも眠気が訪れる。
「ねーむれー、ねーむれー」
おまじないの次は子守唄か……。
「志藤も良太も……」
最近のリツらしくない表情を朧気に見る。
リツの言葉は、虚ろに溶けて、ちゃんと聞き取れなかった。
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