第3話 マニュアルのない子育て

 学校教育を受けたバカになった親にとって、マニュアルのない子育てを想像することは難しいでしょう。誰かに教わらないと何もできない。これが学校教育による弊害です。


 マニュアルがない子育てはのテーマは「自由」になると思います。しかし、今や「自由」ほど不自由なものはないと感じるかもしれません。それほど自由のない世界となってきています。


 大抵のことには決まりごとがあり、それに則って事を進めるなければなりません。だからこそ、その決まり事を知るために勉強しなければならない。それは、勉強させるために決まり事を作っているようにも思えなくもありませんが。


 とは言え、社会を生きるためにルールというモノが作られている。もう、それは当たり前になっており、ルールなき社会は考えられないでしょう。そして、そういうルールに守られる社会では、問題が起こるたびにルールが増やされていく。


 それは、まるで幼稚園や小学校を彷彿とさせるわけです。つまり、ルールが多い社会とは進化した社会ではなく、むしろ後退した社会なのです。人間社会がこうやって後退していくのも、「学校で勉強するからバカになる」ことで起こるわけで、毎度毎度引用するのは飽きてきたので今後は止めときます。


 何故、こうしたことを書いたかと言えば、こうしたルール多き社会は非常に不自由だと思うのです。恐らく、自由に生きようとして不自由になるというアベコベな状況があり、これもまた「アベコベ社会」が作るアベコベ現象であり、これもまた、バカになったから起こることなのです。


 「自由」をテーマにする子育ては、この不自由な社会を変えることが目的であります。理想とするのは、誰もが自由に生きれるルールなき社会。


 「えっそんな社会が出来るの?」と言われるかもしれませんが、「学校で勉強してバカになる」反対の現象、つまりは、自分で考えて賢くなる人が増えれば、そういう理想的な社会が誕生すると思うわけです。


 「自由」とは、自分で考えて行動するから実現するモノであり、他人に言われた通りにしている限り永遠に手に入らないモノだと思います。ここで恐ろしいのは、他人に言われた通り生きる人たちが、決められたルールの中で自由に生きることを自由だと錯覚することです。


 そういう限られた自由を自由と呼んではいけないと思います。何故なら、それは、不自由な部分を忘れているだけだから。ある種の偽物と言えるでしょう。現在の世界には巧妙な偽物が多いので、何が本物で何が偽物か分からない時代ではありますが、時間と共に色褪せるモノが偽物であり、そうでないモノが本物と言えるでしょう。


 基本、危ないことを除き、我が子には何でも自由にさせるべきだと思います。


 その自由な行動には当然責任というモノが付きまといます。もちろん、幼い子にその意味は分からないでしょう。でも、自由に行動した結果、自分が被る現実がそれを教えてくれるわけです。


 これが、本来の学びというモノだと思います。それは、別の言葉で言えば「経験」と言えるでしょう。自由にさせることで経験が増えるわけで、それが人の財産になるのではないでしょうか。


 そして、その財産を親と共有できれば、その価値は更に高まるでしょう。恐らく、自由にさせることで親子の会話は広がるのではないでしょうか。


 大人と呼ばれる人間の最も愚かなことは、何でもやる前に判断してしまうことです。それは、失敗した人をたくさん知っているからという理由や、自分には優れた能力がないからという理由があるでしょう。


 いずれにしても、こうした現状が可能性を失わせるわけで、人生をつまらないモノにする大きな要素ではないでしょうか。こうした大人にするのも学校教育に拠るところが大きいのです。


 きっと、失敗したら笑われるとか、こんなことしたら何か言われるとか、他者からの評価を以上に気にする人が多いと思います。SNSなどでも同じように他者から良い評価を貰うためにやっている人も少なくないでしょう。


 他人から言われた通りに生きる人は、他人の評価が気になるのです。それとは反対に、自分で考えて行動する人は、他人の評価を気にしません。そういう人を、今では強い人と呼ぶのかもしれませんが、それは単なる生き方の違いなのです。


 ここまで読んだだけで、学校に我が子を任せることは避けるべきだと思えてくるのではないでしょうか。しかしながら、私もそうでしたが、我が子に「学校に無理していかなくていいよ」というと、逆に行ってしまうこともある。


 無理してでも行かせない方が良かったとも思えるのですが、それでは我が子の自由を奪うことにもなるわけで、仕方ないと思っています。その責めとして、親になった我が子たちを支える作業が残るわけです。まあ、それはそれで楽しいわけで、人生はどう転んでも楽しむしかないと思う次第です。


 とは言え、子どもたちには何の指図もしなかったことで、ある程度、自分で考えて行動する基礎は築けているのではないかと自負しています。どこまで、それが伝わっていたのかが分かるのが、子どもたちの子育てであると思っています。


 つまり、自分のやった子育ては、その子の子育てで答えが出るということです。


 自分で考えて行動させるのは、我が子が幸せになって欲しいからであり、我が子たちの幸せな日常を見ると、その目的は今のところ達せられていると思うので、こうした本が書けるわけです。


 私の考えは常に、こうした検証をしながら発しています。時として突飛な考えに思えることもあるとは思いますが、全ては自分なりに検証しての考えであることを、ここに明記しておきたいと思います。


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