第8話
午後の授業を、どこか上の空で受ける。
遠く、トンビの鳴き声が聞こえてきたので窓の外に目を向けると、同じく窓の外を見ているらしい椎名の後ろ姿が目に入る。
俺と同じように、授業に身が入らないのかと思いきや、何故か俺を睨みつけて、それから再び窓の外を、というより、空に目を向ける。
午後から急速に広がりだした雲。
今にも雨が降り出しそうで、教室の空気も湿度を帯びる。
梅雨に入るのだろうか。
視線を右に転じれば、雛が前髪を気にしている。
湿度が高くなると、雛の髪は変な方向に跳ねるから、雛は雨の日が大嫌いだ。
そんな雛の都合などおかまいなしに、ポツリ、という音が聞こえてきそうな感じで窓に水滴が当たり出した。
椎名が、腰を浮かし気味に俺を見る。
コイツは、いったい何をそんなに焦っているのだろうか?
「傘を持ってきてないのか?」
教師にバレないように、小さな声で問いかける。
寮までの距離を考えると、傘が無いことくらい些細な問題であることは判ってはいるが、雛が髪を気にするように、椎名は椎名で、何か雨を嫌う事情があるのかも知れない。
椎名は、冷ややかなのに、火傷しそうなくらいの強い視線を返してきた。
理不尽な気もするが、改めて、椎名は綺麗だな、とも思う。
切れ長で黒目がちな瞳、何か言いたげな唇は桃の花色みたいで、綺麗だと思ったばかりなのに、その認識を新たにする。
授業終了のチャイムが鳴った。
同時に、鞄も持たずに椎名は駆け出した。
昇降口で立ち尽くす椎名の背中に追いつく。
雨脚が強くなって、外は白いヴェールを描き、椎名の後ろ姿を浮かび上がらせる。
何だか近寄りがたいものを感じたが、椎名は俺に気付いて振り返り、いつもより更に強い視線を投げかけてきた。
「ゴロー達は!?」
「え?」
「30分ほど前、あの子達が校門から入ってくる姿が見えたの! どこにいるの!?」
「そのゴロー達の中に、黒っぽいデカい犬はいたか?」
「え? ええ」
ということは、タロウも来たのだろう。
「だったら寮の横の楠の根元にいるんじゃ──」
言い終わる前に、雨の中、椎名が駆け出す。
タロウは大木の根元が好きだ。
それに、木の下は少々の雨なら凌げる。
俺は今日、傘を持ってきていないので、空を見上げて少しばかり躊躇うが、まあ仕方ないと思い、ゆっくりと後を追う。
遅い! と言わんばかりに椎名が睨んでくるが、まあ構うことはない。
「右から、タロウ、サブロウ、ゴローだから」
「あなた、傘は?」
「いや、持ってきてないけど?」
「……役立たずね」
えらい言われようだ。
ただ、椎名が何故さっきから刺々しいのかは判った。
タロウ達を雨ざらしにしていることを怒っているのだ。
「お前さあ、犬は少しくらい雨に濡れることなんて、何とも思ってないぞ?」
「それは……そうかも知れないけれど……」
まだ不服そうだ。
「そもそも、コイツらは気まぐれで学校に来るんだ。平均すれば、週に一回くらい。二日連続で来ることなんて、まず無い」
「そうなの?」
何故か椎名は、俺じゃなく、タロウ達を見て言う。
タロウは尻尾を振り、サブロウは俺の顔を窺うように見て、ゴローは「ワン」と吠える。
「たぶん、お前に逢いたくて、ゴローが誘い合わせて来たんじゃないのかなぁ」
「え? でも……私が?」
何やら自己嫌悪に陥ったのか、椎名は項垂れる。
恐らく、俺が言ったことは事実で、ゴローは椎名が気に入り、タロウ達を誘ったのだ。
で、全員が家を空けるわけにはいかないから、相談の上? かどうかは知らないが、ジローとシロが留守番することになったのだろう。
「ちょっと待ってて、傘を取ってくるから」
罪悪感を覚えているのか、椎名は寮の自室へと駆けていく。
「いったいアイツは、何なんだろうな?」
俺はそう独り言ちて、タロウと目を合わす。
ゴローが横から、何か言いたげに俺の膝に前脚を乗せてきたが、イマイチ意図が読めない。
「んー、よし、お前は今日はお泊りだ」
俺はゴローに指令を出す。
ちゃんと理解したのか、ゴローはピシッとお座りの姿勢で俺を見た。
「では任せた」
「何を任せたの?」
駆けて戻ってきた椎名が傘を差し出しながら問う。
それなりに高そうな傘だ。
「透明のビニール傘は無いのか」
「ごめんなさい。持ってないわ」
「ちゃんと別に、お前が使える傘はあるのか?」
「ええ」
紺色、というかネイビーというべきか、外側に白いラインが入っているものの、男が差してもおかしくはなさそうな傘で、他の傘がどんなものかは知らないが、たぶん、その辺の気配りはしているのだろう。
が、やはり女物で、広げてみると少し小さい。
「ゴローのことは頼んだ」
「え?」
「この傘じゃ全員は入らん。ゴローは納得している」
「え? でも、え?」
「悪いけど一晩よろしく」
「ちょっと──」
「んじゃ」
俺は有無を言わさず歩き出す。
みんなちゃんと理解しているらしく、タロウとサブロウは俺と足並みを合わせ、ゴローはその場に留まる。
椎名だけが理解しておらず、戸惑いながら足元のゴローと俺の間で視線が行き来する。
多少、強引かとは思ったが、なかなか打ち解けようとはしない椎名に対しては、これくらいした方がいい。
だから俺は、そんな椎名を放置して校門を出た。
見えなくなる手前で、俺は最後に振り返る。
椎名は──ゴローを胸元に抱いて、その前脚を掴んで手を振らせていた。
なんでだ。
俺は帰り道、最後に見た椎名の姿を反芻しては、頬が緩んだのだ。
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