第7話

教室に入ると、最初に椎名と目が合った。

こんなことは初めてで、珍しいことにあいつは、窓の外ではなく廊下側に目を向けていたということになる。

もしかしたら昨日の出来事が、椎名の心境に何か変化をもたらしたのだろうか?

タケルも雛もまだ来ていない。

話すなら、まだ人の少ない今の方がいい。

そう思って俺が歩みを進めると、瞳が挨拶してきたので返事をする。

「あれ、今日は志藤君?」

リツと同じように、挨拶だけで俺と気付く。

「ああ」

視野の隅で、椎名が興味を失ったかのように、窓の外に目を向けている姿を捉える。

あれ? どっちが早かった?

俺と瞳が挨拶を交わしたのと、あいつが窓の外に目を向けたのと。

べつにまあ、どうでもいいことではあるし、ただの偶然かも知れないのに、何故か気になる。

「志藤君?」

瞳が俺の顔を覗き込む。

学級委員長で、俺たちの姉的存在。

もちろん同い年だけれど、しっかり者で、みんなに頼られている。

「おお、今日は眼鏡っ子の日か、俺はそっちの方が好きだな」

瞳は気分によって眼鏡とコンタクトを使い分ける。

本心を言えば、好き嫌い、似合う似合わないの問題じゃない。

名前の通り、特徴的な大きな瞳。

天野瞳。

天野家の血を引く瞳は、眼鏡を通してくれた方が遣り過ごし易い。

「もう! そういうのはいいから」

瞳の照れたような所作。

いや、そういうのはいいから。

俺は愛想笑いを返して自分の席に向かう。

椎名は変わらず窓の外に目を向けていたが、昨日はサンキュ、とだけ呟くように伝えて席に着く。

だが……返事どころか微動だにしねぇ! とムカつきながら授業を受ける羽目になった。


昼休みは自席で自作の弁当を食うのが常だが、ふと思うところがあって弁当を持って教室から出る。

わざわざ後ろを向いて俺の机に弁当を広げていたタケルが、濡れそぼった野良犬みたいな顔をして俺を見ていたが、まあ犬ほど可愛いわけではないから無慈悲に切り捨てる。

椎名はいつも、教室で弁当を食べない。

勿論、この学校には学食や購買なんてものもない。

弁当を持ってどこかへ移動する姿をいつも見てきたが、どこで食べているのかは知らないままだ。

空き教室を見て回り、体育館を覗き、校庭を見渡す。

寮の自室で食べているならお手上げだが、それなら最初から学校に弁当を持ってこないだろう。

まさか便所メシ? それもお手上げだが、そんなことをするくらいなら寮で食べるはずだ。

そもそもアイツは、一人ぼっちなのではなく孤高なのだから、便所メシなどする必要もない。

あとは校舎裏だけか。

日当たりが悪く、木々が繁っていて狭いから、可能性は低いと思ったんだが…。

校舎裏には鳥居と小さな祠がある。

創立当初からそれはあって、時には生徒が手を合わせることもあるが、普段はひと気の無い場所だ。

椎名はその祠の向かいにある、校舎の土台の段差に腰掛け、膝の上に小さな弁当箱を載せていた。

「よっ!」

出来る限り快活に挨拶。

「何の用?」

ひどく冷めた声で返される。

良太はよくこんなヤツの相手をしたなぁ、と感心してしまう。

まあ、それでも俺は、構わず隣に腰掛けるのだが。

「あと30センチ離れてくれると有難いのだけど」

……言われた通りにする。

大体、教室の隣の席の距離感。

それがコイツのパーソナルスペースということなのだろう。

「それで?」

意味も無く、とか、何となく、とか、ただ単にといった曖昧さは許されそうにない。

明確に、何のために、ということをはっきりさせないと、こいつは傍に寄ることすら認めないのだ。

でも、隣に座ること自体を拒絶したわけではない。

「ここに転校してきた理由が知りたい」

高校二年の5月という中途半端な時期に、こんな僻地に転校してくるには、それなりの理由があるはず。

「あなたに言う必要性は感じないわ」

「探し物は見つかりやすくなるかもよ?」

キッ! という音がしそうなくらいの鋭い視線が左の頬に突き刺さる。

俺はそれに気付かないフリをして、目の前にある鳥居に目を向けた。

鳥居も祠も何度か改修されているが、それでも二十年以上前のことだから、やや古びてきてはいる。

背後に続く木々は、カシやシイを中心とした照葉樹林。

これは学校の創立以前からあって、概ね百年以上は経っているだろう。

勿論、二百年以上のものもあるだろうが、割と淘汰されるものも多いようだし、百年や二百年では、それほど大木にはならないようだ。

樹種や生育条件にもよるけれど、やはりそれなりの風格を具えるには、五百年くらいの歳月が必要だと感じる。

……それはともかく、頬に突き刺さったままの視線に耐え難くなってきた。

「こんな場所に転校してきたこと、そしてその時期、放課後にあちこち歩き回っているという目撃情報からすれば、何らかの意図や探し物があるかと考えるのは普通だろう?」

俺の指摘に、椎名の視線が少し弱くなる。

「余所者が、知らない土地で探し物をするのは難しい。それが趣味、例えば植物だとか鉱物の採集、あるいは僻地の風俗(性風俗ではない)調査だとか、歴史的なものへの探求心だったら邪魔するつもりはない。だが、放課後にあちこちで見かけるお前の姿は、ひたむきに過ぎるんだよ」

椎名の視線は、足元へと落ちる。

膝の上に載った弁当は、一向に減る気配が無い。

それは彩り豊かで、ああ、コイツは料理が上手なんだな、と思う。

だけどコイツは、人付き合いが下手なんだなと思う。

「地元の人間を味方にした方が、何かと都合がいいだろうが」

「……ここの人達を、信用してないから」

「そうか」

そんな風に、最初から他人を疑ってかかるには、いったいどんな理由があるのだろう?

「気分を害したりしないの?」

「まあ、俺だってお前を信用してないしな」

「やっぱり、お互い関わらなければいいんじゃないの?」

「んー、でも、良太がお前のことを信用してるからなぁ」

「彼が?」

「ああ、彼が、だ」

「彼のことは、少しだけ信じてもいい気がするわ」

意外なような、そうでもないような答えが返ってきた。

コイツは孤高で、一人でも生きていけるように見える。

だが──こんな見知らぬ土地に、親元から離れての一人暮らし。

しかも僻地で、気晴らしに遊べるような場所もないし、自分以外は顔見知りばかりの閉鎖社会。

心細くないわけがない。

「だったら良太を頼れ」

俺にとって信用できるできないは別にして、コイツにも一人くらい頼れる存在がいてもいいのではないかと思う。

「それは、ちょっと難しい注文だわ」

「なぜ?」

「私は男性が苦手だから」

「うぇ?」

「何よ? カエルが踏まれたような声を出して」

「お前、カエルを踏んだことがあるのかよ?」

「……ごめんなさい」

わりとひたむきなものを感じさせる謝罪に戸惑う。

「いや、俺に謝られても」

「わざとではないのよ?」

「わざとだったら引くわっ!」

「ちゃんと埋葬はしたから……」

「子供かよっ!」

「え?」

純粋な疑問を宿した瞳を俺に向け、小首を傾げる。

普段の怜悧な様子が掻き消えて、愛らしい姿になる。

ああ、良太は見抜いていたんだな。

俺は人を見る目には自信があったのに、こんな椎名の姿は想像も出来なかった。

「それはそうと、どうして変な声を出したの?」

「お前、色々と噂が立っているのを知ってるか?」

「……ええ、まあ」

どこか複雑なような、曖昧なような表情。

基本、無表情だと思っていたが、強引に話しかけてみれば、コイツは案外と多彩な顔を持っているようだ。

「えっと、男ったらしだとか、妻子ある男性との援助交際がバレて、学校にも近所にも居づらくなったから田舎に引っ越してきただとか、堕胎をしたから心身の療養だとか?」

堕胎の噂は知らなかった……。

それはともかく、椎名は表情を殆ど変えないのに、その目はどこか泣き笑いを思わせるように揺れていた。

たぶん、この学校でいちばん長いスカート丈。

田舎の野暮ったい制服を少しでもおしゃれに見せようと、みんな丈を短くしたりするのに、座っていても膝を隠す長さ。

野暮ったいどころか、何故かそれを、お嬢様然と見せてしまう椎名の立ち居振る舞い。

立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。

俺は芍薬の花姿も、牡丹の艶やかさも、百合の凛とした佇まいも知っているが、そんな古い表現が似合うヤツではあると思う。

「逆に訊きたいのだけど」

「うん?」

「私は幼稚舎からずっと女子校にいたから男性が苦手なのだけれど、どうしてそんな噂が立つのかしら?」

今時、幼稚舎から女子校!?

そんな無菌培養みたいな環境があるのかよ!?

「なんかスマン」

そう言って俺は、椎名との距離を更に50センチほど広げた。

椎名は俺の顔を、キョトンとした表情で眺めてから、目を伏せるように弁当箱に視線を落として──ほんの少し、口元を綻ばせた。

風が吹いたわけでもないのに、ざわざわと木々が騒ぐような感覚。

いや、どちらかと言えば、暖かい春の日に、一夜開けてみれば桜が満開になっていたときのような心の賑わいだろうか。

そんなことを考えていたら、昼休み終了の予鈴が鳴った。

「あ、悪い! 昼飯の邪魔をしてしまった」

椎名の弁当箱の中身は、まだ半分ほども残っている。

「いいわ、割と有意義だったから。やっぱり、たまには人と話した方がいいのかも知れない」

それは、当たり前のことだ。

そんな当たり前のことを、椎名は有意義だったと言った。

あれ? もしかして俺にとっても有意義だったのだろうか?

椎名のことを、少しばかり信用している俺がいた。


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