第16話

…………

……

頭がぼんやりと覚醒していく。

薄暗い部屋。

この明るさは、机の電気スタンドを灯したときのものだ。

あれ? 点けっぱなしで寝たっけ?

微かな、心地いい音が部屋に響く。

頁を繰るときの、紙が擦れる音。

僕は寝ていたのに、何で僕の部屋で物音が?

……。

──あっ!

しまった!

寝ずにいようと思っていたのに、僕は規理乃ちゃんをほったらかしにして眠ってしまったようだ。

外はもう暗くなっているし、送らなきゃ!

布団を跳ね除けて起き上がると、机に向かっていた規理乃ちゃんが振り返る。

「起きたのね」

仄暗い部屋のせいか、規理乃ちゃんが柔らかな笑みを浮かべているように見える。

「どうして?」

「何が?」

時計を見ると、8時過ぎだ。

「こんな時間になるまで……」

規理乃ちゃんは時計に目をやってから、ちょっと驚いた表情になる。

「ごめんなさい。勝手にあなたの本棚にある本を読ませてもらってたの。いつの間にかこんなに時間が経っていたのね」

「そうじゃなくて、僕が眠ったなら、帰ってくれてよかったのに」

「眠るときに傍にいた人が、目覚めたときに居ないと心細くならない?」

規理乃ちゃんはそう言って、私だけかしら、という呟きを付け足して自嘲気味に笑った。

確かに僕は、心細くは無かった。

確かに僕は、満ち足りていた。

目覚めた時に規理乃ちゃんが居なかったのなら、僕はこの充足感を得られなかっただろうと思う。

「ありがとう」

自然と口をついて出た言葉。

「私は、ただここが居心地が良かっただけよ?」

本の数は千冊以上。

その全てを読んだわけじゃなくて、父や母が遺してくれたものもあってジャンルは多岐に亘る。

紙の匂い。

慣れ親しんで判らなくなっていた匂いを気付かせるのは、どこかに規理乃ちゃんの匂いが混じっているからだろうか?

「蔵書から、趣味嗜好を読み取ろうなんて思ったけど、難しいものね」

「あ、お父さんとお母さんが読んでいた本もあるから」

僕の部屋に幾つもある本棚を見回して、規理乃ちゃんは納得がいったような顔をする。

「そういえば、ご両親は?」

「え? あ、二人とも勝部町の旅館で働いているから、いつも遅いんだ」

咄嗟に誤魔化してしまう。

「そう」

規理乃ちゃんは納得したようだが、どこか思案顔で窓の外に顔を向けた。

「居心地がいいのは、本が多いからだけじゃないのよ?」

「え?」

僕は、規理乃ちゃんが惹かれるであろうものに想いを巡らせる。

静寂? 仄暗さ? 窓の下から伝わってくるタロウ達の気配?

「あれは、カジカガエルよね?」

聞こえていたはずなのに、規理乃ちゃんに指摘されて初めてその音を捉える。

まるで鳥の囀りのような、この季節の風物詩。

蛙とは思えない美声を、僕は聞き流していたのだろう。

「それから、せせらぎの音」

ああそうか、カジカガエルよりも、常に寄り添うようにある、もっと当たり前の音のことを忘れていた。

「寮の部屋より落ち着くわ」

僕にとって慣れ親しんだ音が僕に落ち着きをもたらすのと同じように、規理乃ちゃんにとって新鮮な音が規理乃ちゃんを落ち着かせるのは、とても不思議なことのようでいて、実は僕らの根幹は同じなんだと思わせる。

たとえどんな都会で暮らそうと、僕らは自然の中に生まれ、自然の営みの中に生きているのだと思うから。

「気に入ってくれたなら、いつでも好きなときに来てくれていいよ」

「そういうわけにはいかないでしょう?」

「玄関の鍵をかけることは無いし、僕がいなくても勝手に上がって、好きなように本を読んでくれたり、タロウ達と遊んでくれていいから」

何故だか規理乃ちゃんが、頭を抱えるように額に手を当てる。

「ごめん、何か価値観とか、常識が都会とは違う?」

「べつにあなたが謝ることじゃないの……ただ、私は人との距離感を測るのが苦手だから、戸惑ってしまうだけ」

「動物は好きだよね?」

「え? ええ」

「ここはタロウ達の家。彼等との距離感も気にする?」

「それは……無いけれど」

「だったら問題無し。僕はタロウ達と同じだから」

「あなたって、ヘンな人ね」

「変って、プラスにもマイナスにもなる評価だよね?」

「どちらになるかは保留しておくわ」

「うん、頑張るよ」

また規理乃ちゃんが頭を抱えた。


「そろそろお暇するわ」

身体は随分と楽になっていたので、僕も立ち上がる。

規理乃ちゃんは制止しようとするけど、強引に玄関先まで見送ることにする。

玄関を出ると、せせらぎや虫の声が迫ってくるかのように賑やかになる。

寒さは感じず、心地よい空気が流れていた。

「タロウ、学校まで送ってあげて」

そう声を掛けると、どういうわけかジローが立ち上がる。

え?

思わず固まってしまうほど驚く。

でも何故か、規理乃ちゃんの方が、前を向いたまま固まっていた。

「どうしたの?」

「飛び交う発光体がいるわ!」

もうそろそろだろうな、とは思っていたけれど、わざわざ夜に出歩くことはないから、見ないまま季節が通り過ぎてしまうこともある。

今年は多いようで、家の前の小川に沿って、光の帯が揺れ動いている。

やっぱり、綺麗だなぁ、と思う。

「光源から、殆ど熱感知できないっていうアレよ!?」

「素直に蛍って呼べない理由でもあるの?」

「……綺麗すぎて、はしゃいでしまったの」

何それ、可愛い。

規理乃ちゃんが、空に手を伸ばす。

白くて細い指に誘われるように、一匹の蛍がすーっと飛んでくる。

子供の頃、誰もがした仕草だ。

でも、有り触れた、あるいは、見慣れた光景を、規理乃ちゃんは特別なことに変えてしまう。

規理乃ちゃんの指先が光る。

まるで少女みたいな目をして、規理乃ちゃんが笑う。

僕は息を呑み、そんな規理乃ちゃんに目を奪われていた。

待ちぼうけを食らわされているジローは、ちょっと拗ねていたけれど。


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