第15話

目覚めて身体を起そうとすると、力が入らず身体が重い。

少しく戸惑ってから、気分が悪いことにも気付く。

どうやら熱を出してしまったらしく、昨日、雨に濡れたのが良くなかったようだ。

というか、昨日?

僕は連絡帳に目を通すけれど、やっぱり良二の新たな書き込みは無く、三日連続で僕のままということになる。

自分のせいで熱を出したのだから、今日が良二でなくて良かった。

雨が好きだからといって、雨に強いわけじゃないんだなぁ、と思って苦笑する。

そういえば、タロウの方は大丈夫だろうか?

気になって重い身体に鞭打って立ち上がる。

窓の下を窺うと、元気なタロウ達の姿が見えた。

サブロウが窓を見上げて尻尾を振った。

もう散歩の時間は過ぎている。

行かなきゃ、と思うと同時に、ジローが駆け出して、階段を上ってくる気配が伝わってくる。

鍵はかけていないし、引き戸だからジロー達でも開けられる。

リードに繋いでいるわけでもないので、いつだって家の中に入ろうと思えば入れるのだけど、普段は絶対に家には入らないように言い聞かせている。

それなのに、やっぱりアイツは無鉄砲だなぁ、なんて思いながら、僕は窓から離れ、布団に蹲ってしまう。

ジローが、僕の頬を舐めた。

気性は荒いけど、お前は優しい子だね……。

目蓋の重さに負けてしまうまでの少しの時間、僕はジローの温もりを感じた。


再び目覚めると、枕元にいたはずのジローは居なくなって、何故か規理乃ちゃんがそこに正座していた。

え? 夢?

西日が差し込んでいるから、結構な時間が経っていることは判る。

「いつものように、あちこち歩いていたら、ゴローが私を見つけて、この家に入るように促したのよ? その……勝手に入ってごめんなさい」

「……本物?」

「私の偽者がいたりするの?」

「そういうわけじゃないけど、僕の部屋に規理乃ちゃんがいるなんて信じられないから」

「そんな大層なことじゃないと思うけれど……でも、男子の部屋に入るのは初めてね」

「ほら、凄いことだよ!」

「まあ、私にとっては」

何故だか規理乃ちゃんは自嘲気味に笑う。

「そういえば、規理乃ちゃんが来たとき、ジローはいなかった?」

ジローは誰にも懐かない。

それどころか、見知らぬ人には凶暴な唸り声を放つし、シェパードの血が入っているらしいその姿は、見た目だけでも怖がられる。

「あの子がジローなのか知らないけれど、精悍な顔つきの子が、あなたを見守るように枕元に座っていたわ」

「え、吠えたり唸ったりしなかった!?」

「とても知性を感じさせる静かな瞳で私を見たの」

「え?」

「あなたは偉いね。あとは私に任せて、って言ったら、みんな達のところへ戻ったわ」

信じられない。

でも、規理乃ちゃんなら、と思わないでもない。

何より、嬉しくて堪らない。

僕の家族と、あの人以外に懐かなかったジローが、規理乃ちゃんを受け入れてくれた。

「それで……任せてと言った手前、お粥を作ってみたりしたのだけど……」

「え?」

僕は驚いてばかりだ。

「勝手に台所を借りてごめんなさい。一応、寮で自炊はしてるから食べられないことはないと思うけど……温めなおしてくるわね」

…………

……

「どうぞ、召し上がれ」

ちょっと照れくさそうに規理乃ちゃんが言う。

なにこれ!? と思うくらい幸せな気分になる。

正直、熱のせいか味は判らなかったけれど、僕は満ち足りて、気分の悪さも消し飛んでしまった。

「えっと、鼻をかんでいい?」

「ここはあなたの部屋だし、あなたは病人なのよ?」

「いや、でも、規理乃ちゃんはお客さんだし……」

「客じゃなく、お見舞いに来ただけだから」

その言葉に甘えて僕は鼻をかむ。

「ほら、貸しなさい」

「え?」

何のことか判らずにいる僕の手から、規理乃ちゃんはティッシュを奪い取る。

ゴミ箱は部屋の隅にあって、僕からは遠いけれど……。 

「……えっと、汚く思ったりしないの?」

ティッシュをゴミ箱に捨てて、再び僕の枕元に正座した規理乃ちゃんに訊ねる。

一瞬、規理乃ちゃんは怪訝な顔をしてから、ふと気付いたように僕を見る。

「……どうしてかしら?」

「いや、僕に訊かれても」

「……まあ、汚くないんでしょう」

「え、そんな納得の仕方?」

「納得なんて、本人次第でしょう?」

「それは、そうだけど」

「あなたも納得しなさい」

「え、あ、うん」

「……」

何故だか黙り込む規理乃ちゃん。

「どうしたの?」

何故だか首を傾げるような、斜め上を見るような仕草をする規理乃ちゃん。

「例えば…例えばだけど、私が風邪を引いて鼻をかんだら、あなたは私に幻滅するのかしら?」

「え? どうして?」

「……不思議そうな顔されると嬉しくなるのだけど」

「え? どうして?」

「……」

「あれ? なんか呆れられてる?」

「あなたは自分のときは汚いかと心配するのに、私の場合は汚いということに思いも寄らないの?」

「あ、そう言われれば……でも、思いも寄らないことだよ? 指摘されても変わらずに」

「鼻水を垂らしているのよ?」

「あは、ちょっと可愛いかも」

「っ!? 鼻水を垂らしているのよっ!?」

「え? あ、うん」

「……もういいわ」

規理乃ちゃんの期待した答えではなかったのか、プイと横を向く。

それでも楽しいと思えるのは何故だろう?

そんな、せっかくの規理乃ちゃんとのひとときなのに、強烈な眠気が僕を襲う。

僕も規理乃ちゃんの看病をしてみたいなぁ、なんて、眠りに落ちる前の曖昧な思考で思わないでもないけど、辛そうな姿は見たくは無いから、ただの風邪であっても規理乃ちゃんを避けて通ってほしい。

「寝ていいのよ?」

何度も閉じそうになる目蓋に、規理乃ちゃんが気付く。

「あ、でも、お客さんを放って寝るなんて……」

「客じゃないと言ってるでしょう。いいから寝なさい」

命令口調なのに、いつものような強い視線じゃなくて柔らかく睨む瞳。

眠るのが勿体無く思えるのに、睡魔は僕を逃してくれない。

熱による気分の悪さは掻き消えて、僕は眠りへと落ちていきそうになる。

外が暗くなる前に帰ってもらわないと……。


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